《トマ蛍》獏にあげます 神の目の押収は、これでちょうど百人目。ざわつく民衆の中、トーマはその神像の前に投げ出されていた。
大丈夫、ここで大人しく神の目を渡しておけば、綾人や綾華にまで手が伸びることはしばらく防げる。これが最善なのだ。これしか、ないのだ。
社奉行に喧嘩を売るようなものだが、圧倒的な権力にしてみれば、トーマなど外から来たただの余所者に過ぎないのだ。異国の特徴を持つその金髪は、この辺りではよく目立った。
トーマが築いてきた繋がりが生む、そこそこの顔の広さも含め。見せしめとして、牽制として、ちょうどいい人材は他にいないだろう。
いやに冷静な頭が弾き出したその考えは、まるで他人事のようだった。
違う、他人事のように考えたかっただけか。
浮かぶのはうつろな目をした彼らの、神の目を失い、魂の抜けた廃人にしかなれなかったその姿。
自分も、そうなるのだろう。自分は、何をして生きていくのだろう。今まで通り仕事などできやしない、さすれば社奉行に居場所などなくなる。あてもなく彷徨い、朽ち果てるのを待つのみ。
苦しむ彼らを救うどころか、同じところまで堕ちていく。果たせなかった使命への悔しさと、それすら塗りつぶすほどの圧倒的な恐怖。
将軍が振り返るだけで、途端に空気が冷える。その鋭い瞳がトーマを射抜いた。
かたかたと揺れる神の目は、無力なトーマを見限ったようにあっけなく剥がれる。諦めきれなかった体が追い縋ろうと藻掻いたところで、無慈悲なその手に吸い込まれ光を失ったその目が戻ってくることはなかった。
少しずつ浅くなる呼吸に、ちかちかと視界が白み始めた。苦しい。遠のく意識に任せて瞼を下ろす。冷えた指先の感覚はもうない。だらり、と脱力すれば、もう二度と立ち上がることができないほどに体が重くなっていく。神の目の分、軽くなったはずなのに。そう自嘲したところで、同調する者も慰める者もいない。
立て、と乱暴に脇腹を叩かれた痛みに、仕事を放棄したばかりの目を慌てて開くこととなった。
数度瞬きを繰り返せば、その先は見覚えのない、いや、見慣れた天井。身じろぎすれば、自由に動く手に擦れた布がしゅっと軽い音を立てる。
窓から差し込む月明かりを頼りに見渡すと、そこにはいつもの神里屋敷、トーマに充てがわれた一室があった。
先ほどまでの景色は。震える手で枕元を探れば、こつりと神の目に当たった。
夢。
そう認識した途端、力の抜けた全身からぶわりと汗が吹き出した。頭の中まで激しい心音が響いてくる。
トーマの神の目はここにある。そうだ、実際には、直前で最悪は免れたのだ。
吸い込まれる神の目を取り戻す異邦の旅人――蛍。あのとき目の前に舞い降りた真っ白なその姿は、誇張ではなく、女神のように見えた。
その女神は今、すうすうと気持ちよさそうに眠りながらトーマの脇腹を蹴飛ばしたらしい。はだけた浴衣からはみ出た膝が刺さったままだ。
その脚に布団を被せた手は、未だに小刻みに震えている。あのときの恐怖は記憶のどこかにこびり付いたまま。今はもうそんな心配いらないとわかっていても、この心臓は落ち着きそうにない。光に透けるその金髪を梳いても、その冷たさではまだまだ足りなかった。
このまま眠れたとして、再びあの悪夢を見ない保証はない。どうか目を開けて、トーマを安心させてはくれないだろうか。あのときからずっと、トーマにとって、蛍は希望の光なのだ。
起こしてしまう忍びなさと、それでも渦巻く不安。ふわふわと彷徨った手は、結局蛍の頬を撫でた。
そのかすかな刺激に、待ち侘びた蜂蜜色が覗く。ぽや、と溶けた瞳がゆっくりとトーマに向けられた。ゆるく細められるだけで、張り詰めた気持ちが解けていく。
「……とーま」
「ごめんな、起こして」
「ん……ど、したの」
「なんでもないんだ」
「……うそ」
伸ばされた手がトーマの頬を撫でる。いつの間にか溢れていたらしい涙を拭っていった。
どんな時もトーマを守ろうとするその手に縋りたくなる。きっと蛍は、いつでもなんでも受け入れてくれると知っているから。それでも、だからこそ、その優しさにつけこむのは後ろめたさがあった。
そうして抑え込むトーマに、心の真ん中まで溶け込むようなやわらかい声がそっと囁く。
「だいじょうぶ」
トーマが何を思っているかなど知らないのに、何の根拠もないのに。蛍がそう言うだけでそうらしいと思えてくる。その根拠のない言葉が、トーマには必要なのだ。
広げられた腕のままにその豊満な胸元に擦り寄れば、とくとくとゆったりした音が包み込んだ。それに同期するように自身の心臓も凪いでいく。トーマより低い体温は、ほんのり甘い匂いを伴ってその不安を溶かしていった。
重なったふたつの心音に耳を澄ませ、目を閉じる。また穏やかな呼吸と共に目を閉じる蛍の背に手を回した。
もう大丈夫、このまま朝まで眠れる。そうして目覚めたら、今度はトーマが腕の中の日常を守り抜くのだ。
すっかり寝てしまったのだと思っていたのに、おやすみなさいと小さな声がトーマの頭に吹き込まれた。
生きている、トーマも蛍も。明日を憂うことなく、あたたかい布団に包まれながら今この瞬間の幸せだけを噛み締めていられる世界で。