【綾人蛍】この想いは発達途上穏やかな人だと思った。
纏う空気は凪いだ水面のように落ち着いていて、
妹を見る目はどこか懐かしくて。
その目が、今は行方知れずになっている兄の面影に重なる。そばにいると落ち着くけれど、時折心がざわつく。
そんな印象の人。
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神里屋敷前、ヒラヒラと舞う桜の花びらをぼんやりと見上げながら待ち人を待つ。屋敷の方から喧騒が聞こえてきて、やっぱりまだ忙しそうだなぁと溜息を吐いた。
久しぶりにゆっくりお休みが取れたから
どこか遊びに行きたいと頬を赤く染めた綾華に言われたのは数日前。社奉行はここ最近忙しそうにしていたから、折角のお休みなのに連れ歩いていいものかと考えたけれど、本人たっての望みだし、気分転換に外を歩くのも悪くないだろうと了承した。今はその綾華の準備待ちだ。
「あ、」
「おや、旅人さん。お久しぶりですね」
足音が聞こえたから振り返れば、待ち人ではなくその兄、綾人がいた。公務中なのだろう、やや疲れた顔をしている。じっと観察するような視線に気付いたのか、綾人は人当たりの良い笑顔を浮かべ、蛍の隣に並んだ。
「こんにちは」
「ええ、こんにちは。今日はどうされたんですか?」
なにか困り事でも?と続けた綾人に蛍は
慌ててふるふると首を横に振る。気遣いは無用だ。ここへは相談に来た訳でもないし、ただでさえ疲れている綾人に余計な心配はかけたくない。綾華と出掛けることをきちんと言っておいた方がいいだろう。
「綾華と待ち合わせなの。今日1日、妹さんお借りします」
「ああ、今日でしたか。
綾華が最近そわそわと落ち着かなかったのも納得ですね」
どうやら綾華は綾人に今日のことを話していたらしい。
ほっと胸を撫で下ろす。
「最近は忙しくて、あの子も穏やかな時間が少なかったでしょう。貴女と出掛けるんだって公務を頑張りすぎていましたから、息抜きさせてやってください。
貴女には迷惑をかけるかもしれませんが」
「そんなことない。私もすごく楽しみにしてた」
綾華は友達と出掛けたことがないのだと言っていた。
その綾華と初めてのお出掛け。蛍も蛍で冒険者協会の依頼をこなすのにモンドや璃月、稲妻をバタバタと走り回っていたから、久しぶりの休暇となる。楽しみにしないはずもない。
「それはよかった。
ところで、今日はパイモンさんはいないんですか?」
「デートだから、パイモンはお留守番」
実のところ、パイモンがいると食い倒れツアーになりかねないので、賄賂(たくさんの食べ物)を渡して洞天で大人しくしてもらっている。
何かが引っかかったのか、綾人は珍しく気の抜けたようにきょとんと目を瞬かせた。
「デート?」
「2人でお出掛けだからデート。
そうでしょ?」
本来男女が2人並んで出掛けることを言うのだろうけれど、同性同士でもそう言う人が増えてきたとのこと。
得意げになってそう言い返せば、綾人は楽しそうに笑う。
「ふふ、そうですか。
では、今度私ともデートしてくださいませんか?蛍さん」
「」
にこやかな笑顔で言われてしまい、反応に困った蛍がぴしりと固まる。決して嫌というわけではないが、これは本気にしていいものなのだろうか?社交辞令なのに本気で返すのは如何なものかとぐるぐると考え込めば、ぱたぱたと軽快な足音が近付いてきた。
「蛍!すみません、待たせてしまいましたね……
って、お兄様!こちらにいらしたのですね。
トーマが探しておりましたよ」
息を切らして駆けてきた綾華が、綾人を見て驚く。
先程から屋敷が騒がしかったのは、忙しいのもあるのだろうけれど、ここで道草を食っている綾人を探さす声だったらしい。どうやら何も言わずに屋敷から出てきたようだ。当の本人はけろりとしていて、大きく頷いた。
「ああ、わかりました。
綾華、楽しむのは良いけれど旅人さんに迷惑をかけないようにね。
では旅人さん、妹を頼みました」
「う、うん……」
「行って参ります、お兄様。
では参りましょうか、蛍!」
やたら楽しそうに張り切っている綾華に手を引かれ、神里屋敷から遠ざかる。振り返れば、楽しそうに手を振る綾人の姿が見えた。
八重堂で新作の娯楽小説を読み、
鳴神神社で御籤を引き、2人で桜を見上げ、志村屋で食事をし、小倉屋で反物を見た後、団子牛乳を飲んでほっと一息つく。パイモンがいなくても半ば食い倒れツアーのようなものになってしまった。本当は食べ歩きなどもしたかったのだが、「まだそこまでの勇気はございません」との綾華の申し出に頷き、店の近くに並んで腰掛けている。
「この飲み物、甘くて美味しいですね。
帰りにお兄様とトーマにも買っていきましょう」
「そうだね」
にこにこと楽しそうに笑う綾華にほっとしつつ、
綾人について思いを巡らせる。綾華と同じく綾人にも息抜きの時間を作ってあげたいような気もするが、大きなお世話だろうか。
「蛍?先程からなにやら考え込んでいる様子……
疲れてしまいましたか?
すみません、私、はしゃいでばかりで」
「あ!!えっと、ごめん、そうじゃないの」
申し訳なさそうにこちらを覗き込む綾華に、蛍は慌てて首を横に振る。一緒に出掛けているのに心ここに在らずでは綾華にも失礼だろう。彼の妹に相談するのも気が引けるが、このままではせっかくのお出掛けが台無しになってしまう。
意を決して事の経緯を綾華に説明した―――。
「綾人って何考えてるかわからない、っていうか。」
さっきのデートの件もそうだけど、冗談と本気の区別が付きにくい。困ったような表情を浮かべながらも、その実、さほど気にしていないことだってある。涼しい顔をして難題を解決させてしまう綾人に、蛍がしてあげられることなどあるのだろうか。デートのお誘いも軽い冗談のつもりだったのだろうが、その前に見せた疲れた表情を思い出すと心配になってしまう。
「だからね、今度皆で…………綾華?」
やたらと目を輝かせ、ふるふると震える綾華に首を傾げる。どうしちゃったんだろう。
「こ、これはもしや……!俗に言う、こ、恋バナ、というものなのでしょうか……!?」
「こっ……!?!?」
おかしい。そんな要素はなかったはずだ、たぶん。
「私、恋のお話って初めてです……!他でもない貴女と、私のお兄様……」
「あ、綾華……?」
「もし、お兄様と蛍が結ばれたら
蛍は私の義姉となるんですよね……私は大賛成です!」
「待って待って飛躍しすぎだよ綾華落ち着いて」
手に持っている団子牛乳の容器を落としかねないほど
興奮している様子の綾華の手から容器を回収し、首を振って否定する。楽しそうな綾華に申し訳ないがそういう話では無いのだ、本当に。
「でも、蛍はお兄様が気になるのでしょう?
疲れた顔を見れば心配してしまうほどに」
「いや、うん、でもほら、心配するって
恋慕以外にもあるでしょ?私が綾華を心配するのだって、友情から来るものだし」
「……そうですね」
少しだけしゅん、と肩を落として眉を下げる綾華を見ていると、頭を撫でたくなってしまう。妹の望みをなんでも叶えてやりたくなる兄の気持ちは、こういうものなのだろうか。けれど、それとこれとは話が違う。冗談とはいえデートに誘われた時はどきっとしたけれど、恋慕からではない。
「お兄様は弱音を吐かないんです……
部下たちにはもちろんの事、家族である私やトーマにまで。」
「……うん」
蛍は兄を思い出す。我儘を言っても最終的には笑って許してくれた空。彼も、あまり弱音を吐かない人だった。兄というものは、妹に弱味を見せない人間なのだと思う。
「だから蛍にお兄様の弱音を吐ける場所になって頂けたら、と思ってしまいまして……暴走してしまい申し訳ございません」
「弱音を吐いてくれるのは信用されてるって思えるから嬉しいんだけど、
綾人は私に弱音を吐くかな……?」
「……私はお兄様が他人に疲れた表情を見せることがないことを知っています。蛍に疲れた顔を見せてしまうくらいには信用してるんだと思っています」
にこりと微笑む綾華の表情は何処か寂しそうで、俯いたその輪郭が美しくてつい見蕩れてしまう。きっと今綾華が言ってくれた言葉たちは嘘偽りない本心で、そうあればいいと願いも入っていて。
けれどもやはり寂しいのだろう。家族である自分に1番に甘えて欲しいのに、重責を背負って立つ兄は自分を頼ってくれない。その寂しさは蛍にも覚えがあった。
大切な兄だから頼って欲しい、大切な妹だから頼れない。いつだって相対するのだ。
「それに、お兄様が仕事と関係なしに人と出掛けようとするなんて滅多にありません。
いつも1人で出掛けることが多いので……。」
「そうなのかなぁ」
「もし、蛍の重荷にならないのでしたら、
お兄様のことも連れ出してくださいませんか?
私のことをこうして連れ出してくださったように」
恐る恐る口に出された言葉にこくりと頷く。
確かに、妹である綾華よりも第三者である蛍の方が適任かもしれない。
「力になれるかは分からないけれど」
こくりと頷けば、綾華はありがとうございますと微笑んだ。
綾華を神里屋敷まで送り届けて、その姿が屋敷の中へ消えていくのを確認して振り返れば、門を潜ろうとする綾人の姿が見えた。
「綾人!」
「おや、旅人さん。おかえりなさい」
「た、だいま。」
彼の言うおかえりに戸惑ってしまったのは、その眼差しが空と似ていたから。懐かしくて、寂しくて、心が落ち着かない。
「どうでした?いい気分転換になれましたか?」
「うん、とっても楽しかった」
「ふふ、それはなによりですね。」
「それで、綾人」
「はい?」
「デート、いつする?」
「……これは驚きましたね。流されると思ってました」
ぱちくりと目を瞬かせ、綾人は蛍を見つめる。
蛍はというと少し恥ずかしそうに視線を逸らす。
異性である綾人とデート。綾華に言うデートとは違った意味合いを持つ気がして落ち着かない。
「しないの?」
「いいえ、貴女さえよければ2人で、デートをしましょう」
「またお留守番だとパイモンが拗ねそうだけど、いいよ」
拗ねて駄々をこねる相棒を想像してくすりと笑えば、釣られて綾人も笑い出す。予定を確認してトーマに連絡させます、と言って綾人は屋敷の中に入っていった。
それから、トーマから連絡が来たのは1週間後。
かろうじて取れた休みは1日。
連絡が来るまで何をしようか計画を立てていた蛍だけれど、綾人の顔を見た瞬間、すべて吹き飛んだ。
久しぶりですねと笑う綾人の手を取り、足早に道を進む。
「借りる!」
勢いよく来た蛍に目を丸くした梢がその手に繋がれている綾人を見て一礼し、道を譲る。そのまま建物の中に入った。目指すは、木漏茶屋の奥の一室。
蛍が先に座り、向かい側に座ろうとした綾人の手を引く。
「あの、蛍さん?」
綾人には、ぐいぐいと腕を引っ張る蛍の意図が読めない。
「ここに寝て。」
蛍がぽんぽんと膝を叩く。
「えっ」
「いいから!」
驚きに声を上げる綾人のことはお構い無しに、半ば無理やり膝上へ寝転ばせる。
「綾人に必要なのは休息!
今日はゆっくり休んで」
「おや、残念。貴女と並んで歩くのを楽しみにしていたんですが」
「綾華は気分転換が必要だったから連れ出したの。
綾人は出掛ける前にゆっくり休む時間が必要だよ。
もう何日休みを取ってないの?」
少なくともこの1週間は働き詰めだったし、もしかしたらそのずっと前から働いているのかもしれない。
「さぁ、もう数えてもいません。
トーマにも綾華にも苦労をかけていますし、休む暇などありませんから」
「でも、たまには身体を休ませないと。無理しすぎも良くないよ」
なでなでと頭を撫でれば、綾人は楽しそうに笑った。
「ふふ、本当に、貴女という人は飽きないですね」
「眠れない時はね、よくお兄ちゃんがこうして頭を撫でてくれたの。」
「貴女のお兄様が……」
「人の体温って落ち着くんだって。だから膝枕にしたんだ。
……それとも、私の膝枕じゃ安心できない?」
いろんな重責を抱える綾人のことだ。手放しに休める訳では無いということは蛍にもわかっていた。
敢えて、ずるい問いかけをする。
「また日を改めてデートしてくださいますか、蛍さん。
これでも楽しみにしていたもので」
「そんなに?」
「綾華に散々自慢されました。それはもう、羨ましいほどに。」
目を閉じる綾人は穏やかな表情を浮かべていて、
蛍はほっと胸を撫でおろす。
「じゃあ、また日を改めて。」
約束ですよ、と返事をした綾人の身体から徐々に力が抜ける。意識を手放すまではいかなかったけれど、
彼の表情がすっきりするまで蛍は頭を撫で続けた。
兄への面影を重ねているだけなのか、それとも特別な情を抱いているのか。それはまだ、答えは出せそうにない。