共振:司レオ 家族のように大切な子が、いきいきと人を傷つけること。それはきっと、自身の一族が与えた宿命のせいに他ならないこと。心から理解し得ないその衝動に、相棒のあの人は共鳴していたこと。
――そもそも、どうにも手の出し様がなかった「レオさんの一件」に、報いを与えてくれたこと。
己が内に渦巻く全てを飲み下して、せめて、と出来ることを拾った、結果が――。
♪
人影が中空に放り出される。まさにその瞬間を、目の当たりにした。
時が止まったと錯覚するような一瞬。
そんな考えを嘲笑うかのように、重力が小さな身体の袖を引く。
そうした一連の出来事を、ただ眺めていた。
はく、と息ができなくなる。
反射的に窓辺へ駆け寄りながら、そうして、無駄だとよく理解しているのに、どこへともなく手を伸ばした――瞬間、強烈なデジャヴに見舞われるのだ。
それは、ここのところ司がよく見る悪夢の典型だった。
自身のコンディションがお世辞にも良くないことを、司も重々自覚している。
件の落下は、結局のところ狂言だった。だから、彼――『Jさん』が、あのあと無事に生き延びているのだということを理解はしている。
しかし、経緯と結果について、いくら頭で理解したところで、あの瞬間に感じた無力感は本物だった。
立ち止まっている暇がないほどに毎日が忙しいことは、ある意味では幸いなのかもしれない。
司は次のスケジュールを確認して、ESビル内を急ぎ移動する。実際のところ、急ぐ必要は無いのだけれど、頭と身体の余力を無くしておけば、余計なことを考えなくて済む。
「あっ、スオ〜! ……おまえ、どうした? 顔色酷いぞ」
突然、何気なく掛けられた声に、必要以上に肩が跳ねてしまったのは、不甲斐ない現状への後ろめたさからに他ならない。
無邪気に駆け寄ってきたレオの表情が目に見えて曇る。若干のバツの悪さから、司は視線を伏せて、どうにか挨拶を返した。
「こんにちは、レオさん。……戻ってらしたのでしたね」
「どうかしたのか?」
レオはわたわたと手を彷徨わせたかと思うと、最終的にはその行き場を司の背に落ち着けたようだった。
「いえ……ちょっと」
この人にはあまり弱っているところを見せたくない。司にはそうした意地も当然あるし、加えてレオは、この件に関して完全に無関係だとは言い難い。どうにかこの場を切り抜ける方法はないかと、気疲れ気味の頭で思考を巡らせる。
「スオ〜?」
「……その、思いもよらないことが、あって」
それでも、覗き込んでくるレオの顔を見た瞬間、言葉がぽつりと溢れてしまった。
「……ほんとに大丈夫か? いま時間ある? こっちおいで」
冬の晴天の下、ガーデンのベンチへ手を引かれて、座るようにレオから恭しく促される。
そうして彼は、「ちょっと待ってろ!」と走り出したかと思えば、どうやら角の自動販売機へ向かったようで、購入した飲み物を片手にすぐに戻ってきた。労わるように手渡された缶コーヒーは、今は開ける気にはならない。それでも、指先を痛いくらいに温めてくれる。
「あまりその……具体的には話したくないです」
レオは肯定も否定もせず、ベンチの隣で静かに耳を傾けている。
「……ほんの少し前に、衝撃的なことがあって。この頃、よく夢に見るんです。実際に取り返しがつかなくなった訳ではありません。でも、……でも」
一瞬、どうしようもなく言葉に詰まった。このところずっと自身の胸に渦巻いている感情を、声に――言葉にすることは、何だかとても恐ろしいことのように感じられた。
「私の行動は……間違いなく、その結果を招いた一要素でした。きちんと俯瞰して事を収めることができないのなら、不用意に手を出すべきではなかったのかも。……それでも、自分が何をするべきで、何をするべきで無かったのか――どうすれば何を回避できたのかが……全然分からなくて」
決壊するように続いた言葉は、きっとレオからすれば要領を得ない内容だったに違いない。
しかし次の瞬間、弾かれたように飛びついてきた同じ体格の身体に、思わず「ぐぅ」とくぐもった声が漏れた。
果たして彼は長い時間を屋外で過ごしていたのだろうか、衣服の表面に冬の温度をそのまま纏っているかのようだ。それでも、突然力強く抱きしめられ、虚を突かれている間に、本人の高めの体温がじわじわと伝導してくる。
「ちょっ……と、レオさん」
「大丈夫だ」
肩口に預けられた頭が、するりと頬擦りをするように自身の頭に触れる。
「おれは、おまえに何があったのか全然知らないけど、おまえの気持ち、なんでだろ、わかる」
は、と嗚咽の手前のように息が詰まった。
反射的に吸い込んだ空気の冷たさに、鼻の奥がツンと痛む。
「自分の後悔が消えない限り、たらればを思ってしまう気持ちは消えなかった。それはとにかく、つらくてきついことだ」
肌がひりついて、ともすれば裂けるほど寒く乾いた冬の日に、どうしてこんなにもどろりとした血のような温かさを感じてしまったのか不思議だ。
身体を預けて、耳を傾ける。それだけで何故か、互いの生傷を擦り合わせるような、背徳的な心地よさがあった。
「大丈夫、大丈夫だ」
――そうだ、この人にも抱えた傷があるのだ。きっと、今の私のよく似た位置に。
ぼんやりとした直感のような形で、レオの言葉に司は納得する。思考はまとまらないのに、感覚ばかりが鋭敏になっていくようだ。
強く抱きしめられた腕の力は緩むことはなく、それは本当に、段々と溶け合っていくような感覚だった。気持ちが良くて、ぬるい湯舟の中で微睡んでいるような、ずっとこのままこうして居たいような……。
「……っ、はッ」
司は、必死で絞り出した渾身の力で、レオの身体を引き剥がした。
温度が上がった体表に、冷たい空気が一息に触れる。ぽかん、と呆けた顔をするレオの顔が一瞬だけ、視界にうつった。
「すみませんっ、励ましていただいてありがとうございました‼︎」
そうして大きな声で叫ぶように告げると、その場から回れ右をして走り去った。
♪
「ちょっとお。いい加減その感じ鬱陶しいんだけど」
居間に転がっている同居人に、泉はにべもなく吐き捨てる。
いつの間に帰ったかと思えば、書き殴るようにして譜面に音を綴っていたところまでは、普段通りのレオの行動の範疇だったと言える。しかし、曲の完成後、形容し難い面持ちでばら撒いた譜面を集め始めたかと思えば、ううん、とたびたび渋面を作りながらメロディラインを辿っている。その様子は、泉の目には端的に、何かに思い悩んでいるようにうつったのだった。
「なんか、ちょっとスオ〜といろいろあって……?」
「かさくんと? あんた早めに謝っといた方が良いよ」
ユニットとしても迷惑だし、とさらりと続ける。原因がレオにあることを疑っていない、ある意味で信頼に満ちた態度ではある。
「なんか、怒らせたとはちょっと違うかな〜って」
だからこそ、レオにはどうすれば良いのか判然としないのだった。
「謝るのも、ちょっと違う……というか、何に対して謝ったら良いのかがまだよく分からん〜」
「……はあ? どういう状況なの? それ」
泉はそこでやっと、真面目に話を聞く体勢にシフトしたようだ。まずは経緯を教えてよ、とレオに説明を促す。
「……ふうん。ざっくり聞く限りでは、まあ、良いんじゃないのって思うけど。励ましてやったんだよね?」
「うーーん多分そう、部分的にはそう?」
「ちょっと待て、なんでそんなアンケートみたいな感じなの」
「よしよし分かるぞ〜ってしてたら、急にスオ〜の方から引き剥がされたんだけど、なんかその時の感覚? が不思議な感じで……途中からはちょっとそれを味わってるみたいになってたかも? って」
一呼吸の沈黙。泉からの視線に、若干の圧を感じる。
「一応聞くけど……何それ、どんな感覚なワケ?」
「うーーんと、そう、あれだ。音叉みたいな」
音叉。特定の音を発するU字の金属器具で、楽器の調音にも使われるそれだ。
「まさに『この音』って音が、びりびり音を立てるみたいに胸と胸の間で震えてる。おれにはそんな風に震わせてる悲しさや苦しさの音階がよくわかる。わかるから心配で、でも、なんか……なんだろ。少しだけ、って言うか結構ものすごく? その共鳴がなんか、気持ちいい……?」
同居人は、信じられない、という表情で、美しい眉根に皺を寄せている。
「え、なんでそんな引いてんの、セナ」
「……かさくんは理性があって偉いねぇ」
冷淡に紡がれた泉の言葉に、むぐと籠った唸り声を返す。もしかして、あけっぴろげに行うにはどうにも恥ずかしい話をしているのではないか、とレオは漸く思い至った。
「……あんたがしたことって結局、かさくんに何があったかって点にフォーカスしてないでしょ」
そのうえ自分が気持ちよくなっちゃってまあ、と詰るように言われてしまえば、気まずさや羞恥心の隙間から、申し訳なさが顔を出してくる。
「……う、その通りだ」
膝を抱え込むように座り直して、手元の譜面をもう一度捲り、あの奇妙な官能に思いを馳せた音階をゆっくりとなぞる。傑作だ、他人にはあまり聴かせられないけれど。そんなふうに脳裏でひとりごちた。
「……まあ、ちゃんと話を聞いてあげなよね。またすぐ帰国するんでしょ」
「……うん」
エネルギッシュで口うるさい後輩の、あまり見たことがない弱った有り様だった。
どちらかと言えば、レオは普段、司のことを試したいという気質の方が勝ってしまう。煽れば綺麗に燃え上がるその様子を好ましいと思う。けれど、今は兎に角、彼の表情を曇らせる出来事を、遠くへ追いやってやりたい。
そうした在り方はまさに、自分たちが普段からモチーフにしているところの「騎士」に通じるものなのかもしれない。ふとそんなことを思った。
♪
「スオ〜ごめんっ、おれ健全じゃなかった‼︎」
「え? ……は? いきなり何です⁇ ……というか、何であっても声量を落としてもらっていいですか?」
ぽかんとした後、険しい顔で口を塞ぎに掛かってきた司は、周囲を窺うように視線を走らせている。昼休みと呼べる時間帯のオフィスビルの喧騒は、特段こちらを注視している様子ではなかったけれど、確かに少し不用意な言葉だったかもしれない、とレオは内省した。
「……場所を変えましょうか」
若干気まずそうな表情を浮かべながらも司が手を引いたのは、先日の記憶に新しいガーデンの一角だった。
やはりまだ、普段より覇気がないように見えるけれど、憔悴の色は以前ほどではない印象を受ける。もしくは、レオとの一件があって、注意を払ってそうした痕跡を消しているだけなのかもしれない。
数日前と全く同じベンチに、似たような距離感で腰掛ける。
「……あの後で考えたんだけどさ。『わかる』からって感情だけに寄り添うのは、おまえに寄り添うのとはちょっと違う感じがしたし、良くなかったな〜って」
視線だけをひっそりと隣へ向けようとして、そのままパチリと目が合った。
「おれにとっての、なんか……気持ち良さみたいなのもあって、結果的にそれを優先しちゃったって言うか……」
「いいえ。私の方こそ、心配していただいたのに、いきなり押しのけてしまって、すみませんでした。あなたに『分かる』と言っていただけて、私もその、心地良かったんですよ。……このままでは駄目になってしまう、と理性の側で危惧するくらいには」
そっか、と短い相槌の後、互いにそろりと視線を外す。
それはどこか気恥ずかしい沈黙だったけれど、あの共鳴と快楽を再確認して共有しているのだから、ある意味では当然のことなのかもしれない。
「……まあ、だからさ。まずはおまえに何があったのか、聞かせてよ」
今度は身体ごと向き直ると、できるだけ誠実な響きを意識しながら、レオは司に持ちかけた。
「話をしよう。……それで、おまえの気持ちが楽になるかはわかんないけどさ」
伏せられていた視線が上がる。濃い紫色をした瞳が、レオを静かに見つめ返す。
「おれに言いたくないんだったら、別の人とか、もっとちゃんと、セラピーとか? 受けてもいいだろうし」
そっと付け加えた言葉は、レオにとって紛れもなく本心だった。実際のところ、周囲を頼るならレオである必要はない。それでも、もし司が手を取ってくれるのなら、目一杯応えたいし、元気づけたいと思う。
「レオさん」
「……うん」
躊躇うように、綺麗な形の頭が揺れる。
「……やはりその、事情をぼかすところはぼかしたいのですが、でも……話を聞いていただいても?」
それどころではないのに、ぶわりと気持ちが昂る。勢いでまた抱きしめそうになって、どうにか気持ちを押しとどめた。
「勿論! なんなら今日は、悪夢とか見ないように添い寝してやろう!」
「そこまでは結構」
「なんでそんなバッサリ⁈」
「……私のことを子ども扱いしていませんか? そういった扱いは本意ではありません」
「違う! これはほら、騎士としての提案だから!」
「……何ですかそれ」
司はクスリと、息をつくように笑う。
そのことに少しだけ安堵しながら、レオは司の手を引いた。
「とりあえず、まずはあったかいとこ行こっか。シナモンは混んでるかな〜」
「そうですね、まだお昼時ですから」
肩口を触れ合わせながら、連れ立って歩き出す。
この間のように、奇妙なほどの一体感はなくて、それでもそれは、沁みいるように温かい距離だった。
【終】
心に辿り着いてても言葉は必要だよね、みたいな話
ヒーリング音叉とかそういうのもあるらしい