鬼が袖引く(一):司レオ「そんなに人を斬っていると、鬼になってしまいますよ」
人の呻き声がやっと途絶えた夜闇の中で、よく通る精悍な声が響いた。
血と油に塗れた刀を、反射的に薙ぐように振る。
声の方向から距離を取るように、レオは地面を蹴って刀を構えた。
月のない夜だった。
じっと目を凝らすと、明かりひとつないこの路端で、十尺程度離れた場所に、二つの小さな光を捉える。
瞬間、空中に音もなく紫色の炎が灯った。ひとつ、ふたつ、みっつまで順に増え、徐々に大きくなる――鬼火だ。
どろどろと揺らめく炎の燐光がその相好を照らす。最初に見た小さな光そのものなのだろう、爛々と輝く紫色の瞳と、額の根元には人ならざることを主張するような、大きく不揃いな角が見て取れた。
鬼。荒屋に巣喰い、夜毎に人を攫っては貪り喰らうと聞く。明かりなき夜の恐怖の象徴。
認識した瞬間に、自分の意思に沿わず嫌な冷や汗が滲んだ。度胸試しに切り掛かる、なんてそんな考えは、もし浮かんだとして、とても実行には移せなかっただろう。
「あなたが噂の人斬りですね」
お、と思わず、柄を握ったまま顎を上げる。どうやら、鬼の世界にもレオの噂は広まっているようだった。情け容赦なく刀を振るいながら、自身の痕跡は一切残さない――いま都で一番恐れられている辻斬りの噂が。
「領分、というものがあるでしょう? あなたみたいなただの人間が、我々の役割を奪わないでください」
近寄って来たそいつに伴って、鬼火もこちらに移動してくる。その光源は、レオだけでなく、先に切り捨てた人間達のもう動くことのない身体を照らした。
「役割……?」
「……あなたって私のことを全然恐れないんですね」
「こわい? なんで? そんなに綺麗な顔してるのに」
距離が近付いた分、視認できるようになったその鬼の顔は、闇に浮かび上がるように端正だった。
思わず、構えた刀を下ろしてしまう。
何も考えないままに身の内から飛び出たようなレオの言葉を、その鬼はどうやら心底不快に感じたようだった。
「……『人を喰った』態度ですね」
「うん?」
「馬鹿にしている、という意味です」
「おまえは人じゃなくて鬼だけどなっ」
『鬼を喰った』かな? と言葉尻を捉えると、また鋭い視線を向けられる。
「気に障った? ごめんな〜」
鬼から膨れ上がる剣呑な気配に、レオは自身の言動をほんの少し内省する。
こんな風に、レオの受け答えが他者の感情を逆撫でしてしまうことは、人の世でもままあることだった。これを要因として、自身があまり世渡り上手とは言い難いことは、既に十分自覚している。
この鬼の機嫌を損ねたらどうなるのだろう。首を落とされる? それとも、生きたまま頭から喰われたりするのだろうか。
「ひとつ、教えて差し上げましょう。人喰い鬼がどうして人を喰うのかと言えば、それによって人の世から『畏れ』を得ることができるからです。厳密に私たちの血肉になるのは、人肉ではなく、人々のそうした感情です」
「わははっそれなら、おまえももっと物凄く怖い格好とかすれば良いのに!」
堪えきれず、レオはまた揶揄するように相槌を打ってしまう。
かの鬼の目を見張るような相貌は、やはり恐怖という感情からは程遠い。鬼は狐のように、化けて容姿を変えたりはできないのだろうか。
「魅力的な容姿の存在が、例えば人間の首を貪り喰らったりするところを見てしまうと、心底ゾッとするものらしいですよ」
そんなレオの単純な好奇心に対して、どこかつまらなそうに鬼は応答した。
「あー、なるほど。うん……それはなんか、ちょっと分かるかも。おまえがぼりぼり人を喰ってるところって、あんまり見たくない……」
ちらと足元に転がる肢体に視線を落とす。彼の綺麗な口で太い手足を直接咀嚼する様子を妄想して、レオは気分が悪くなった。そんなことをするくらいなら、いっそのこと――。
「……『不快』は『畏怖』ではありません。あなたのそれは私が求めている反応ではないんですよね」
「そうなの?」
「そうです。欲しいのはもっと――心の底からの恐怖」
鬼火が近づいてきて、レオの様子を伺うように空中を浮遊する。至近距離でも熱さを感じない辺り、やはりこの世ならざる炎なのだと実感を強くする。
「例えば今、あなたの首を捥いで貪り食ったところで、あなたは本当の意味で私に恐怖しないでしょう?」
「おまえ、おれのことが食べたいの?」
「話を聞いてました?」
呆れたように問い返されるけれど、彼の例え話はレオの心を捉えた。
レオにとって、この美しい鬼に喰われることは、時折妄想する自身の人生の終わり方の中で、かなり上等な部類に入るように思われたのだ。
「別におまえが、おれからの恐怖の感情にこだわる必要ってないよな? 『噂の人斬り』を喰った鬼って箔がつけば、世間から今より怖がられるんじゃない?」
レオの不躾な提案に、鬼はぴくりと片眉を上げる。一先ずは話を聞く体勢を取ってくれるようだ。
「医食ど〜げん? ってやつ? ちょっと眉唾だけど。依頼主の坊ちゃんが前に話しててさ。病弱でくどくど理屈っぽいわりに革命思想かかえてる面白いやつで――、ああまあ、そいつの話は置いといて。確かなんか、食べたものの力を取り込むみたいな話だよな?」
自身を売り込むようにして、レオは鬼の方へ一歩踏み出す。
「理屈としては分かりますが、それだと何だか釈然としません。結局あなたは怖がっていないのなら、私があなたに負けたみたいでしょう?」
「負けず嫌いだな〜」
今度はレオの方が呆れを滲ませて呟く羽目になった。
「……なにか、好きなことは?」
人を斬る以外で、と鬼は短く問う。
「人を斬ることも、別に好きなわけじゃないけど。うーん? ……歌うことかな」
「分かりました、参考にさせていただきます」
どういうつもりなのか、と首を傾げてみれば、怖がらせるためには、まずはあなたのことを知る必要があると感じたのです、と大真面目な答えが返ってくる。
「……おまえって変な鬼だな〜?」
「あなたみたいな人間に言われたくはありません」
きっぱりと言い返す様を、どこか好ましく感じた。
この鬼のことがもっと知りたい。そんな衝動に突き動かされるように、レオの口からある提案が転がり出る。
「じゃあさ、おれと賭けをしない? おまえがもし、おれを心底怖がらせることができたら、おれのことを喰っていいよ。それで、『人斬りを喰った鬼』として、おまえは世間の恐怖を独り占めできる」
「はぁ……? あなた、正気ですか?」
燐光を纏う瞳が見開かれる。その輝きに、思わず一瞬目を奪われた。
「おまえ、おれが心から『こわい』って思ったら、それが分かるんだろ?」
「ええ、糧として取り込むことができますから」
「じゃあ決まりだなっ」
そのまま意を通すように笑いかけると、鬼は眉を顰めて嘆息した。
「あなたには何の利もないでしょうに。自身の身を賭けた約定を、よりにもよって鬼と執り交わすなんて」
「何でおまえが説教するんだ……」
愚かなことを……と心底呆れたように鬼は言う。その生真面目な様子は、世に聞く放埒な『鬼』の印象とどこかちぐはぐだった。
「まあ、よろしい。挑まれたのなら受けて立ちましょう」
レオを諌めながらも、その鬼は、最終的に「恐怖比べ」とも呼べるその戯れを承諾した。
せいぜい後悔しないよう――と妖艶な笑みを浮かべた美しい鬼は、次の瞬間、迸った紫色の炎と共に消える。
後には血の匂いと、濃い闇だけが残った。
【続】