鬼が袖引く(三):司レオ 煌々とした月明かりは、足元に濃く影を作っている。
都の外れも外れ。加えて、草木も眠る丑三つ時とくれば、聞こえてくるのは時折吹き抜ける風の音だけだった。
ぽつりと建つ家屋は廃墟と呼んで差し支えない佇まいで、既に屋根は倒壊し、土台の木枠だけが残されていた。そこに腰掛けて足をぶらぶらと揺らしながら、レオは美しい月をぼんやりと眺めている。
秋が過ぎて、季節は冬に差し掛かっていた。夜の冷え込みは徐々に増していて、少し前まであれほど毎夜奏でられていた虫の鳴き声は聞こえない。その代わりと言っては何だけれど、この場にはそぐわない愉快な鼻歌を、せめて抵抗するような心持ちで吹く風に乗せた。
冬は嫌いだ、とレオは首巻を直しながら顔を顰める。生き物の気配が希薄なことが好きではないし、そもそも、身が痺れるような寒さが得意ではなかった。あまり「仕事」が頻発しないといいのだけれど。
こんな風に月明かりが眩い夜は、どうしても自身の仕事には向かない。だからこそ、人気のない場所で好き勝手に口笛や鼻歌を響かせながら、レオはいつかの鬼の再来を待っていた。
不意に。
カタリ、と廃墟の奥から物音がして、そろりと後ろを振り返る。
横倒しになった屋根が作った影は、夜目が効くレオの視界を以てしても、黒く塗りつぶされて先が見えない。
その暗闇からふと音もなく、白い腕が伸びてきた。
そうしてゆっくりと、招くように揺れる。
「この前の鬼! だよな!」
反射的に暗闇に声を掛ける。
すると、一呼吸ののち、するりと身体全体が姿を現した。そのまま、以前も伴っていた鬼火がゆらりと灯る。
初めて会った夜以来に見たおかしな鬼は、どこか憮然とした表情をしている。もしかしたら、今の登場は怖がらせる賭けの一環だったのかもしれなかった。
「……流行りの歌ですか?」
「今の鼻歌のこと? 知らん! おれが勝手に歌ってるやつだから!」
突如として歌い出したくなる旋律があっても、それを表出する術は、こうして声に乗せること以外知らない。
そんな取り留めもない話に、どこか感心したように鬼は小さく頷いている。
――ああ、やはりあの夜のことは夢ではなかったのだ。
「おまえ、なかなか会えないからさぁ。夢とか幻だったらどうしようかなって思ってた!」
「私も暇ではないのです。傾向や対策を練る必要もありましたし」
生真面目な顔でそんなことを言う鬼は、やはり変でおもしろいとレオは思う。
「そういえば、名前聞いてなかったなって思って。おれは月永レオ! おまえは?」
瞬間、ぴしりと音がするように鬼の動きが固まった。というより実際、廃墟の土台が家鳴りの音を響かせた。
そうして、心底信じられない、という視線を注がれてしまう。
「いいですか? 私のような妖に、真名を無条件で明かすことはいただけません。絶対に他所ではやらないでくださいね」
まるで説教をするようにきつく言い含められた。その剣幕に思わず身を退け反らせるけれど、そんなやり取りはどこか人間臭くも感じる。
「それから、私の名を明かすことはできません。人に渡ると最悪、名によって縛られて、式にされてしまいますから」
毅然とした態度からするに、鬼は名を教えるつもりは無いようだった。
「じゃあお前のこと何て呼べば良いんだ?」
レオが首を傾げて問えば、何てことないように鬼は答える。
「私の縄張りは、朱桜屋敷と呼ばれている、人が住まなくなった館。それゆえ、私の同胞はそのように名乗ることが多いです」
「スオ〜?」
「はい、レオさん」
その鬼は、言動だけを取れば、妙に丁寧で腰が低い。それなのに語調はどこか傲慢にも感じるから不思議だった。強者の余裕、というやつなのだろうか。
「そうだ、依頼主のやつに落雁もらったんだけど食べる⁇ 鬼ってそういうの食べるのか?」
「ええ、食べられますよ」
甘いものは好きな部類です、と鬼はそのままレオの隣に腰を下ろした。
♪
「もっとなんか、『うらめしや〜』みたいな感じで来るのかな〜って思った!」
取り出した巾着から落雁を摘みながら、レオは朗らかに笑う。
真夜中の廃墟でぽりぽりと響く咀嚼音は、どうにも間が抜けている。それでも、勧められた干菓子を口にしてみれば、しっかりした甘さが後を引く味で、存外高級な品なのかもしれない、と司は感じた。
「先ほどのは単なる様子見です。今日はどちらかといえば、勝負とはまた別の用事で来たのですよ」
取り繕うように言葉を重ねるが、若干負け惜しみのような物言いになってしまって勝手な気まずさを覚える。そんな司を気にする様子もなく、レオは「用事って?」と問いを返した。
「……私が『なかなか姿を見せなかった』と言いますが、実を言うと、あなたを見つけることに予定外に時間を食ってしまったんです」
恥と思っても仕方ないことなので、司は正直に事情を話すことにする。そうだ、ここ数日間、司は夜の都を彷徨い歩き、今日やっとこうしてレオを見つけることができたのだ。
「えっ、おれのこと探してたのか! まあ確かに、隠れ家はよく変えるようにしてるからな〜」
生業を考えれば当然のことなのだろうけれど、棲家から行動の範囲まで全く分からない上、かといって推測も難しく、頭を抱えたものだ。
「前に会ったのは偶然⁇ あの時も確か、おれのこと探してたんだろ?」
「あの時は血の匂いを辿ったんです」
「ふぅん。今夜は?」
「今夜は、歌が聞こえて……」
『狐道』などと呼ばれ、妖たちが使用する、人間には認識できない通り道がある。そこは距離や方角に関係なく、野山と人里――人と妖の理の境界を繋ぐ。
そうした道を縦横に渡りながら、今日もまた空振りかと諦めかけた瞬間、心地よい鼻歌に誘われるようにして、司は手を伸ばしたのだ。
「……本題ですが。『恐怖比べ』のために待ち合わせをする、というのも馬鹿馬鹿しい話ですし、そもそもあなたって待ち合わせとかを全然守らなさそうじゃないですか?」
「うーん反論できない」
司の指摘に対して、素直にレオは頷く。
「ですから、あなたのことを少しだけ齧らせてほしいのです」
「齧る……?」
ぱちり、と大きな瞳が瞬いた。
「まあ、呪術……と呼ぶほどではないですが。そうやって、私とあなたの間に繋がりを作るのです。私があなたの血を摂取して、あなたが私の唾液を受け入れる」
れ、と舌を出して示して見せる。その際に見えたであろう鋭い牙に、多少なりとも恐怖を感じてくれれば、という打算もあったが、レオからは何故か「へえ〜」と感心するような視線を向けられてしまった。
「おれも八重歯は鋭い方だけど、全然ちがうな〜!」
イ、と自身の歯を指差すレオは無邪気な子どものようで、とても都を震撼させている人斬りとは思えない。
上機嫌に顔を近づけるレオを、歯の話はもう良いのですよ、とどうにか退ける。
「それすると、おれの居場所が分かるようになるの?」
「そうですね。あなたに私の気配を混ぜて、印をつけることになるので。普段からあなたを見つけやすくなりますし……私の獲物だという牽制もできます」
次からは自身の気配を辿って会いに行けば良いのだ。これほど楽なことはない。その上、鬼の気配を纏う人間となれば、大抵の小妖怪は彼を忌避することだろう。勝負に横槍を入れられる懸念も消せて一石二鳥だ。勿論、レオが提案を受け入れれば、という話にはなるけれど。
「妖怪の価値観て感じ! まあ、いいぞ〜」
「簡単に承諾しますよねあなたは……」
呆れる司の目の前で、レオは受け入れることを示すように両手を広げる。
「さあ来い! どこ齧る? 頭?」
「……普通に考えるなら、どこか身体の末端でしょうか? 私も初めてなので、どれだけ力加減ができるかは分かりませんが……」
「えっ、指とか足が無くなるのは流石に困るっ! 今後も『仕事』ができるくらいのところで勘弁してくれる⁇」
今の所おれの食い扶持だし……と、それまで逡巡を見せなかったレオから、ある意味では当然のような請願が為された。
「それは……善処しますが……」
無論、齧り取る必要はない。ただ、そのような力加減をしたことがないから、保証ができないというだけで。
万全を期すなら、手足の指はやめておいた方が良いだろう。舐めるように視線を滑らせると、レオはどこか居心地悪そうに身じろぎをする。
「耳、とかですかね? 痛みを感じにくいと聞いたことがあります」
切り落とされとったけど気付かんかったわ、という弟分を慌てて手当したことがある。そうは言っても、部位が残ってさえいれば切断箇所が付くような鬼を基準とした話なので、人間にどの程度適用できるものか、定かではないけれど。
「耳なら、もし捥がれても聞こえるかな?」
「捥ぎませんから」
精々歯形が残る程度です、と自身にも言い聞かせるように宣言する。
そうして重心を傾けて、向かい合っていたレオの懐に入った。司の動きに対して反射的に身体を強張らせる様は、警戒心の強い動物のようだ。
「力を抜いてください」
有無を言わさずに肩と首に手を添えると、がじ、と一息に歯を立てた。
びくり、とレオの肩が反射的に上がって、傍の刀の柄が鳴る。宥めるように肩を摩ると、息を押し殺しながらもゆっくりと吐き出す音が聞こえた。力加減に気を付けなければ。
繊細な襞を舌で舐る。微かな血の味。もう少し力を入れても大丈夫だろうか。角度をずらして再度噛みついてから、じゅる、と音を立てて啜った。そうして幾度か、試行錯誤を繰り返す。
人間の血の味の違いなんて、分かったものではない。それでも、どこか浮浪者じみたこの人間から、思いのほか清潔な匂いがすることが印象的だった。彼の言う「依頼主の坊ちゃん」とやらのおかげだろうか。
(おや……?)
行為への集中から、暫く顧みていなかったレオの様子に違和感を覚えたのは、そろそろ大丈夫だろうかと身体を離そうとした瞬間だった。
司の着物の衿口を、レオは震えるほどに強く固く握りしめている。
最後の仕上げのように耳を舐ると、瞬間、びくりと大きく身体が揺れた。そうして漏れる、引きつれたような細い声。
これはまるで……恐怖を覚えた人間の反応そのものではないか?
(いえ、でも……それにしては、何と言いますか)
人間からの「畏怖」に感じる、糧としての満足感は今のところ感じ取れない。しかし、レオの様子は今までに見たことがないほどにしおらしかった。
レオさん、と耳元で問いかける。
「もしかして、『こわい』ですか……?」
「……ヒッ」
レオはそのまま顔を背ける。これは、もしかして本当に……?
自身の唇に付いた血を舐め取りながら、司は背けられたレオの顔を覗き込もうとした――ところで。
がば、と突如としてレオはこちらに向き直った。
それは思いのほか勢い強く、ごちん、と互いの額と額がぶつかる。そうしてレオは、暗がりでも分かるくらいに真っ赤な顔でそのまま立ち上がり、全速力で走り去った。
「スオ〜の助平〜〜〜‼︎‼︎ バ〜〜〜カ‼︎‼︎」
――不名誉な叫び声を残して。
この話は茶屋で凛月の爆笑を攫い、そしてレオには「効果が切れたらまた行う必要がある」行為であることを伝えあぐねている。
【続】