青灰色の滑らかで短い毛並みに、無駄の無いしなやかな体躯。そして長く真っ直ぐな尻尾。完璧に美しい猫だろう。ノースディンは己の姿を自画自賛する。
背に伝わるのは、再会した時よりも少しだけ肉付きが良くなったクラージィの太腿の感触で、案外心地が良い。
二人掛けのソファに腰掛け、リラックスした様子で機嫌は悪いようには見えない。
猫というのは得な生き物だ。あまりスキンシップが得意でない彼が、ひょい、と抱き上げてくるのだから。
柔らかな腹を無防備に晒し、骨張った指先で顎を撫でられると、ついごろごろと喉が鳴った。猫の本能には抗えない。友人宅の猫や、仕事で扱いに慣れているらしく、その手管は巧みで心地好い。
だが、そろそろ一方的に触れられるのも性に合わず、変身を解いてしまいたい。
「クラージィ」
「猫は喋らない」
「…にゃぁん」
厳しく咎める声音と、先程までの柔らかな瞳から一転して冷ややかな目に見下ろされて、ノースディンは媚びた鳴き声を出した。
何故このような事態になったかを考えると、自業自得とも言えて大人しくご機嫌取りをするしかない。
何せ目覚めてから何かと多忙にしているクラージィとは、一週間ぶりの逢瀬だった。長い時を生きてきた吸血鬼としては、瞬きのような時間ではあるが、二百年間待った身としては、それすらも長く感じる。
人間の友人や吸血鬼の友人、仕事等諸々の用事の隙を縫うように約束を取り付けたのだから、これ以上邪険にされたら心が折れる。
確かにこちらが悪かった。だが、こんなにも怒ることはないだろう。
ごろごろと喉を鳴らしながら、一時間ほど前の出来事をノースディンは思い返す。
ノースディンは、約束の時間通りにクラージィの住む集合住宅へと訪れた。笑顔で出迎えてくれた年下の恋人は、贔屓目を抜きにしても可愛い。
血族という関係性の他に、恋人という名も加わってからはより一層可愛さが増した。
二人の逢瀬は、ノースディンの屋敷で過ごすこともあれば、二人で出掛けることもある。前回はノースディンの屋敷で過ごしたから、自然と次回は新横浜にあるクラージィの住む集合住宅となった。
ノースディンにとって、新横浜という地に好むべきところは無いが、クラージィが身振り手振りで楽し気に友人と体験したこと、驚いたことなどを話すのを聞いていると、少しばかり好感を持てないこともない。
クラージィが一通りの近況を話し終え、ふと沈黙が落ちた。二人の会話は、クラージィが話し、ノースディンがそれに相槌を打つ形を取ることが多く、クラージィが黙ると自然と会話が途切れてしまう。
だが、その沈黙はけして居心地が悪いものでは無かった。視線が合うと、はにかむようにクラージィは微笑んだ。二百年前は眉間に皺を寄せ、厳めしい顔をしていたが、今は随分と穏やかな顔をするようになった。
ノースディンは隣に座るクラージィの頤へと手を伸ばし、軽く唇へと口付ける。触れた瞬間、クラージィがびくりと震え、ノースディンは閉じていた瞼を開けた。
そこにはぎゅうと瞼を閉じ、眉間に皺を寄せている恋人がいて、あまりに不慣れな態度に微笑ましくなる。そっと唇を離して強張った頬を撫でると、恐々と瞼を開け赤い瞳と視線がかち合う。
「クラージィ」
吐息のかかる距離で呼び掛けると、クラージィは催促されたと捉えて、再び瞼を閉じておずおずと控えめに口付けてくる。一瞬の触れ合いの後にちゅっ、と僅かな音を立て離れていく口付けは、あまりにいとけなくて、ノースディンは思わず口元を押さえ笑った。
「何故笑うんだ、何か間違っていたか?」
クラージィのいじけた声にノースディンは笑いを飲み込み、赤みの差した頬を撫でる。
「お前があまりに可愛いから」
「それは、私の口付けが下手だと揶揄しているのか?」
「いや、言葉以上の意味は無いさ」
ノースディンの言葉に納得がいかないのか、少しばかり眉を顰めてしまう。確かにクラージィの口付けはぎこちなさが目立つが、そんなことはノースディンにとってはなんの問題も無かった。
慣れていないことなど、恋人となる前から分かっていたことで、むしろ初々しさが愛しい。
ノースディンは、皺の寄ったクラージィの眉間に口付ける。くすぐったい、と笑うクラージィにノースディンは額や頬へと何度も口付けを落としていく。
「っん」
ノースディンは右手をクラージィの頬に這わせ、薄い唇を啄むように軽く口付ける。再びクラージィの体は強張ってしまい、それを解きほぐすようにもう一方の手で背を擦る。
何度も軽い口付けをして、その体から緊張が解けた頃ノースディンはクラージィの閉ざされた口のあわいを舌でなぞった。
するとクラージィの体はびくんと震え、薄っすらと瞼を開く。やんわりと手のひらで胸を押し返されて、ノースディンは一旦体を引いた。
その顔に嫌悪が浮かんでいる訳ではないことを確認して、ノースディンはやわやわとクラージィの耳を撫でる。
「クラージィ?」
「……隣に吉田さんが居るから、これ以上はだめだ」
クラージィの、転化により白くなった肌が赤く染まり、癖の強い髪から覗く尖った耳が困ったように下がる。行為の気配を察して恥じ入る可愛らしさと、その口から出た隣人の名にノースディンに仄暗い感情が湧き出でる。
快楽に慣れていない体は、こちらの手管で容易に流されてくれるだろう。
彼の可愛らしい姿を誰かに見せる気など毛頭ないが、声くらいなら聞かせてやってもいい。
これは私の物なのだと知らしめたいと、ノースディンの欲望が擡げる。
「ノースディン?っんぐぅっ!」
先ほどまでの、親愛の域を出ないような口付けではなく、貪るような口付けにクラージィの体は逃げを打つが、ノースディンは腰を抱き込み、もう一方の手で後頭部を押さえこんでしまう。
クラージィの顔に、本気の拒絶の色が出ていたのならば、ノースディンも大人しく引き下がることが出来た。だが、その瞳に欲が混じっているのは確かで、ノースディンはその隙に付け入るように、口付けを深め薄く開いた唇に容赦なく舌を侵入させる。
びくん、と震えるクラージィの顔を窺い見ると、ぎゅうと閉じた眦には涙が滲んでいる。親指の腹でその涙をぬぐい取りながら、その口内を荒らし、無垢なままの牙に舌を這わせ、怯むクラージィの奥に引っ込む舌を絡め取る。
必死にノースディンの胸元の服を掴み、押し退けようとする理性的なさまはいじらしくも憎たらしくもある。
羞恥だけではなく、息苦しさからも頬を赤らめているのが分かり、ノースディンはそっとクラージィを解放した。クラージィの口元が互いの唾液で濡れていて、ノースディンは拭いとる。
荒い息のまま、咎めるような視線を向けられていることに気付くが、ノースディンはそのままクラージィをソファに組み伏せようとした。だが、キスで力が抜けていると思った体は、存外強い力でノースディンを押し返してきて、簡単には押し倒されてくれない。
「ノースディン、また、その…次に会った時にするのではだめなのか?」
まだ行為に慣れていないクラージィが、自らから性交渉の提案をするのは、抵抗があったであろう。気まずそうに、だが目線を逸らさないまま言う。
ノースディンは口の端を上げ、その言葉を聞かなかったことにして、クラージィの服の裾に手を差し入れ、傷の残る腹を撫で擦ると脇腹へと手を上らせた。
この傷も人工血液などではなく、上等の物を摂れば治るものを、と憎らしくなる。するすると撫でると腰が引けていく。だめだ、と再び言われるが胸元へと伸ばす手を止めなかった。
少し意地になっていた、と後から己の所業を振り返ったノースディンは思うが、その時は押し通せると思ったのだ。だから、クラージィが拳を握ることに気が付かなかった。
「だめだと言っているだろう!」
「っぐぅ…!」
言葉とほぼ同時に、腹部に痛みが走りノースディンはその場で蹲る。クラージィに鳩尾へと拳を叩きこまれたのだと遅れて気付き、ソファに蹲りながら顔を上げると火照った頬とは裏腹に、厳めしく見下ろしているクラージィと目線が合った。
クラージィは冷えた視線で無言のまま立ち上がると、傍に居たくないとばかりにキッチンへと向かってしまった。
ノースディンは痛む腹を押さえながら、心内で容赦のない拳を叩きこんできた恋人を責めるが、再三にわたる制止を無視した自分に非があることは分かっている。
だが、なにもあれほど強く殴ることは無いだろう。衣服に覆われ見えないが腹にある鈍痛に青痣が出来ていることが容易に想像できる。
痛みと状況に呻きながら、ノースディンは考えた。クラージィの生来のポテンシャルによる馬鹿力は強力ではあるが、念動力や魅了の力を使えば制圧出来る。だがそれをしたことで迎える結末は耐えられそうにない。
殴られた腹とこめかみが痛んだが、ノースディンはプライドを捨てることを選んだ。
意識を己の体へと集中させ、脳裏に猫を強く思い浮かべる。ポンと軽く弾ける音と共に美丈夫の姿は消え、青灰色の成猫の姿へと変えた。
ノースディンは音もなくソファから飛び降り、キッチンに立ち新しく紅茶を淹れるクラージィの足に頭を擦り付け、にゃうんと甘えた声を出した。
チラッと視線を落としたクラージィは呆れた顔をしていた。だが、プライドをかなぐり捨てて足の間に体を滑り込ませ、ついでに長く真っ直ぐな尻尾を足首へと絡ませる。
クラージィの視線を感じながら、もう一度哀れっぽく鳴くとクラージィが眉尻を下げひょい、と軽く抱き上げてきた。
喉をごろごろと鳴らしながら、ノースディンは我ながら高等吸血鬼としてのプライドを捨て過ぎなのではないか、とスン、と無表情になるが、猫の身ではそれほどの表情の変化が無いことだろう。
膝の上で顎を撫でられていたが、その手にひょいと抱き上げられ顔が近付いたと思うと、思い切り腹を吸われる。
「フフ、柔らかい」
「ふにゃあああん」
人間の姿ならば絶対にやらないであろうクラージィの行動に、喜べば良いのか嘆けばいいのかわからない。
お前、いつも猫相手にはそんなに甘ったるい声で語りかけるのか。てし、と爪を立てないように肉球でクラージィの顔を押しやる。それにすら、嬉しそうな顔を見せる。今までそんな蕩けきった顔は行為の最中でも見せたことは無いではないか。
「可愛い、ドスケベボディ……」
誰がドスケベだ、お前こそつい最近まで全てが未経験だったくせに、いやらしい体になりやがって、という言葉の代わりににゃうにゃうと不平を漏らす。ここで思ったことをそのまま述べたら取り返しのつかないことになるくらいの分別は持ち合わせていた。
無抵抗に吸われるままにいると、満足したのか腹からクラージィが離れていった。
「ノースディン、殴ってしまって悪かった。痣になっていないといいのだが」
「……いや、……私が悪かった」
クラージィの言葉に腹の痛みがぶり返すが、漸く許しを得たらしいことに安堵して、ノースディンも謝罪の言葉を口にする。
「クラージィ、変身を解いていいか?」
「それはだめだ」
「…っ……」
あっさりとした拒否の言葉に、断られると想定していなかったノースディンは言葉を無くし、今宵は猫の姿に甘んじるしかないことを悟った。