「……明かりを消して欲しい」
いつの間にかノースディンの使い魔は居らず、二人きりの寝室。
寝台の上で押し倒されて、体をまさぐられ裾から入り込んだ手に過敏にびくりと震えてしまい、その居た堪れなさから絞り出した言葉は、あまりに間抜けで悪手だったと、要望通り照明を落とされたことで、クラージィは即座に気が付いた。
けして忘れてなどいなかったが、この体はとうに吸血鬼に変じており、先ほどよりも当然のことながらあたりを見渡せる。
壁紙や床材、照明器具や小物類に至るまで、この屋敷の主であるノースディンが拘って誂えたのであろう、品の好い調度品で揃えられている。
普段ならば寛げるはずの彼の趣向が凝らされた屋敷が、今は居心地の悪さしか感じられない。床など気にしたことが無かったというのに、クラージィは無意味に絨毯を見下ろしその織り糸を数えてしまいそうになる。
クラージィは居心地の悪さに身動くが、大人の男二人を乗せた寝台は軋む音すら立てず、代わりに衣擦れの音がいやに大きく聞こえた。
肌に触れるシーツも上質なものなのだろう、心地が良いというのに、安らげはしない。
こんなはずではなかったのだ。クラージィは、先ほどの己の発言を酷く後悔していた。三十年と少し生きてきた中で、これほどまでに自分の発言を悔やんだことなどない。
「どうした?クラージィ」
柔らかで甘い低音の声には、心配というよりも、揶揄が含まれていることに気が付かないほど鈍いわけでは無かった。
ノースディンとの邂逅から、どれほどの時が流れたことだろう。体感ではつい数年前まで人間だった身からすると、けして短くない時を共に過ごしたと感じているが、ノースディンからすれば瞬きほどの間のことだろうか。
彼の持つ交友関係を考えれば、あまりに短い年数でしか付き合いのない間柄で、ノースディンの人となりを理解しているなどとは言えない。だが、それでもノースディンが、吸血鬼が発したとは思えない間抜けな言葉によって、慌てふためいている姿を楽しんでいることが分かるほどには鈍くも、付き合いが浅い訳でも無かった。
意地が悪いのではないか、と詰りたい気持ちを抑え、無意味に絨毯を見ていたクラージィはいつまでもそうしているわけにもいかず、ノースディンに視線を戻し、またしても後悔した。
普段は意識したことがなかったが、改めて見るとノースディンは美しい男だった。
闇夜のような濃紺の美しい髪は、きらめくように美しいし、瞳を縁取る睫毛も同様に美しい。クラージィの吸血鬼となった習性からか、ノースディンのその長く豊かな睫毛の本数を無意識に数えようとしてしまう。目を逸らそうにも、赤い瞳は禁断の木の実のように魅惑的で抗い難く、その瞳から逃れられない。吸血鬼はみな、同じ赤い瞳だというのに、ノースディンの瞳は一等美しく見える。
整った鼻梁も、綺麗に調えられた口髭も、肌艶も、全てが作られたように美しい男なのだ、と今まさに押し倒されている状況で改めた気が付いてしまった。
クラージィを押し倒すその体は、思っていた以上に厚みがあり、体躯すら恵まれている。上背も僅かではあるがノースディンの方が高かっただろうか、と寝台の上ではいまいち判別がつかないことを思い出す。
今から。今からこの男に抱かれるということを、けして疎んでいるわけではないし、吸血鬼となった身を呪ったことは無いが、暗闇でも良く見える視界を苦々しく感じてしまう。
覆い被さっていたノースディンに頬を撫でられ、クラージィは体を強張らせた。
「クラージィ、今日はこのまま眠るか?」
「……いや、大丈夫だ」
ノースディンの声音は先ほどより優しく、頬に触れてきた手も労りに満ちていて、クラージィはその手の甲に己の手のひらを重ねた。
そして、ノースディンに幾度か同じことを言われたことがあることを思い出した。それも、寝台の上でだ。
今さらながらにクラージィは、己の鈍さとノースディンの優しさに思い至り、そっとノースディンの手の形を確かめるように動かす。
僅かにだがノースディンの方が体温が高いようで、心地が良い。以前、眠るかと尋ねられた時は、その言葉をそのまま受け取り、『おやすみ』と返したのだ。
恋愛事や閨の所作に疎い自覚はあったが、何故今まで気付かないでいたのか。『おやすみ』と告げた言葉に、ノースディンも『おやすみ』と返し、寝室を出て行ってしまったのだ。
クラージィは、恐る恐る顔を動かし、そっとノースディンに口付けた。髭が当たり擽ったい。ノースディンは目を僅かに見開いた。そんな顔ですら美しく、クラージィは小さく呻いた。
今から、この美しい男に己の体を暴かれてしまう。ぐぅと眉間に力を入れ、腹をくくるとクラージィはノースディンの顔をしっかりと視界に収めた。
「ノースディン、上手く振る舞える自信は無いが善処する。だから、どうかあまりからかうようなことを言わないでくれ」
生真面目に、覚悟を決めた顔で言うクラージィに、ノースディンは出来得る限り真摯に受け止めたように見えるように表情を取り繕った。悪辣さなど滲ませてはならない。何もかも初めてである彼にとって、嫌な思い出になるようなことは避けておきたかった。
「もちろんだ。お前もそう気負うものじゃない。全て私に身を任せ委ねてくれ」
「ああ。お前に任せる。出来れば、優しくしてもらえれば助かる」
言ったそばから、クラージィに後悔が押し寄せる。見目が良いわけでもなく、か弱いわけでもない自分が言うには、あまりに過ぎた要望だっただろうか。発言を取り消そうかと口を開きかけるが、ノースディンの赤くどろりと溶けるかのような瞳に囚われ、クラージィは口を閉ざした。
クラージィの意識はそこからは曖昧で、ノースディンとの行為は嵐のように過ぎ去り、気が付いたときには身は清められていた。
気を失っていたのか、それとも茫然自失としていたのか自分のことなのに、定かではないが、あまり深く考えたくはなかった。
ベッドサイドに立つノースディンは、相変わらず美しい。裸のままのクラージィと違い、既に衣服を身に付けていて、いつの間にか水差しとコップを用意していた。
あまりにノースディンとの落差に釈然とせず、声を出そうとして口を開くが、言葉が出て来ず、クラージィは、けふっと咳き込んだ。
「大丈夫か?水を用意したが飲めるか?少し温めてこようか?」
気遣わし気な声と同様に、その表情も獣のような様は鳴りを潜めている。うっすらと記憶に残るノースディンは、普段の冷ややかで紳士然とした彼からはかけ離れていて、食い殺されてしまうのではないかとすら思ったほどだ。
じくじくと痛む腰と下腹部の違和感が辛い。それなのに、常ならば冷えた体は、未だに燻るように熱を持っていて、ノースディンによって体が淫らなものへと作り替えられてしまったのではないだろうかとすら思えてくる。
何も知らないほど物知らずでも、幼いつもりもなかったクラージィだが、彼の性知識など獣の交尾とさして変わらない。ノースディンによって与えられた行為は、あまりにクラージィの知識とかけ離れていた。
「もう少し、お前は優しいと思っていた」
違和感のある腹を擦り、身を起こそうとして失敗しながら言った言葉は、聞き苦しいほどに掠れていた。
クラージィにしては珍しく、ノースディンを責めるような響きを持った言葉への返答は、陶器の水差しがごとん、と床に落ちる音だった。
「なっ……」
クラージィの、人生初めての嫌味は正しくノースディンに打撃を与えたようで、言葉を無くす姿に溜飲が下がると共に、動揺を露わにするノースディンを見ていると良心の呵責に苛まれてしまう。
念動力で落下を防ぐことも出来ず、転がり落ちた憐れな水差しをクラージィは拾おうかとも考えるが、今は少しの身動ぎすら辛い。幸い割れてはいないが、水は絨毯に染みてしまっている。
「次は、もう少し優しくしてくれ。私も次回までに学んでおく」
水差しを拾うことを諦め、クラージィは固まったままのノースディンに視線を合わせ言うと、返答の代わりに今度はごと、と音を立てコップが絨毯に落ちた。