可愛いあなた 視界の中で、数センチ下にある薄茶色の瞳が揺れて、薄く開いた唇から息を吸う音がして、止まる。
まただ、と芹沢はうんざりする。トメも今日は来ておらず、エクボも不在にした相談所には芹沢と霊幻の二人だけしかいなかった。扉を背にしているので、誰かが来ればすぐにわかる。霊幻の背中越しには下ろされたブラインドは閉じられておらず、隙間からは夕陽が差し込み、長い影を作っていた。あと少ししたら電気をつけないとな、と何割か残った冷静さで考える。
きっかけは些細なことだった。最近の外食や原材料の値上がりが著しいという世間話から、一緒に食事をしようと誘ったのだ。
なんで。あなたと行きたいからです。沈黙。言葉に窮した彼が適当な理由をつけて出て行こうとするのを立ち上がって止めたのだ。
「霊幻さん、正直に言ってくれないと分かりません」
これは事実だ。類推することは出来る。だが、それはあくまで芹沢の想像であり、霊幻の意図や感情と重なることはあっても、同じではない。
「……」
芹沢が見つめていると霊幻の瞳が横へと流れた。
「目を逸らさないで」
「命令するなよ」
吸い込んだ息をようやく吐き出せたというように、霊幻が呟いた。いつもこうだ。捕まえようとすると、逃げられる。
ここ最近、芹沢と霊幻の間には微妙な空気が漂っていた。霊幻からの視線を感じるようになったのはいつ頃だったか。芹沢も気になって霊幻を見ていても、視線はいつまで経っても合うことはない。そのうち向こうから視線を感じなくても、盗み見るようになるまでにそう時間は掛からなかった。
二人だけでいる時間はたくさんあったが、互いのプライベートには踏み込まないし、見ている理由にも言及しない。上辺だけの会話にはある種の緊張感が漂っていて、薄氷の上を歩いているようで気が抜けなかった。
さすがの芹沢も仕事に行くのが憂鬱になったが、そういうときに限って呼び出されてしまう。そしてその後に残る膨大な時間の中で、霊幻とのなにか大きなものの周辺をぐるぐると回るようなやり取りを続けるのだ。
「言いたいことがあったら言って欲しいんです。俺がなにかしましたか? 一緒に食事するのが嫌だったら断っても、気にしないんで気遣わなくて大丈夫ですから」
それは嘘だった。度々茂夫や律、輝気は食事に連れて行くのに、なぜ自分は駄目なのかといじける自信はあった。
だが、こういうときこそ霊幻から学んだハッタリが必要だと思った。霊幻は逃げきれなかったと悔しそうに目元を歪め、勝ち気な眼差しが芹沢を見据えた。
「なにもしてないし、言いたいことは、ない」
「言いたくないことはありそうっすね」
「お前な、」
「なんで俺のこと見てるんですか」
口を滑らせたという自覚はあった。
視線を重ねた霊幻の眼差しが揺れる。心臓が一気に跳ね上がり、芹沢は拳を握って必死に自制心を働かせた。つられて動揺してしまえば、よくない方向に行ってしまうと思ったから。
「……言いたくない」
掠れた声は少し上擦って耳に届いた。一瞬泣きそうに見えて、拳を握っていて良かったと思う。触れたくて堪らない衝動にもなんとか打ち勝てた。
「分かりました」
思いのほか声が平坦になった。それに慌てたように、霊幻は片手を上げて振ると、身振り手振りをつけて喋り始めた。
「でもな、お前のことが嫌だとか、仕事で問題があるとか、そういうことじゃないんだ。俺が上司らしくない態度を取ったのは謝罪する。仕事に関係ないのに見るのはパワハラだよな。なるべく見ないようにするし、お前も勉強との両立も大変だろうから、俺が呼び出す時以外は学校に集中しても構わないぞ」
上滑りしていく言葉の波を感じて、芹沢は無性に悲しくなった。向き合ってもらえない悲しさは、子どもの頃に嫌と言うほど味わってきた。やっと向き合ってくれる人たちのいる場所に身を置けたと思っていたが、それは自分の期待であって、そうではなかったと言うのを実感してしまった。握り込んでいた拳も緩めて、息を吐くと肩が落ちる。視線も下がって、二人の靴のつま先が見えた。向き合っていて、十数センチしかない距離が今は果てしなく遠い。
「……ありがとうございます、気に掛けてもらえるのは嬉しい。でも、俺は霊幻さんに信頼して欲しかった。言いたくないじゃなくて、言っても大丈夫だって思って欲しかったです。図々しくてすみません」
「芹沢……」
「俺も、霊幻さんをなるべく見ないようにするんで、気にしないでください。ジュース買いに行くならどうぞ」
扉の前から離れようとして、腕を掴まれた。驚いて顔を上げると目が合った。
「俺は、お前のことを大変好ましく思ってる」
「ん?」
すぐに意味が取れずに、疑問符が浮かぶ。腕を掴む手に力が込められて少し痛い。
「だからっ、芹沢を部下として見ていないんだよ、ちょっといやらしい目で見てるってことだよ!」
「そうだったんですね」
「はあ!? これ俺の一世一代の告白なんだけど!?」
告白だったんだ。赤くなった目に光るものを見つけて、慌てて手を持ち上げて頬に触れる。涙になってこぼれ落ちそうだと思って、咄嗟にとった行動だった。
「あっ、すみません」
「……っ!」
頬が一気に赤くなるのが見えて、柔らかい皮膚に触れていた掌が熱くなった。うわ、と思わず声を上げそうになる。
小さく震える霊幻は、小動物のようだった。いつも尊大で自信を付けてくれる言葉を紡ぐ普段の彼とかけ離れた姿に、目が釘付けになる。
かわいい、と頭に浮かんだ言葉を息を吸って吐き出しそうになり、出てくる前に息と共に止めた。