どうかしている。君も俺も(夏メイ) 夏井流星はけたたましい音を立てながらスマホを伏せた。
液晶ディスプレイに表示された画像の正体に気づいたからである。
(…………何なの)
いつもより比較的静けさ漂う特対内。スマホを叩きつけた勢いで右手が僅かに痺れたまま、夏井は自席のデスクに勢いよく突っ伏す。一連の動作に、休日出勤中の他数名の課員たちは遠巻きに夏井の様子を伺うばかりだ。
瞼の裏に過ぎるのは、後輩である秋元からFINEに送信された1枚の画像。青い空と透き通るほど眩しい海を背景に寛ぐ七篠メイの写真である。
海の家らしいチープなつくりのテーブルの上には鮮やかな色味のスムージーが入ったグラスがいくつも乗っており、七篠はそのうちのひとつを口にしながら僅かに目を見開いていた。秋元は「個人的な用件」で春野と行動を共にしていたはずだったが、何がどうしてこうなったのか現時点では予想もつかない。それに、不意打ちの如く無防備な姿を撮られている七篠も七篠だ。身にまとう眩しい色味のチューブトップは七篠の肌の白さを殊更に強調している。しかもわき腹の辺りにはうっすらと不自然な翳りがあり、見方によっては影のようにも古傷や火傷の跡のようにも受け取れる。羽織るものを何も身につけていない点も相まって、夏井の平常心はすっかり隅に追いやられてしまっている最中だった。
一言でまとめるならば、あまりにも刺激が強すぎたのだ。女性関係のありとあらゆる事象を避けてきた、夏井にとっては。
(情報量が、多すぎるんだよ……)
そして問題はもう一つある。画像の情報過多に対して、送り主である秋元からは何の音沙汰もないことだ。
いったい何のつもりだろう。嫌がらせのつもりだろうか。それとも無邪気に夏井の地雷を踏みぬいた結果か。いずれにせよ、海での一シーンなど偶然の出会いにしてはあまりにも出来過ぎている。となるとハローの調査内容と秋元たちの「個人的な用件」がたまたま一致したと考えるのが自然な流れではあるが、それにしたって。
夏井は不可抗力で目にしたあられもない姿を掻き消すために、先日行われた「親睦会」の記憶を呼び起こそうと努めた。奇妙ないきさつから共に遊園地へと足を運ぶことになった七篠が、真摯に夏井の話に耳を傾ける姿。予習の成果を話し始めた時の大真面目な表情。そして、まだ果たされていない次の約束。
「次、か……」
伏せたまま発した呟きは仕事着のジャケットの中でくぐもって消える。
どうにも訳ありらしい彼女は、まだハローの仲間に加わってから幾ばくの時も経っていない。しかしながら、短期間の付き合いの中で身を以て思い知らされたことならある。七篠メイが無自覚ながら、とんでもない人たらしであったことだ。
公私ともに全力で手加減を知らない彼女は先日も、夏井の推している作家や作品を複数リサーチしてくれていた。長年のサブカル好きを自称する夏井とも対等に渡り合えそうなほどの熱心さで、相槌ひとつで思わず面食らってしまうほどに。七篠なりに夏井との「親睦会」を円滑に進めるための言動と理解してはいたが、人によってはそういう方面に誤解されてもおかしくはない。
親睦会のリベンジを兼ねた次の約束の為に、と仕事を片付けようとした矢先にこれである。
(ほんと、何なの……)
どうせ今回も、七篠なりに全力を尽くそうとしているのだろう。四六時中も全力ならばどこかで電池切れになってしまうのだから、休息の時間だって必要だ。夏井とて理解はしている。
しかし、こればかりは不意打ちでしかない。繰り返しだが、夏井にはあまりに刺激が強すぎた。
ぴろりろん。気の抜けた通知音が複数回。びくりと肩を震わせて、夏井はこわごわとデスクに沈み込んだ頭を上げる。
暗転したスマホ画面に映る己の表情があまりにも情けない様相を呈しており、その事実だけで何もかもを放り出して逃げたくなる衝動に駆られた。
意識的に息を大きく吸い込む。そしてゆっくりと吐き出す。数回繰り返しながら覚悟を決めた夏井は、意を決してサイドボタンに指を掛ける。
《夏井さん、ごめんなさい!》
案の定、送り主は秋元だった。
《メイさんに送ったつもりが、間違えました!》
あ、そう……。夏井は再び無機質なデスクにへたり込む。この人騒がせ。
既読をつけてしまったので、体勢はそのままに渋々返事を打ち込む。
《そういう大事なことはすぐ連絡しなよ》
《本当にすみません。例の件に、メイさんも付き合って貰っていたので》
取り敢えず、秋元とどうこうという話ではなかったらしい。分かってはいても、音を立てて削り取られた精神力がすぐに回復するほど逞しいわけでもない。
《馬鹿じゃないの》
それだけを打ち込んでスマホをオフにしようとした瞬間、追加で通知が表示される。
「……っ」
《夏井さん、先ほどはお見苦しいものをお見せしてしまったようで大変申し訳ありません》
思わずスマホを取り落としそうになり、慌てて構え直す。これまでのいきさつ・話の流れ・堅苦しい口調。名前など見なくとも、送り主は容易に察することができた。
《以後気をつけますので何卒宜しくお願い致します》
「いや何を」
思わず立ち上がった夏井の奇行に、さすがに無視できなかった課員たちの訝し気な視線が集中する。気まずさを押し殺しながら再び着席せざるを得ない。
(……やっぱり、七篠は七篠だな)
彼女はやはり、無自覚な人たらしだ。秋元のやらかしなど気に病むことではないだろうに、妙なところで気を回してくるところがいけ好かない。いけ好かない、けれど。
《べつに》
予想以上にそっけない返信と気づき、ひとまず削除ボタンを三度タップする。もっと他に言いようはあるはずだが……。
《見苦しくないし似合っている》
無意識に打ち込んだ文言に目を見開くと、夏井は血相を変えて削除ボタンを連打する。
(言えるわけ、ないだろ)
とはいえ、あまりにも律儀すぎる謝罪をスルーするのも決まりは悪い。一挙一動に振り回された腹いせに、次の「親睦会」ではとことん我がままに付き合わせてやる。
火照ったまま冷めそうにない頬の熱をよそに、夏井は七篠へ適切な返信をすべく考えを巡らせることにした。