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    ならん

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    ならん

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    沢北の夢
    お隣さんで幼馴染な女の子と沢北の話

    #SD夢

    幼馴染 その家からは、いつもバスケットボールの音がした。
     私は、その家のいわゆるお隣さんで、朝から晩までボールの音がするのを聞いていた。まあ、お隣さんと言っても距離はそこそこ離れているし、木やらなんやらのおかげでそれほど気にならない。
     私の部屋の窓からは、その家のバスケットゴールが見える。私は、毎日飽きもせず、父親とバスケをしている彼のことをずっと見ていた。負けてばかりで、何がそんなに彼を突き動かすのだろうと、不思議だった。
     ただ、いくら家が近所だとはいえ、仲がよかったのかどうかと言われると素直に頷けない。何故なら、引っ越してきてばかりのころの彼は、バスケ部の先輩たちとの折り合いが悪く、クラスメイト達からも遠巻きにされていたからだ。
     そんな彼と、単純に近所に住んでいるからといって手放しで仲良くできるほど、私は器用ではなかった。
     けれど、それならばどうして彼を見続けたのかと言われたら、私には返す言葉もない。だって、この、彼に対して抱いている感情を、何と呼べばいいのか、私には分からなかったのだから。
     初めてまともに会話をしたのは、彼が隣に越してきてから数年後のことだった。
     いつも登校の時間ぎりぎりまで自宅のコートでバスケをしているはずの彼が、その日はたまたま、少し余裕をもって家を出たらしい。私は家の前で彼と鉢合わせ、目が合った。
     それまでの私たちの関係は、言葉に表すなら〝顔見知り〟といったところだろう。顔と名前の一致する、同い年の子。それだけ。そんな私たちは、互いを無視することができなかった。
    「お、はよう」
    「……はよ」
     さっと視線を逸らして、挨拶をする。そうしてしまうと、置き去りにして先に行くことも、忘れ物をしたと家に戻ることもしにくくなって。結局私たちは、隣り合ったまま、一緒に登校した。
     ほとんど無言で歩きながら、何か話さなければと考えていたのを覚えている。私はちらりともこちらを見ない彼のことを横目で何度か見やって、地面に視線を落とし、ぎゅうと制服の裾を握り締めて口を開いた。
    「……あのさあ」
    「……なに」
    「バスケ、いつもやってるの、楽しい?」
     思えば、なんでそんなことを尋ねたのだろう。これだけ毎日欠かさずやっていることが、少しも楽しくないなんてこと、たぶんきっと、ないだろう。そんなこと当たり前なのに。
     しかし、彼は何度か目を瞬かせたあと、にっこり笑ってこう言った。
    「すっげー、たのしい」
     そのとき私は、ぼちゃんと何かに落ちた。それが恋というものであると気付いたのは、しばらく経ってからのことだった。
     
     ◇
     
    「もうすぐ全国大会なんだって? 今年はどこなの?」
     廊下ですれ違いざま、私がそう尋ねると、沢北は「今年は広島」と答えてくれた。遠いね、と私が返すと、「お土産買ってくるよ」なんて言って笑う。
     高校に入っていい先輩たちに恵まれたらしい沢北は、中学のころとは打って変わって、明るく笑うようになった。私たちはそれなりに顔を合わせれば話すくらいの仲で、沢北ファンの女の子たちからは少し厭われている。
     彼女たち曰く、私と話すときの沢北は、表情が柔らかいのだとか、花が飛んでいるだとか。そんなこと、当事者である私は知ったことではないので、あまり気にしないようにしている。
     高校に入って、バスケの名門山王工業に入学した沢北は、それなりにモテた。背が高く、顔も整っていて、運動ができる。何度か告白されていたという噂も聞いたし、この前のバレンタインは、それはもうたくさんチョコを貰っていた。
     憧れは伝染するのだろうか。二年生になった沢北を見て黄色い声援を上げるのは、もう同級生だけではなくなっている。あんまり派手に行動する女子はいないようなのが、唯一の救いといったところだ。
    「ねえ、✿ちゃん、応援来てよ」
    「え、広島まで? 無理だよ普通に学校だもん」
    「じゃあ最終日だけでもいいから」
    「……当たり前に決勝まで残ると思ってるところ、先輩たちにどやされたりしないの?」
     私がそう言うと、沢北はなんで? という顔をした。自信過剰。わがまま。自己顕示欲の塊。そんな言葉が、瞬時に脳内を駆け巡る。
     けれど、その自信に見合った実力を、この男は持っている。この全国大会が終われば、アメリカにバスケ留学へ行くのだと、楽しそうに話していたのがつい最近のことのように思い出せる。
     私は考え込み、ひとつ息を吐き出して、口を開いた。
    「……まあ、ほんとに決勝までいったら、考えてあげてもいい」
    「マジ?」
    「行けばの話ね! 行くって決めてるわけじゃないから……でも、がんばって」
     頬が熱い。まっすぐ向けられる視線を避けるように顔を背ける。と、沢北は、何度かガッツポーズをしたあと、不意にいつもの調子のいい顔を引っ込めて、「あのさ」と口を開いた。
    「もし、決勝も勝ったら、言いたいことがある」
    「え?」
    「聞いてくれると、オレは嬉しい」
     低い声。まるで何かに願掛けをするような、そんな声。
     思わず顔をあげると、沢北はやっぱりじっと私を見下ろしていた。一瞬しっかりと視線が絡んだのは、恥ずかしくてすぐに解いてしまった。
    「……勝ってから言ってよ」
    「うん。オレ、頑張るわ」
     じゃあな、と沢北はもう、いつもの顔をして、片手を上げて体育館へ向かってしまった。私は廊下に取り残されて、ばくばくとうるさい心臓を撫でおろす。
     言いたいこととは何だろう。もっとちゃんと頑張れと言えばよかった。そんなことを思いながら、私は沢北の走り去った方へ背を向けて歩き出す。来週、私は広島にいるのだろうか。そうであればいい。そんなことを、ひたすらに考えていた。
     
     ◇
     
     いつまで経っても、ふと、思い出す瞬間がある。
     あのとき、もし本当に沢北たちがインターハイの決勝に進んでいたら、私は応援に向かったのだろうか。優勝したら言いたいこととはなんだったのだろう。
     結局私は、それを聞きそびれたまま、高校を卒業しようとしている。
     沢北は、たぶん、泣いたのだろう。彼はお調子者で、素直で、割と泣き虫なのだ。
     インターハイが終わって帰ってきた沢北は、これまで以上にバスケにのめり込んだ。あの家からは、朝早くから夜遅くまでバスケットの音がしていて、ときどき微かに声も聞こえた。その声には、後悔とか、悔しさとか、怒りとか、いろいろなものが混じって溶けていたように思う。
     沢北と顔を合わせたとき、彼は「ごめん」と言った。それから、「バチが当たったんだ」とも。
     私には、その言葉の意味が分からない。分からないけれど、あの日から、インターハイで山王工業が破れた日から、沢北は変わった。
     それまでの、自身の能力に裏付けされた自信に溢れていた沢北とは違って、生半可なことを口にすることが無くなった。それは例えば、石を一つ一つ積み上げるみたいに、もう一度足元からやり直しているようでもあった。
     慎重に、真剣に、バスケットに向き合う。時間を無駄にしないこと、得られたチャンスを取りこぼさないこと。そんなことをしているふうに、私には見えた。
     だから、私も、やめたのだ。どうせアメリカに行ってしまうなら、その前に、この長年の片想いに決着をつけようと思っていたのだけれど、やめてしまった。
     今の沢北には、色恋沙汰とかそういったものは、不要なもののようにしか見えない。入り込む余地なんて、たぶんどこにも無い。だとしたら、私は、言わなくていいのだ。
     せっかく集中して頑張ろうと思っている人のことを、邪魔したくはない。沢北の挑戦を、考えを、尊重したい。今までだって、ずっと見守ってきた。それで満足だった。それでいいじゃないか。
     沢北がアメリカに行く日、私は家の前で見送った。本当は空港まで行きたかったけれど、それはバスケ部の皆さんの役目だろう。私は沢北のお隣さんで、その役目を全うするのだ。
    「気を付けてね」
    「うん」
    「帰ってくるときは、お土産買ってきてね」
    「うん」
     大きなスーツケースを車に運び込んでいるところに、声をかけにいく。沢北は、私に向き直って、へらりと笑った。
    「なんか、✿ちゃんの顔、久しぶりに見る気がする」
    「なにそれ、変なの」
    「うん。オレ……変、かも」
     はは、と沢北は笑った。変な顔だな、と私は思った。
     不意に、ずっと言わんとしていた言葉が口をついて出そうになる。が、私はなんとかそれを飲みこんで、「大丈夫なの? 楽しみすぎて寝不足とか?」とおどけてみせた。
     すると沢北は、「いや、ちゃんと眠りはしたんだけど」と頭を掻いて、珍しく視線を逸らす。何か、胸騒ぎがして、私は唾を飲み下した。
    「……あのさあ、いっこ、お願いがあるんだけど」
    「お願い?」
     なに? と私は首を傾げる。沢北はそうは言ったものの、といった様子でうんうんうなったあと、「でもこのくらいはいいよな」とひとりごちて、私を見下ろした。
    「抱き締めていい?」
    「はぁ?」
    「いや、違くて、その、アメリカって、ハグとかキスの文化だろ。だからその、練習……みたいな」
    「練習……ね」
     見上げた顔は、赤かった。たぶん、私もそうだったのだろう。
     だけど、私たちはお互い突っ込む余裕もなく、「ダメ?」「別に、練習っていうなら」「うん、練習だから」と誰に言い聞かせるでもないやり取りをして、距離を縮めた。
     長い腕が、私を閉じ込める。はじめはゆっくり、慎重に。私の形を理解してからは、ぎゅうと力が込められた。はぁ、という息遣い。少し高い体温。私と同じくらい早い、心臓の音。
     泣きそうだ。別に悲しいことを言われたわけでも、苦しいことをされたわけでもないというのに、目頭が熱くなる。私はそれを誤魔化すように、腕を広い背中に巻き付けて、瞼を沢北の胸元に押し付けた。
     そして、涙の代わりにぽつぽつと、浮かんだ言葉をこぼしていく。
    「……風邪とか、引かないでね」
    「ん」
    「たまにでいいから、電話とかしてくれたら、嬉しい」
    「うん」
    「分からないからって、とりあえずイエスっていうのは、やめなよ」
    「分かってる」
     私たちは抱き合ったまま、言葉を交わした。最後にひときわ強く抱き締められて解放されたときには、熟れたリンゴみたいに真っ赤だったと思う。
     きっと、これが精いっぱいだったのだ。沢北にとっても、私にとっても。唐突に、それが理解できてしまった。
     だとしたらもう、私にできるのは、笑顔で送り出すことだけだ。
    「いってらっしゃい」
    「うん、行ってくる」
     笑顔で手を振って、笑顔で手を振り返されながら、私たちはお別れをした。
     もう、沢北が渡米して一年以上経つ。結局一度だって、電話はかかってこなかった。けれど、それでいいのかもしれない。こうしているうちに、この想いは風化して、あの綺麗なお別れのことだけを覚えたまま、生きていけるようになると思うからだ。
     あの家からは、もう、バスケットボールの音がしない。
     私は窓際に座って、遠ざかりつつある記憶の中の音を引き寄せて、目を瞑った。
     
     ◇
     
     電話が鳴るのは、いつも突然だ。
     お母さんから告げられた電話の相手の名前を、私は信じられない思いで繰り返した。
    「……沢北が?」
    「そう、お隣の沢北さんの息子さん。✿に繋いでほしいって」
     ほらさっさと出なさい、という視線に逆らえず、私はのろのろと受話器を受け取った。こんなに長いこと連絡をしてこなかったというのに、いったいどんなつもりで電話をかけてきたというのか。
     受話器を耳に当てる。緊張で、心臓が痛い。震えそうになる声をなんとか抑えて、私は口を開いた。
    「……もしもし」
    「あ、✿ちゃん? オレ、沢北栄治」
    「うん」
     そういえば、電話越しの声を初めて聞いた。耳元でささやかれているみたいで、なにやらくすぐったい。
    「久しぶり」
    「うん、ひさしぶり」
    「電話、なかなかできなくてごめん」
    「……別に、気にしてない」
     変な感じだった。一年以上ぶりだというのに、言葉が詰まったりもせず、話せてしまう。
     私は言葉を続けかけて、はっとした。背中に、お母さんの視線が刺さっている。このまま話し続けるのは、少し、いやかなり恥ずかしい。
    「あのさ――」
    「沢北、ごめん。ちょっと待ってね」
     私は電話を保留にし、お母さんにむけて「部屋で話すね」と告げた。お母さんは呆れたように笑って、はいはい好きにしなさいといった様子で片手をひらひらさせる。
     私は急いで二階に上がり、置いてある子機を取って、自室へ入った。保留を解除し、「ごめん、子機にした」と言うと、沢北は「ああ、そうか」と相槌を打つ。
    「オレ、寮の電話使わせてもらってるから、そういうの考えたこともなかったな。日本語だと何話してても気にされないし」
     結構便利、と沢北は続けた。私は、それは誰かと日本語で話す機会があったことなのではと思ったけれど、尋ねることはできそうにない。返答によっては、無駄に傷つくことになりそうだからだ。
    「……沢北英語話せてるの?」
    「……それなりに」
     沢北は静かにそう答える。それは、まったくコミュニケーションが取れていないわけではないけれど、まあまあ話すくらいはできる、くらいのニュアンスだろう。
     私が知る限り、沢北は結構寂しがり屋だ。それなのに、そんな状態で大丈夫なのかと、心配が頭をもたげる。けれど、何を話すべきかと考えているうちに、沢北が先に話し出したので、黙って耳を傾けることにした。
    「それで、あのさ、突然電話した理由なんだけど」
    「うん。……どうしたの?」
    「それが近いうちに、いったん日本に帰ることになってさ。それを伝えたくて」
    「え」
     意図せず漏れた一文字が、きちんと沢北に届いたのか、私には確かめる術がない。ただ、心臓は早鐘を打っていて、息が苦しいことだけは分かった。
    「それでその……四日後の土曜日、会えないかな、と」
     都合どう? と沢北は言う。私は咄嗟にカレンダーを見た。四日後、土曜日。特に予定はない。
     が、いったいこれはどういうことだろう。いきなりの申し出すぎて、心がついていけていない気がする。
    「……土曜日は、特に、予定ない」
    「ほんと? じゃあ――」
    「でも、どうして。いきなり、そんなこと」
     ほろりと漏れたのは本音だった。電話がかかってきたと聞いたときから、ずっと気になっていた。
     一年。沢北は、一年も連絡をくれなかった。私以外の人とは連絡を取っていただろうに、私には電話一本、手紙のひとつすらなかったのだ。それが、急に電話してきて会えないかだなんて、訝しんだって仕方ない。
     電話の向こうで、沢北が息をのんだのが分かる。それから何かを迷っているような沈黙が流れて、「それは……」と声がした。
    「✿ちゃん、オレ、日本に帰ったら言いたいことがある」
     低い声。いつかと同じ声。
     脳裏に蘇るのは、果たされなかった約束だ。あのときも、沢北は似たようなことを言った。そして、それは叶えられず、私の中には昏いとぐろを巻いた何かが残っている。
     ちく、と木の棘が指に刺さったみたいな痛みが走った。途端、反射的に、私は口を開いていた。
    「……守れない約束なら、しないでよ」
    「え?」
     戸惑いの混じった声が聞こえる。やめろ、と頭の中で声がする。だけど、止められなかった。
    「沢北は、いいかもしれないけどさ……私の気持ちになって、考えてくれたこと、ある? ないよね。前だって、結局何も言わずにアメリカ行っちゃったし、……全然、電話もくれないし」
    「そ、れは」
    「いい。聞きたくない。もう、いい。……帰り、気をつけてね。じゃあ」
    「ちょっとまっ」
     ぷつ、と通話が切れる。私は、自分の指が『切』ボタンを押していることに気付いて、俯いた。と、ぽたりと膝の上の手に落ちるものがある。
     何泣いてるの、と自分自身に対して思う。情けない。自分から、手を振り払ったくせに。
    「うっ……うう」
     電話をベッドの上に放り出し、両手で顔を覆う。窓の外から、バスケットの音は聞こえない。
     そうして私は涙が止まるまで、その場を動けないでいた。
     
     ◇
     
     時間というのは、無情にも流れ続けるもので。
     沢北の指定した四日後は、すぐにやってきた。だけれど、詳しく聞かなかったので、四日後のいつ沢北が帰ってくるのか分からない。もしかしたら、昨日の夜、もう日本に着いているのかもしれない。
     私は、何か懐かしい音が聞こえたような気がして、目を覚ました。
     枕元の時計を確認する。五時半。まだ起きるには早すぎる時間だ。
     ――ダン
     また、音が聞こえる。あれは。あの音は、私がよく知っている音だ。
     思わず身体を起こす。窓から確かめると、ちょうどゴールに吸い込まれていくボールが見えた。その瞬間、どうしてか、私の身体は勝手に動き出す。
     パジャマの上から、薄手のコートを羽織り、家を出た。適当につっかけたサンダルは、朝お父さんが新聞を取りに行くとき用のそれだ。
     家の前で足を止めたとき、植え込みの向こうから思ったとおりの人が顔を出した。目を丸くして、「え」とこぼしたその声は、昔と全然変わらない響きをしている。
    「✿ちゃ――」
    「約束、守ってもらいに来た」
     向けられる視線に耐えかねて、顔を逸らしながら、私はそんなことを口にした。先日の電話からして、支離滅裂にもほどがあると思うけれど、どうしようもない。だって私も、自分がなぜこんな行動を取ってしまったのか、分からないのだ。
     私は、ここに来てようやく、自分の格好が酷いことに気が付いた。が、もうそんなことは後の祭りだ。
     沢北は、たぶん、じっと私を見つめていた。そうしてやがて、ふう、と大きく息を吐き出して、こちらの方へ近づいてくる。私の頭に影が落ち、視界の中に沢北の足が映り込んだ。
    「あのさ、その前にまず、ちゃんと言わなきゃと思ってて」
    「……なんのこと?」
    「✿ちゃんが言ったこと、本当にそのとおりで、反省した。ごめん。今さら謝ってどうなるってわけじゃないってことは分かってるんだけど、……酷いことをしたなって」
     本当にごめん、と沢北は囁いた。私は胸がぎゅうと痛んで、何も言えなかった。
    「言い訳みたいになるけどさ、あのときは、余裕がなかったんだ。……ぽっと出の学校になんか、負けるわけないと思ってて、もう高校バスケでやることはないなんて高を括ってて、本当に最悪だった」
    「……」
    「あんなに悔しかったこと、なかった。オレにはまだ足りないことがあると思って、そうしてるうちに、時間が経ってて」
     まあ何を言っても今さらなんだけどさ、と沢北は続けた。バスケットボールを持ったままの指の先が、小さく震えているのが見える。私は、何か言わなければと迷った挙句、「そう」と小さくこぼすことしかできなかった。
    「……うん。それでその、アメリカに行って、がむしゃらにバスケした。オレに足りないものを、知るために。オレができないことをできるやつには、声かけてさ、怪訝な顔されたりもしたんだけど、結構頑張って……で、あるときジョセフが」
    「……ジョセフ?」
    「チームメイト。いい奴でさ、めちゃくちゃ綺麗な彼女がいるんだ。ロッカーに彼女の写真飾ってて、いつも試合前にはキスをして……オレが『なんでいつもキスするんだ?』って訊いたら、『彼女は俺の女神なんだ』って言うんだよ」
     沢北はそう言って、少し笑った。
     頬を朝の冷えた空気が撫でていく。私はコートの前を掻き合わせて、視線は地べたに落としたまま、沢北の話の続きを待った。口を挟んではいけないのだと、本能が叫んでいる。
    「✿ちゃん、オレはさ、神様っていうのは、神社とか教会とかそういうところにいるものだと思ってたんだよ。神聖な場所で、きちんと願掛けして、そうして願いは叶えられるんだと思ってた」
    「……うん」
    「でもさ、ジョセフにとってはそうじゃなくて、もっと身近なんだよな。そういうものって他の人にもあるんだろうなって思って……そうしたら、無性に、✿ちゃんの顔が見たくなった」
     半歩、沢北がこちらへ近づく。沢北の気配がぐっと近くなって、私の心臓は音をたてた。
    「……オレはさ、まだまだバスケをやりたいんだ。アメリカはすごいところで、努力しても練習しても、上がいる。すごく大変だけど、ものすごく、楽しい。だからさ」
     沢北の手から、ボールが落ちる。え、と思うよりもはやく、長い手が私を捕まえた。背中に回された手が、ぎゅうと私を閉じ込める。どくん、どくんと、沢北の心臓の音がした。
    「✿ちゃん、オレの、女神になってくれない?」
    「な、」
    「苦しいとき、緊張したとき、オレは✿ちゃんを思い出したい。勝ったら連絡したいし、嬉しかったら抱き締めたい。オレの近くに、居てほしいんだ」
     頼むから、と沢北は言った。声は、ちょっと震えていた。泣いているのかもしれないと思ったら、胸に溢れたのは愛しさだけだった。
    「……沢北って、ほんとうに、勝手なことばっかり言うよね」
     私がそう言うと、沢北はびくりと大きな身体を震わせて、「ごめん」と呟いた。私は笑い出しそうになるのを堪えて、広い背中に腕を回し、ぎゅっと抱き締めて口を開く。
    「でも、そういうところが好き」
    「え?」
    「バスケに一生懸命なのも、これと思ったら一直線なのも、大丈夫か心配になるくらい素直なところも、好きだよ。……だから」
     なってあげてもいい、と私は告げた。言ってしまってから段々恥ずかしくなって顔を隠すように埋めたけれど、沢北の方がずっと力が強い。私の身体は簡単にはがされて、「顔、見たい」というささめきに抗えなかった。
     目が合う。やっぱり、沢北の目許はほんのり赤かった。しかしそれよりもずっと、頬の方が色づいている。たぶん、私も同じ顔をしているのだと思う。
    「いいの?」
    「さっきのが、ダメに聞こえたの?」
    「聞こえなかった」
     夢みたいだ、と沢北はこぼした。もう一度強く抱き締められて、「ねえ、ほんとにいいの?」とまた尋ねてくる。
     心配性だな、と思う。私が笑って、「そんなに聞かれると嫌って言いたくなる」と口にすると、「絶対にやだ」と力強い返事が戻ってきた。
    「沢北言ってることめちゃくちゃだよ、意味分かんない」
    「うん。浮かれてるのかも」
    「浮かれてるね」
    「うん、だからさ」
     背中に回されていた腕が、瞬きの間に私を抱き上げていて。私は目を丸くして、こちらを見上げる沢北を見下ろした。
     沢北はまっすぐ私を見つめたまま、花が咲いたみたいに笑って、「キスしていい?」と言う。私は返事の代わりに、目を瞑って身をかがめた。
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