初恋 目が覚めたのは、いつもより少しだけ遅い時間。
いつもの自宅の、いつもの自室、いつものベッド。
そう、全ては『いつも』通りの筈だった。
乱れた寝具と、つい先程まで誰かが隣で寝ていたような温もりと、身体に残る気怠さ以外は、全て。
「……」
開けたばかりの目を閉じ、枕に顔を埋める。
手で隣を探るが、やはり人が居る気配はない。
ただシーツは温かく、つい先程まで誰かが横たわっていたことは間違いない。
誰か。
そう、自分と一夜を共にした相手が。
『ししがみ』
耳の奥、昨夜、聴いた声がする。
繰り返し繰り返し、呼ばれた名前。
夢見るように、或いは熱に浮かされたように。
甘く掠れ、時には高く艶やかに。
そう、本当に何度も。呼ばれた声。
汗に濡れた黒髪。いつもの眼鏡を外した暗赤色の目が、蕩けるように揺れていた。
あの細い身体に獅子神を受け入れて、何度も、その名前を呼んでいた。
「………ッ」
叫びそうになる衝動に耐え、枕に顔を埋めたまま唇を噛む。
ああ、本当に、オレが抱いたのは村雨礼二なのか。
凛とした、化け物じみた強さを持つお医者様。
昨日のあれは夢だったのか? そう、何度も己に問いかける。
ふと。
カチャリ、と、ドアの開く音がした。
枕から顔を離さずとも、香りと足音のリズムで、村雨だとわかる。
「獅子神……まだ寝ているのか」
近くまで気配が近づき、声。
ギシ、と軽く音を立て、寝台に座る気配。
「……」
獅子神は、敢えて答えなかった。
枕から顔を上げず、寝ているフリの態勢に入る。
寝てるのか? と尋ねられ、タイミングを外したこともあるし……
今、この男の……昨夜、初めて抱いた相手の顔を、どうやって見たらいいのかわからなかった。
不意に。
さらり、と、獅子神の髪に指が触れた。
そのままサラサラと短い髪を梳き、柔らかく撫でる。
その指が気持ちよくて、あまりに繊細な宝物を扱うようで。
頭の中がふわふわと溶けそうになる。鼓動が少しだけリズムを上げる。
「昨夜は、随分と激しくしてくれたな」
お前はめちゃくちゃ可愛かったけどな。
「お陰で、私は朝から腰痛だ」
それは、ちょっと申し訳ない。
「尻が壊れるかもとは、人生で初めて考えたな」
壊さねーよ、めちゃくちゃ丁寧に扱ったぞ。
いや、そりゃ、お前細いし、体力も無いし心配はしたけど……
「……獅子神」
髪を抄いていた指先が、頬へと流れる。
さらり、と、優しく撫でられる。
耳元に、吐息が触れた。
すぐ近くで、甘い甘い、熱に溶けるような村雨の声。
「敬一」
あ、と。
一瞬で、目が熱くなる。
溢れた雫は、枕に吸い込まれた。
ほんの一言だけど、どんな告白より伝わった。村雨の、この男なりの、溢れんばかりの愛おしさ。
そっと、唇が離される。
寝台から立ち上がり、離れる気配。
「朝食は軽くで頼む」
温かな味噌汁と甘い卵焼きがあれば嬉しい、と、その声は続けた。
「私も今日は休みだから、急ぐことはない。まずはシャワーを浴びて来るといい」
狸寝入りを今日は見逃してやる。
言い残し、パタン、と、扉は閉まった。
獅子神は寝台に身を起こす。村雨が何度も何度も撫でていた辺りの髪を触る。
いつもひんやりとした指の、熱くなっていた指先を思い出す。
「……オレも…」
愛してる、と。
落とした呟きを、聴く相手は今はこの部屋にいない。
よし、と、気合いを入れて立ち上がる。
涙は既に乾いていた。冷蔵庫の中身を思い出し、味噌汁の具を決める。
まずは、朝食。いや、その前に指示通りにシャワーを浴びよう。
そして二人で向かい合って朝食(或いは昼食になるかも知れないが)を食べて、合格点をもらうのだ。