この声が届くのなら 泣き声が聞こえた。
子どもの声だ。
恐らく、男の子。
小児科に立ち寄った時に聞こえてくるような、大声を上げて泣く声では無い。
ひっそりと、周りに聞こえないように小さく。或いは、泣くことそのものを躊躇うような。
(……夢か)
村雨は、確信する。明晰夢、というものであろう。
今日は獅子神の家に泊まった。二人とも疲れていて、同じベッドに横たわるやすぐに眠りに落ちたようた記憶がある。
その直前「おやすみ先生」と、囁かれた声は覚えていた。
(……ふむ)
夢であれば、いずれ目覚めるだろう。
ただ、今はこの声が気になって仕方がなかった。
誰かに聴かれることを恐るように、声を殺して泣くこの声が。
一歩、村雨は踏み出した。
足元を見れば、そこにあるのは履き慣れたいつもの革靴。恐らく服装も眼鏡も、日常で着用しているそのままだろう。
そんなことを考えつつ、歩を進めると、やがて薄ぼんやりとした灯りが見えた。
辿り着いたのは、何処かの小さな部屋。薄汚れ、お世辞にも綺麗とは言えない、夢でなければ恐らく悪臭に苛まれただろうなそんな場所だった。
そんな部屋の中、視線の先に、膝を抱えた男児が一人。
薄汚れくすんだ金髪と、碧い瞳。
小さく小さく啜り泣きながら、膝を抱えている。
「……」
無言で、村雨は少年に歩み寄る。
目の前に立っても、彼は何も反応しなかった。村雨の方には目を向けず、ただその碧い目からポロポロと涙が溢れ落ちている。
「……見えていないのか」
これは、夢だ。
だからそういうこともあるし、これは現実ではないし、手を出せない領域もある。
けれど、そう。
この薄汚れているけれど夏の穂のような金髪も、湖面の碧い瞳も、痛いほど見覚えがあった。
「……」
ゆっくりと、その場に片膝をつく。
子どもの世話は慣れていない。
そもそも、相手は自分を見えてさえいない。
だからどうすればこの涙を止められるのか、何も見当なんてつかなかった。
ああ、けれど。
「……獅子神」
彼から見えないことは承知の上で、その瞳を覗き込む。
泣かなくていい……いや。本当は思いっきり泣いていいのだと伝えてやりたかった。
こんな子供が泣くことさえ許されないのなら、やはり世界は狂っている。
「獅子神」
呼びかける。
腕を伸ばし、小さな金色の頭に触れる。
そのままそっと、抱き寄せた。
細い身体を、折れそうにか弱い……自分が知っているのとはあまりに違う体を、抱きしめた。
「獅子神」
頬に触れる柔らかな髪を、腕の中の体温を、確かに感じる。
「獅子神」
何も、あなたには届かないけれど。
ただ何度も何度も名前を呼んで。壊れないよう願いを込めて、抱きしめた。
****
「……」
不意に、村雨は目を覚ました。
時計は見える範囲にはないが、恐らくまだ朝には遠い時刻。
目に入るのは、今となっては見慣れた獅子神の寝室の天井。
すぐ横には、共にベッドに潜り込んだ男の気配。
「……ん」
不意に、その気配から漏れた声。
小さく身じろきし、欠伸をする様子。
「……獅子神」
呼びかけ、身体を横向きにする。
同じようにこちらを向いた男は、トロンとした目を眠そうに何度も瞬いた。
恐らく、まだ半分夢の中。はっきりと覚醒したわけではないようだ。
「……むらさめ」
「ああ」
呼ばれ、頷く。
目を擦った後、獅子神は無防備にヘラっと笑った。
「むらさめだー……」
どこか心底ホッとしたように呟いた後、獅子神はこちらに手を伸ばしてきた。
抱き寄せて、肩の辺りに顔を埋めてくる。
「……どうした」
「いやな夢を見た……」
「……そうか」
敢えて中身はきかなかった。
今訊いたところで、半分以上寝ぼけたこの状態では、恐らくまともな回答は望めない。
獅子神は村雨が近くにいることに満足したのか、そのままワシワシと髪をかき回してくる。
「いやな夢だったんだよ……でも」
「でも?」
「むらさめが、来てくれたんだ……だから、良いゆめだったかも、しれねーなー…………」
夢見るような声が続ける。
「むらさめ、ヒーローみたい……だった、な…………」
そのまま眠りに落ちたのか。肩に、スースーと規則的な寝息が触れる。
苦しげな様子のないことに安堵しなから、村雨は口角を上げた。
間違っても、自分はヒーローではないし、彼はただ助けを待つような人間でも無い。
恐らくこのやり取りも、獅子神は朝になれば覚えていない。
けれど。
腕を伸ばし、丁寧に手入れされた金髪に触れる。
しなやかな首筋、健康的な肌、規則的な鼓動、安らかな寝息、心地の良い体温。その全てに触れる。
「おやすみ……私の」
途切れた言葉は、夜の静寂へと溶ける。
今、あなたがここに在る現実に。心からの、感謝と祝福を。