HONEY sweeter than honey メッセージの着信音に、獅子神はキーを打つ手を止めて顔を上げた。
サイドボードのスマートフォンを持ち上げ、画面を確認。
送り主は、恋人でもあるお医者様。
ここ二週間ほど出張で地方に出ていて、会っていない。予定通りなら、確か今日辺りに帰ってくる筈だった。
その連絡か? と思って文字を追い……意識せずに、眉が寄る。
「は?」
声まで漏れる。
けれど、これは仕方がないではないか。
二週間会っていない……メールや電話はしていたけれど……恋人のメッセージが、まさかこの一言だとはさすがに予想していない。
曰く。
『プリン』
いや。
まてよ。
なんでだよ。
なんで「プリン」だよ。
エンドレスで一人でツッコミを入れていれば、またシュポっという真の抜けた音と共に、メッセージが届く。
『シュークリーム』
いや。
だから。
なんっでだよ!!!!
言葉にならないツッコミの間も、受信音は続く。
次から次へと、メッセージが届く。
『エクレア』
『ドーナツ』
『フィナンシェ』
『ババロア』
『クレープ』
絶え間なく続くメッセージ。無意識に半眼になりながら、目が文字を追う。
ようやく、なんとか意識を覚醒させて、文字を打つ。
『食いてぇの?』
『ホットミルク』
「会話になってねぇ!!!!」
声は、意識せずとも飛び出していた。
けれど、責められる道理は何も無いはずだ。
あー……と、考えて。とりあえず、冷蔵庫の中その他を思い浮かべる。
夕飯の用意は、もちろんしてある。良い肉を取り寄せて、焼く下拵えもできている。
けれどどうも、今恋人がお求めなのは、甘さらしい。
『どら焼き』
『水羊羹』
『クグロフ』
『シュトーレン』
もはや傾向がよく分からない。
とりあえず、甘いものを寄越せ、ということか。
どうも、かなりのお疲れらしい。
「疲れた時は、甘いもの。て、言うもんな……」
獅子神自身、食事制限が趣味の身なので頻繁には食べない。が、仕事で根を詰めた時や賭博の終わった後は、無性に甘いものを食べたくなる時はある。
だから。
愛する恋人が望むなら、用意することは吝かではないわけで。
むしろ、多少……いや、かなりそれすら、楽しくて堪らなくもあるわけで。
だから、膝の上のノートパソコンをテーブルに置いて、立ち上がる。
んーっと、腰を伸ばして身体をほぐし、スマホを見る。
『アイスクリーム』
『マドレーヌなら、今から作れるけど』
そう返信すれば、メッセージの連打がやんだ。
その隙に……と、キッチンへと移動。
無塩バターを取り出し、湯煎するべく湯を沸かす。平行して、薄力粉を篩にかける。もちろん、重さは専用の計量器でしっかりと。
ちょうど良いタイミングで、火を止める。お湯は、五〇~六〇℃。バターを湯煎にかけて、ゆっくり溶かす。
溶かしバターを作り終える頃……また響く、スマホの着信音。
『駅についた』
『了解。迎えに行くか?』
『あなたには大事な仕事があるだろう』
はいはい、と、笑う。
ついでに『了解』とハリネズミのスタンプを返せば、即『よろしく♡』と可愛い黒猫のスタンプが返ってくる。
いやまて。こんなのいつ買ったんだ。
ツッコミを送りたいのは山々だが、生憎と腕は二本しかない。
ボウルに卵を割れ入れ溶きほぐす。砂糖を入れて、混ぜてから薄力粉を投入。
ハンドミキサーで混ぜにかかれば、また、メッセージの着信音。
『マドレーヌ』
『マドレーヌ』
『マドレーヌ』
「ウルセェ!」
思わず、反射的に声に出す。少し静かだと思ったら……いや、これだけ楽しみにされてるのなら、それはそれで喜ぶべきか?
それにしても、どんな顔して文字を打っているのか。
おそらく駅からタクシーだろうから、暇を持て余しているんだろうけど。
『マドレーヌ』
『マドレーヌ』
「いや、打つの早過ぎじゃねぇの!?」
そう突っ込めば、まるで測ったようなタイミングで『コピー&ペーストだが?』と飛んでくる。
なんで遠隔で読まれてんだよ。
集中できねーから黙れ、と。恐らく、そう言うことは簡単だ。
けれど。
『坂を降りた』
『役所の角を曲がった』
そんな風なメッセージも、合間に届いてくるわけで。
きっと、この二週間。思っていたことは、同じで。今も、考えてることはきっと大きく違いはないはずで。
早く、会いたいな、と。そんなことを考えながら、生地に蜂蜜を混ぜ込む。
そうすれば……タイミングよく、こう届く。
『私もだ』
ああ。
ほんと。
こういう所……なのだ。
堪えきれずに笑いながら、シェル型にバターを塗って粉をはたく。
生地を流し込んで、オーブンに投入。時間を設定して、スタートを押す。
加熱を始めるオーブンを眺めつつ……ふと、木の匙を手に取った。はちみつを垂らし、一舐め。
「………やっぱ甘ぇな」
呟けば……ガチャリ、とドアの開く音。今日訪ねてくる人間で、合鍵を持っているのは一人しか居ない。
廊下を抜けて、玄関へ。そうすれば、靴を脱いで揃える、細い背中があった。
「よ……お疲れ」
「……ああ」
歩み寄り。黒髪の頭にポン、と手を乗せる。
眼鏡越しの紅い目が、こちらを見上げる。ゆっくりと、瞬いて……踵を上げて、目を閉じる。
その仕草の自然さに。思わず、口端が持ち上がる。
腕を伸ばし……肩を抱き寄せて、口付けた。
キスをする度。口付ける度。いつも何度も驚かさせる、意外な柔らかさを味わって。
蕩ける温かさに、離れていた間の想いを溶かす。
「はちみつ味」
唇を離したその瞬間、村雨の呟き。
「あーさっき、舐めたんだよ」
「あなたが?」
「ん、まーな。たっぷり入れたマドレーヌ、もうすぐ焼けるぞ」
「……そうか」
ひくひくと、形の良い鼻が小さく動く。
その様に思わず笑い……触れるだけのキスを、もう一度。
「おかえり、村雨」
「ああ……ただいま」
「手、洗ってこいよ。ついでにシャワーする時間くらいはあるぞ」
「承知した」
荷物を持ち上げて運びながら、風呂場へと連れて行く。
脱衣所に入る背を見送って、さて、と一息。
今のうちに……温かくて、ハチミツのたっぷり入った、ホットミルクを準備しよう。
***
細い指先が、シェル型の焼き菓子を摘み上げる。そのまま、小さな口へ。
一口では食べきれず、半分ほどが消えていた。
モグモグ咀嚼する村雨の下がり気味眉が、満足げに更に下がる。
「どーだ? 美味いか?」
訊ねれば、無言のままコクコクと頷く。
焼きたての、マドレーヌ。
本当は明日まで待った方がしっとりと味が馴染み本来の美味しさが味わえるのだが……焼き立てを食べられるのは、自家製の醍醐味だ。
「うむ」
満足気な恋人の顔に、自然と笑う。
シャワーを浴び、部屋着に着替えた村雨は、だいぶリラックスして見えた。
マドレーヌを次々平らげては、マグカップに満たされたホットミルクを啜っている。
「相変わらず、よく食うな」
「二週間程度でそう人間が変わるか、マヌケ」
「まーそりゃそう、だな」
頷き。
けれど二週間もあれば……離れていた恋人同士が、それを埋め合うには充分な筈で。
そう考えたのは、自分だけでは無いらしく……食べ終えた村雨が、顔を上げる。何かを待つ表情の中で、暗赤色の双眸が獅子神を捉える。
「……村雨」
呼びかければ……小さく笑った恋人が、目を閉じる。キスの時はそうするのだと、教えてきた。
だから、唇を重ねて。柔く舐めれば薄く開くのに、舌を挿し入れて。
舌先が触れ合えば、ピクリ、と肩が震える。
その肩を掴んで抱き寄せて。薄い舌を捉えて絡ませる。
「………ン」
合わせた唇の間から、こぼれ落ちる吐息が熱を帯びる。口内を貪り、上顎をくすぐる。辿々しく、村雨の舌がそらに応える。おずおずと絡ませてきたソレを、吸い上げる。
「……っふ!っん、ン!!」
ビクビクと、全身が震える。そうやって感じてくれる恋人を見るのも、二週間ぶりだから。
……だから。
最後に唇をぺろっと舐めてから、唇を離す。目の端を赤くする恋人の、形の良い、ふるふると震える耳元に、唇を寄せる。
「………ハチミツ味」
「………」
囁けば……持ち上げられた腕が、獅子神の袖を掴んだ。力の入らない様子の拳が、それでも確かな意思を持って腕を捉える。
潤んだ目が、獅子神を見据える。
細く息を吐き……こう、囁いた。
「……もっと」
「………!」
もっと。
足りない。
そう言って、ゆるく、弧を描く唇に。
ああ、やっぱり敵わないのだと、そんな想いが湧いては積もる。
「………ったく、オメーは、よ!!」
細い身体を抱き上げて。もう一度、ハチミツの味のキスをする。
「……今夜は、寝られると思うなよ」
「寝るつもりだったのか?」
「……」
口が減らない恋人に呆れながら、寝室のドアを、開け放つ。
今は涼しい顔をしているけれど……さて、あとどれくらい、もつのだろうか。
今夜はたっぷり、泣くまで……泣いても、離してやるつもりは微塵もない。
なんせ、二週間分積み重ねた、愛なのだから。