眠れぬ夜が続きますように 「村雨礼二は許容されることを経て弱くなった」。その言葉が嘘であるのはその後の試合が如実に表していたし、自らも許容を覚えた村雨が強さを揺るぎないものにしたのは明らかであった。
身体に起きる反応を根拠として、さらにそこへ感情の機微をも上乗せする。文字通り全ての人間は村雨の前では丸裸も同然だった。
二十九にして医師、村雨礼二の観察眼は新たな境地へと辿り着く。
(獅子神は乳首が性感帯だ)
そう、他人の性感帯が一瞬にして見抜けるようになったのである!
感情を隠すのに慣れきった者から読み取るのは至難の業だったが、こと村雨の狭い友人関係に於いて、未だ良くも悪くも染まりきっていない獅子神は一目見ただけで丸わかりだった。
しかしながら日常生活において特に何の役に立つでもない能力的だ。診察の時に患者の性感帯が分かったとて何になろうか。
他人を慮るようになった村雨が行う対応としては、極力公共の場で知り得た性感帯を刺激せぬよう心がける、それくらいのものだった。
だが、まだその日の朝の村雨は想像もしていなかった。彼を動揺させてしまうほどの事態が起ころうとは、神も予想しなかったに違いない。
「おう、村雨遅かったな、もう皆集まってるぜ」
何をするでもなく、健全な青春時代のように大人たちが集まりただ馬鹿な会話をする。そんな日常が歯がゆくもあったが、ふとした瞬間に安堵する自分に村雨は驚いている。
獅子神の家は、たまに訪れる分には悪くない。どこに居ても人の気配があるし、家主もそれを許容している。普段は煩いとしか感じない喧噪が心地よいと感じるとき、村雨は無意識下にあった仕事や賭場での負荷を思い知るのだった。
だが今日村雨を襲ったのはその類の驚きではない。
(こいつ、インナーを着ていないだと……!?)
乳首が性感帯のくせをして、その日の獅子神はいつものニットの下へインナーを着ていなかった。
(編み目が細かいとは言え乳頭への摩擦刺激は恐らくかなりのものであると推測できる。第一獅子神の胸は筋肉でありながら鍛え上げられているゆえ揺れもする。となれば必然的に乳頭への刺激が与えられる可能性はますます高くなり……)
「先生?」
玄関から入ってこようとしない村雨を訝しんだ獅子神が、少しだけ前のめりにしながら顔を近付ける。頭ひとつ分ほど身長の低い村雨からは、開いたV字の胸元が丸見えだった。やはりインナーは着用していない。ただでさえ低血圧気味の村雨は目眩がした。
しかし仮に友人とは言え、他人の性感帯が気になるから気を遣えと言うのは些か不躾ではあるまいか。恥部を突然指摘されるのは、羞恥に対しての耐性が多少ある獅子神であっても耐えきれないかもしれない。
(何かそれとなく、獅子神に伝える方法はないものか……)
村雨は高い知能と経験に基づき、最適解を導こうとする。
「今日は少し肌寒いな」
「そうか? リビングはちゃんと空調効いてるから大丈夫だと思うぜ。あんたが寒いならもうちょっと暖房強くしようか」
村雨の第一声は失敗に終わった。
いつまでも玄関に立っているのも不審極まりなく、渋々村雨は靴を脱ぎ、リビングへ足を進めるしかなくなってしまう。
だがリビングに他の面々が揃っているとなればますます指摘はしにくくなってしまう。なんとか玄関からリビングまでの短時間で決着を付けねばならない。
獅子神へ指摘しようとすればするほど、胸にしか目がいかなくなってしまう。靴を揃え、体勢を整える動作でさえユサユサと揺れる獅子神の胸に村雨の視線は釘付けだった。
「……何だ?」
一揺れ、二揺れとする度に乳頭への摩擦計数が気になって仕方ない。乳頭とニットの関係を摩擦力を接触面に作用する垂直抗力で割ろうとするものの、獅子神の乳頭の大きさが定かではないため村雨の頭脳であっても正確な数値は計り知れなかった。
咄嗟の反応で獅子神の胸を押さえたものの、案の定獅子神が向けて来た反応は不愉快と心配の混じるものだった。
「なんか疲れてんのか?」
「疲れてはいない。ただあなたのこの部分が気になって仕方なく」
「えっ、もしかしてオレの体にヤバい病気の兆候でもあるとか」
「兆候といえばそうだが、多少語弊がある」
「ああ!? じゃあ何だってんだよ」
「胸の先端を冷やすと良くないと論文も出ているので何か貼った方がいい」
「ンなもん聞いたことないけど?」
村雨の遠まわしな表現は一向に獅子神に伝わらない。そもそも村雨は的確な診断と歯に衣着せぬ物言いが人気の医者なのであって、婉曲した表現が得意な男ではない。
問答は繰り返す毎にヒートアップしていくが、そうなれば村雨もバカバカしくなってくる。何故自分がここまで気を遣わなければならないのだという怒りすら湧いてくる始末だ。
「訳わかんねえことばっか言ってねえでさっさと動けよ先生」
沸点の低い村雨が、今まで押し留めていたこと事態が奇跡だったのだ。その獅子神の溜め息混じりの一言が、村雨の感情を以前のものに引き戻した。
「乳首が性感帯のくせをしてどうしてそんなに無防備な格好でいる!」
「は!? え!? そ、そんなことねえし!」
突然指摘された己の性感帯にはいそうですと答える人間がいるだろうか。そんな人間は少なくともこの周辺にはいない。
案の定動揺しながらも否定をする獅子神には、もはや聞き分けのない患者のように直接的な行動を取るしかないと、村雨は判断した。
「素肌にニットを着るなどこうして摩擦でどうこうなる可能性が上がると思わんのか? もっと自覚をもって! 行動せんか!」
「あっ♡ え、そんな、性感帯、なんか♡ じゃ、な♡」
乳首を衣服の上から力任せにひっかき押しつぶしを繰り返す村雨の動作を食らった瞬間、獅子神は陥落した。もしかすると自覚はなかったのかもしれないが、今この瞬間に事実を突きつけられたのだ。
壁に体を預け、びくびくと痙攣する獅子神の声は完全に村雨の指摘が事実であることを証明してしまっていた。
やましいかやましくないかは別として、腰の抜けた獅子神を見下ろす村雨に一切の邪な感情がなかったのは医師たる職業を誇っても良いことだった。
リビングに入る頃、獅子神は半泣きでインナーを着たし、村雨はその夜から獅子神のことを考えて眠れなくなった。