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    さいとうさん🦊🧢

    @2D3150

    漫画と文章の両刀ヲタク。流彩を量産したい🦊🧢

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    POIPOI 16

    流川を好きになる彩子の話。富中から湘北にかけての捏造しかないモブ盛り沢山回です。一度は流←彩も書いてみたくて、がっつり書けて本人は満足しています。一瞬だけほんのり花晴。最後はハッピーエンドですが、いつものように何でも読みたい方向け。

    #SD男女
    #流彩

    流←彩【どんな雲にも銀の裏地がついている】 神奈川県立富ヶ丘中学校は、制服こそあれど学区内でも比較的自由な校風だ。偏差値が高いわけではないが、文教地区が近いこともあって周辺地域の治安も落ち着いている。校則の締めつけがなくても生徒たちが羽目を外すことは稀だった。
     そんな富中でも六月に入ると生徒の三分の二が浮き立つ。三年生は二泊三日の修学旅行、二年生も一泊キャンプがあるからだ。大半の生徒が校舎から消えるこの数日間は部活動もほとんどが休みになり、一年生たちは伸び伸びと過ごす。
     五月三十一日。梅雨入り予報に違わず朝から雨が降り続ける。三年二組の日直日誌を書き終えて、彩子は職員室へ急いだ。さっさと提出して部活に行きたい。湿気で廊下と上履きが擦れる。キュッキュッ。まるで体育館で聞こえるバッシュの擦れる音と同じだ。
    「失礼しまーす」
     職員室のドアは常に開放されていて、形式だけの挨拶をする。するとよく知る顔と目があった。
    「あら、あんたも日直だったの」
    「うす」
     男子バスケ部の流川は二年二組だ。
     職員室の机は学年団ごとに一組から並び島になっている。同じ二組同士、三年二組と二年二組の担任の席は向かい合わせだ。
     日誌を担任の机に置いて二人は体育館を目指した。
     校舎から体育館へ続く渡り廊下のトタン屋根を雨音が激しく打ち鳴らす。朝はしとしとと降っていたが、時間を追うごとに強まっていた。
     初夏を目前に雨で冷えた空気が彩子の素肌を撫でる。明日から衣替えだが、カーディガンが必要だろう。
     隣を歩く流川は平然としている。
    「あんたは寒くないの?」
    「うす」
    「来週晴れるかしら」
    「京都?」
    「そ。でもそっちもキャンプでしょ。雨で足元悪いのイヤじゃない」
     二年生が行くキャンプ場は毎年同じ県西部の場所だ。幼児から中三までが使える敷地内は安全が売りで、各学年に合わせたアクティビティも広い敷地内に点在している。宿泊施設もテントではなく大型のロッジで過ごしやすい。とはいえ雨ではアクティビティも限られるので、彩子は昨年のことを思い出していた。
    「仕方ないんだろうけど梅雨時期にキャンプとか賭けよね。山は天候も変わりやすいしさ。去年もギリギリだったわ」
    「キャンプはまあ、それ含めてってことだろうし」
    「あら、やけに物分りが良い」
     意外と前向きな言葉に彩子は流川を見上げる。バスケ以外に好意的な意見を出す流川はきっと珍しい。不思議そうに自分を見る先輩に、後輩は答えた。
    「親がアウトドア好きで、何度かあのキャンプ場は行ったことがある」
    「え! 意外!」
     流川が体を動かすことが性に合っているのは、運動部であるし彩子自身がそうなので理解は出来る。だがアウトドアに馴染みがあるとは思わなかった。
     流川の両親……。
     想像がつかず、なんだか口元が緩む。
    「なに笑ってんの」
    「いや、あんたがアウトドアって。親御さんはあんたとタイプが違うみたいね」
    「うちは全員顔だけ同じで、中身は全員違う」
    「それめちゃくちゃ面白いなぁ」
    「……」
     彩子は流川の背中を叩いて大きく笑った。普段仏頂面が貼りついている無愛想な後輩の、思わぬ背景が可笑しくて仕方ない。
     流川はそんな彩子の反応を予想していたようで、やれやれとした風に見るのだった。
     体育館に着いた。
     男女バスケ部それぞれの隣り合うコートに二人は向かった。
    「日直お疲れ〜」
    「彩子先輩ちゅーっす!」
    「キャプテン、五分後に紅白戦です」
    「あ、じゃあアップしたら審判やるわよ」
     新体制になって半年以上が経つ。キャプテンになったばかりの頃より彩子も部員も随分と慣れた。季節を思うと微妙だが、この時期に上級生らの宿泊行事があるのは確かに合理的なのだ。
     紅白戦のあとは振り返りとシュート練習をして、下校のチャイムを迎える。
     部員とともに帰り支度を済ませた彩子の元に、同じく既に制服姿に戻った流川が来た。
    「先輩、傘がねぇ」
    「は?」
    「こいつビニール傘をパクられたみたい」
     流川の後ろから彩子の同級生が顔を出す。女バスに比べて男バスの部員数は少しばかり多い。彩子は一年の頃から男バスの誰かしらと同じクラスだった。
    「入れてやれよ。帰り道一緒だろ」
    「はいはい」
     ぺこりと頭を下げる流川に、いつの間にか子守り役に落ち着いた自分を振り返る。
     流川になにかあれば彩子に任せておけばいい、という男女バスケ部の暗黙の了解というべき共通認識は、ひとえに流川が彩子に懐いているからだ。
     バスケ部の共通点のほかに通学路がほぼ同じという偶然は流川と彩子の会話が増える理由としては十分だったが、最近では流川は彩子先輩に片思いしているだの、二人は既に付き合っているだの、噂話まで出てきている。
     彩子本人の耳にまで届いているこの噂を流川だけが知らないなんてあり得るのだろうか。
    「あんたはそれでいいの?」
    「っす」
     ニヤニヤする同級生。
     そわそわする女バスの後輩たち。
     う〜ん。
     違うんだけどなぁ……。
     彩子はむず痒さと多少の面倒くささに蓋をして、流川と昇降口に向かった。
     ダークブラウンのローファーに履き替えて、彩子は傘を開いた。白地にピンクや黄色、水色の大柄の花が幾重にも水彩調で描かれた傘は、暗がりをパッと明るくする。
    「大きい人が持ってよ」
    「うす」
     いかにもレディース物の傘を流川は無抵抗に引き受けて持つ。スマートとも無頓着とも取れる行動だが、流川の場合は後者だ。
     彩子が濡れにくいように寄せて持っているのも、流川の肩が濡れているのも、傘を借りている後輩の立場なら当然だと運動部の先輩心理として思う。
     そこに恋心なんてものが含まれているとは到底思えなかった。だって、相手は流川だ。
     流川だけはないでしょ、そういうの。
     根拠のない確信を漠然と抱く。
    「流川、今度はちゃんとした傘を買いなさいね。ビニール傘よりはパクられないわよ」
    「パクった方がワリぃ」
    「それはそうだけど。なにあんたビニール傘が好きなの? こだわってたんかい」
     それは意外だったと彩子は笑う。
     盗まれた被害者の流川は、なにも面白くねぇと呟く。当然だ。
    「でもねー。ビニール傘は盗まれやすいと思うわ。それかネームタグとかキーホルダーみたいなやつを付けてたら多少はましかな? そこまでしてビニール傘にするかって話だけど」
     頭を捻る彩子に無言で耳を傾けると流川はそれならと口を開いた。
    「キーホルダー買ってきて」
    「……ん?」
    「修学旅行」
    「……えぇ~っと? お土産ってこと?」
    「そう」
     コクリと頷く姿に他意は見られず。
     彩子は、流川は噂を知らないんだなと結論づけた。ならば素直に懐かれている状況を楽しもう。実際、好きか嫌いかなら彩子にとって流川は気心が知れた好きな後輩の一人なのだから。
    「いいわよ。ひときわダサいのを買ってきてあげよう」
    「ダセーのはイヤだ」
    「文句を言うんじゃないの」
     軽口や冗談は彩子の習性だ。大きな目を弧にして流川を小突く。
     バスケ部では無口なだけでただの無頓着だと知られている流川だが、下級生曰くバスケ部員以外からはクールでミステリアスだと密かに人気があるらしい。
     ついでに一年の頃からそこそこ高かった身長も、二年の四月では更に伸びて同世代の平均を十センチは超えているとバスケ部でも話題になった。
     んだよ、とむくれる流川の顔をまじまじと見る。
     クールでミステリアスねぇ。
     涼しげではあるわ。うん。
    「なに」
    「んーん。別に」
    「先輩は、自由行動もう決めてんの」
    「そりゃもうバッチリよ! 班ごとにしおりを作るんだけど、うちのはこれよ」
     通学カバンから雨に濡れないよう、コピー用紙で作られた小冊子を取り出した。表紙には『旅のしおり』と縦書きの毛筆で認められている。
    「先輩が書いたやつ?」
    「そうよ。私が書道習ってたの前に話したっけ」
     頷く流川に彩子はそっかと答えると、ページを捲る。
    「先輩も同じ班」
    「ん? ああ、そうよ。っていうか隣の席だし必然的に」
     流川はあまり固有名詞を出さない。この場合の先輩は、さきほど彩子に流川と一緒に帰れと言ってきた同級生のことだ。
     男バスでもムードメーカーな彼は、快活なタイプの彩子と波長が合う。彩子の班はそこに三人の男女を加えて、五人編成だ。
    「キャンプは自由行動ほとんどないもんねー。危ないから仕方ないけど」
    「自然をナメたらヤベー」
    「正論だけどあんたの口から聞くとウケるわ」
     横断歩道で信号待ちをしていると、流川が傘を掲げて掌を上に向けた。
    「あっ」
    「いつの間に」
     話に夢中で、雨が止んでいたことに気づかなかった。
     信号を渡れば左右に別れる。流川が畳んだ傘を受け取って、彩子はニッと口角を上げた。
    「ラッキーね」
    「っす」
    「じゃあまた明日。気をつけて」
    「先輩こそ」
     流川と別れて空を見上げると、雨雲はすっかり過ぎ去ってまばらながらも星が見えた。明日は束の間の晴れになりそうだ。
     水溜りに注意しながら彩子は家路についた。


     ※


     六月三日〜四日が一泊二日のキャンプ。
     中日に五日を挟み、六月六日〜八日が二泊三日の修学旅行。
     今日はその中日である。
     キャンプ明けの二年生を除く一年生と三年生のみが登校対象だ。しかし三年生も翌日には修学旅行なのでどの部活も早々に切り上げられた。
     バスケ部も例に漏れず、いつもより一時間早く解散となった。
    「おお」
     彩子は夕暮れの日差しに目を顰めながら、前方の影を認める。先日流川と別れた交差点で、私服姿の流川とバッタリ出くわした。ママチャリの前カゴには醤油の二リットルボトルが直接入っている。
    「お遣いに行ってたんだ」
    「人使いが荒い。キャンプ帰りだってのに」
    「ははっ。お疲れ様」
    「乗れば」
     キャンプ帰りで疲れていると漏らした矢先のセリフとは思えない。彩子は驚いたが、そういえば流川は時折こういう矛盾を見せる節がある。流川なりの考えがあるのかもしれない。
    「いいの? 疲れてるんでしょ」
    「醤油も先輩も変わんねーよ」
    「さすがに変わるわ」
     なに言ってんのよ、それにお遣いでしょ早く帰らないと駄目じゃないと彩子はツッコミを入れるが、当の本人は納得出来ない様子で、
    「変わんねぇ。ほら早く」
     信号が変わるからと彩子を急かした。
     流川の自転車に乗るのは久々だ。通学カバンを前カゴに入れて、彩子は流川の腰に腕を回す。前に乗ったときよりも少しだけ背中が大きく感じた。ほのかにシャンプーの香りがする。
    「さっきまで寝てたんでしょ。いい匂いさせちゃって」
    「……ああ」
    「ほら前見て。キャンプどうだった? 晴れてて良かったじゃん」
    「フツー。天気は良かった」
     キャンプのフツーってなんだろ。
     彩子は野外調理で火を起こす流川を思い浮かべる。カレーは上手く作れたのだろうか。アクティビティは案外負けず嫌いだから燃えてたかもしれない。大自然の中の流川……。
     いやいや、面白すぎるでしょ。
    「乗馬と酪農、どっちにしたの?」
    「寝て起きたら酪農に決まってた」
    「あんたねぇ……乳搾りした?」
    「した」
     流川が牛の乳搾り……。
     だからさぁ。
    「いい加減にしなさいよ、笑うに決まってんでしょ!」
    「知らねー」
    「だめ、もう力が抜ける。あんたが、乳搾り……。やめてよもう……」
     肩を震わせながらも自転車から落ちないように彩子は流川の腰に回した腕に力を込めた。ヒィヒィと笑い続ける先輩に呆れながら、流川はため息をついてペダルを漕ぐ速度を落とす。
    「あッ!」
    「今度はなに」
    「私汗臭くない」
    「今更。もう着く」
    「最悪……」
     流川がシャンプーの香りを纏っていたことで自分だけが部活終わりの格好なのだと彩子はようやく気づいた。しかし流川は事もなげに流しスンと鼻を鳴らす。
    「ちょっと」
    「やっぱり、いつもの匂い」
    「え?」
    「ウマそーな匂い」
     じゃあ、と流川は今しがた通ってきた方角へ自転車の向きを変えると、あっという間に帰っていった。小さくなった後ろ姿に彩子はハッとしてカバンの中身を探る。
     見つけた。
     片手に収まる小さなプラスチックボトル──オレンジのフォントで“フルーティーな香り”と書かれた制汗剤。
     思わせぶりな言動はきっと無意識だ。
     だというのに、ほんの少しでも頭が真っ白になった自分が恥ずかしい。流川に限って、ない。絶対にない。
     すっかり何でも知っていると思い込んでいた。容姿こそ大人びているが中身はもっと子供だとばかり。こんな、こんなにも罪づくりなヤツだったとは。


     ※


    「北野天満宮でお守り買った?」
    「買った〜! っていうか親に絶対買えって言われてさ」
    「うちも。彩子は?」
    「……え? ごめん、なんだって?」
    「彩子ずっとこんな調子じゃん」
     露天風呂のある大浴場から連れ立って戻った富中三年二組の女子四人組は、和室に入ると既に敷かれた布団に寝転がり話し続ける。
     修学旅行一日目は清水寺から始まり、哲学の道、三十三間堂、北野天満宮、金閣寺と目白押しで高校受験を控える彼らの関心はもっぱら北野天満宮のお守りだ。
     しかし彩子と同じ行動班だった女子生徒は、彼女のトレードマークであろう眼鏡を光らせた。
    「清水寺の裏に地主神社あったの覚えてる?」
    「私そこでもお守り買った」
    「めっちゃ買うじゃん!」
    「うるさいよ! で、そこがなに」
    「あそこからもう彩子の様子がおかしかったね」
    「え?」
    「えー!」
    「マジで? とうとう彩子にも好きな人が」
    「いや彩子はあれでしょ、例の後輩」
    「ちょ、ちょっと、ちょっと待って!」
     最速で上がるボルテージに、渦中の人となった彩子の制止が響く。女子中学生が四人集まって、夜な夜な盛り上がる話題なんて恋愛話をおいて他にあるはずもない。
     目鼻立ちがハッキリしてスタイルも抜群。成績は優秀で性格もさっぱりとして明るい彩子は、一年の頃から幾度となく男子生徒からの告白はされてきた。しかし本人はバスケ一筋で断ってばかりだった。
     そんな彩子が、である。
     三人の好奇心が最高潮に達するのも仕方のないことだ。
    「ない、ほんとに何もない。余計なこと言わなくていいから」
    「え〜? おみくじするか迷ってたじゃん」
    「したの? してないの?」
    「してない」
    「はい、黒。これは逆に黒だわ」
    「なんでよ!」
    「意識してんじゃん。前までなら適当に引くか見向きもしなかったはず」
     まさにその通りだった。
     思わず口を噤んだ彩子を見て残りの二人は眼鏡の女子生徒を、お〜名推理、と囃し立てる。
    「で、彩子さん。お相手は?」
    「彼氏? 片思い?」
    「例の後輩?」
    「彼氏じゃないし、片思いでもない。ただちょっと、ほんの少し、気になってるだけよ」
     彩子の頬が赤いのは、風呂上がりのせいだけでは無さそうだ。三人は顔を見合わせる。
    「ほ〜〜〜。後輩は、否定しないんだ」
    「……ない、マジで流川こそないんだって、本当に。勘弁してよ」
     弱々しい彩子が物珍しくてつい三人は絡みたくなってしまう。だが、そこまで困られるとさすがに話題を変えざるを得なかった。誰しも空気を悪くしたいわけではないのだ。
    「彩子がそういうなら仕方ない。じゃあ私の話を聞いて!」
    「あんたは最初から話す気満々だったじゃん」
    「話はいいからお守り見せてよ」
    「ひどくない?」
     機転が利く気のいい同級生たちに彩子がホッとした、その時だった。部屋の内線が鳴る。一番近くにいた彩子が受け取ると、受話器の向こうで声を呑む様子が伺えた。
     訝しむ彩子に、他の三人は気づく。
     これは宿泊行事お約束のアレに違いなかった。
     数分後、受話器を置いた彩子は部屋の鍵を寝間着代わりの短パンのポケットに入れ、館内スリッパを履いた。
    「すぐ戻るね」
    「いってら〜」
    「勇気あるけど、ご愁傷様だなぁ」
    「高嶺の花の彩子さんだからねぇ」


      ※


    「四組のやつに告られたんだって?」
    「はぁ 誰から聞いたのよ。まったく……」
     京都二日目は太秦映画村だ。
     昨日は終日曇りだったが夜間に降ったのみで、今朝は天候に恵まれた。このまま行くと雨の影響を受けずに全行程を済ませられそうだった。
     レンタル衣装で舞妓に仮装した彩子へ、浅葱色のダンダラ羽織りを被った男バスの同級生が耳打ちする。
    「断ったんだろうな?」
    「なんであんたに言わなきゃなんないのよ」
    「俺は後輩の応援をしてるだけだ」
    「どいつもこいつも」
    「はーい、そこのバスケ部! 写真撮るよ〜」
     はい、チーズ!
     上手く笑えたんだろうか。彩子はあまり自信がなかったが、誰も何も言わないのでいつも通りに見えているはずだ。そういうことにしよう。
     それにしてもだ。
     誰も彼もが《流川は彩子を好きだ》という体でいる。それって本当に? 当人としては全く理解出来なかった。
     昨晩告白してきた男子生徒は顔を真っ赤にして気まずそうだった。接点のない男子だったが、ああ、私のことが好きなんだなと分かる程度には。
     恋愛経験のほとんどない彩子でさえ理解出来る。あれが“好き”というものだ。
     そして認めたくはない、認めたくはないが、自分もきっと、もし今流川に会ったなら“ああ”なってしまうだろうと。
     でも流川は違う。
     思わせぶりな言動は、絶対に無意識だ。
     あいつはそういう人間で、それだけのことだ。
     だって隣にいる時の流川はいつも、なんどきも平然としている。
    「はぁ」
    「なんだよ、ため息なんてらしくねーな。お土産どれすんの?」
    「私だって悩み事くらいあります〜。あんたは何買うのよ」
    「妹がご当地キーホルダーにハマってるから、これ」
    「めっちゃいいお兄ちゃんじゃない」
    「心外そうに言うなよ」
     仮装から制服姿に戻って班で向かったのはお土産コーナーだ。旅行の最後に買うと慌てるので、二日目の最初の場所で買おうと決めたのは彩子だった。
     妹へのお土産がキーホルダーか……。
     流川が頼んできたのも、事情があるにせよキーホルダーだ。比べてしまうと、色気のない誰にでも頼めるお土産だなぁ、と彩子はどこかつまらない気持ちになった。
     約束をした雨の日には、ダサいやつを買ってきてそれを付ける流川を笑ってやろうとさえ思っていたのに。
     いかんいかん、こんなネガティブはさすがにらしくないぞ彩子さん。なんて、自分を鼓舞して彩子は店内を見渡した。
     さすがの観光地といったところで、映画村の敷地内店舗だがその他神社仏閣の京都に関するお土産は一通り揃っているようだった。


      ※


     修学旅行明けの六月九日。
     土曜日だが三年生は休みで、昨日の午後発生した雨雲とともに京都から戻った彩子は、夜から今朝にかけて降り続ける雨にうんざりしながら自宅のリビングで寛いでいた。
     もう四日ほど流川のことでやきもきしている。子供っぽいと思っていた後輩の、予想だにしない言動に当てられたからとはいえ、自分を信じられないでいた。
     だってこんなの、あまりにもチョロすぎる。でも待てよ、これは恋愛経験が少ないせいかも。それは大いにある。だからもし相手が流川じゃなかったとしても動揺して引きずったはず。流川じゃなくても……
    「彩子、味醂買ってきてくれない?」
    「えっ 雨だよ、イヤよ」
    「雨って言ってもパラパラして大したもんじゃないでしょ。ついでに好きなもの買ってきていいからいってらっしゃい」
    「はいはい」
     かけ終わった掃除機のコンセントをしまいながら、母親は財布から千円札を一枚取り出すと彩子に手渡した。
    「いつものやつね。急ぎじゃないから」
    「歩きだしのんびり行ってくるよ」
     玄関の姿見を一瞥する。黒の短パンに白のカットソーでは寒そうで、彩子は自室に戻ってピンクのパーカーを羽織る。
     いつものスーパーではなく駅前の商店街に行こう。アーケードの下なら傘を差さずにブラブラ出来る。気分転換が必要だった。
     外に出て、白地に大判の花柄が彩られた傘を開く。パンッと小気味いい音に、流川と一緒に帰った日のことを思い出した。
    「……重症」
     結局買い物に出掛けたところで上手く切り替えも出来ないまま、彩子は月曜日を迎えた。
     なんとなく流川と顔を合わせたくなくて微妙に時間をずらして登校した彩子は、功を奏して朝練でも意識せず過ごすことが出来た。
     朝練を済ませて校舎に戻り三年の廊下へ上がる。二年の廊下を通り過ぎたときにも感じたが、やけに人が多い。
     人だかりを注視すると原因がわかった。
     壁を占拠するように修学旅行の写真が貼り出されていた。
    「これかぁ」
    「現像早くない? 去年キャンプのときはもうちょっと待たされたよ」
    「申し込み用紙取ってきた〜」
    「焦んなくても〆切木曜日だって」
     彩子も京都には二十七枚撮りの使い捨てカメラを持参していたが、コンビニで現像に出してまだ取りには行っていない。
     去年のキャンプはカメラの持ち込みが不可だった。安全を考慮してのことだろう。今年も不可のままに違いない。
     そうか、キャンプの写真か。
    『寝て起きたら酪農に決まってた』
     乳搾りをする流川の写真があるかもしれない。彩子は人知れず思い出し笑いをするのだった。
     まいったな。
     本当に好きなのかも、あいつのこと。
     多少の緊張感を抱きつつも難なくすぎた一日だったが、放課後ともなるとさすがに同じ体育館で部活する相手を避けるのは難しい。
     彩子を見つけた流川が話しかけてきた。お土産の約束をしていたし、彩子としても渡すつもりだったのでカバンの内ポケットに入れてきた。ただ、今すぐ取りに戻って渡すのは気が引ける。他の下級生たちには個別のお土産を買っていない。流川にだけ渡すなんて噂の種を増やすだけだ。
    「先輩」
     数日ぶりに、そして好きな相手だと意識した上で会う流川の存在感は圧倒的だった。ここまで来るとらしくないのは承知の上で、まともに目が見られない。
    「先輩」
    「あっ、うん! なんだっけ?」


      ※


    「流川くん、好きです。付き合ってください」
     野外調理のカレーを食べ終えた流川は、居眠り中に班長より任命されていた食器洗い係としての仕事を全うしていた。備えつけのタオルで濡れた手を拭う。
     それを見計らったタイミングで、女子生徒が流川に声をかけた。今からついてきて欲しいところがあると言う。
     同じクラスだろうか。女子生徒に限らず流川にとって、この学校の生徒はバスケ部員とそれ以外でしかない。名字なんてもちろん思い出せなかった。
     なんで俺がと疑問符を浮かべたものの、夕食後の自由時間は始まっていて、残る予定はといえば風呂と就寝だけの流川は断る理由もないので呼び出しに応じた。
     そして冒頭の告白をされた。
     ロッジや炊事場から数十メートル離れた山道に入る手前の階段の踊り場は、施設の安全上照明こそ点いているが日没間近の森らしく木陰に覆われていて、野鳥の鳴き声も遠からず聴こえる。
     緊張だろうか、女子生徒のうつむく顔は長い髪で隠れて表情が見えない。震えながらもしっかりとした口調は気丈だが、流川の答えは決まっていた。
    「……付き合うとかは、ちょっと。無理だから」
    「そう、ですよね。好きな人いるって知ってます。ごめんなさい」
     女子生徒は頭を下げると逃げるように小走りでロッジの方へ戻って行った。
     ぽつねんと残された流川は再び疑問符を浮かべる。好きな人とはどういうことだ。
     頭を掻きながらロッジへ戻ると、一部始終は公然の周知になっていた。思春期の健全な男子が集まって、夜をともに明かそうとするならば猥談や男女の話は避けて通れない。たとえ本人は早々に寝つくつもりだったとしても、男子バスケ部の流川楓は同級生にとってその手の話題が最も似合う生徒の一人だった。
    「流川、お前一組の女子に呼び出されたんだってな!」
    「めっちゃ可愛いくねぇ? 去年同じクラスだったけどすげーモテてた」
    「だからって流川に告白すんのは度胸あるよな」
    「度胸?」
     一組なのも顔が可愛いことも流川は知らない。同じニ組の誰かだと思っていたし髪で顔は見えなかった。へぇ、と聞き流していたところに骨太な単語が出てきて思わず聞き返した。
     すると答えたのは、離れた場所で漫画を読んでいたバスケ部員だ。もちろんキャンプといえど学校行事なので漫画の持ち込みは不可だが、そんなルールはあってないようなものだった。
    「だってお前が彩子先輩を好きなのなんて、バスケ部みんな知ってるし。バスケ部に友達がいるやつらなら、そいつらも知ってるよ」
    「は?」
    「そうそう。さっきの子、バスケ部の女子と仲良いもんな。知らねーわけねぇよ」
    「可愛いだけじゃなくて気の強いところもいいよなぁ」
    「いやファンかよ」
     流川にとって青天の霹靂である噂話を同級生らは使い古したタオルのように適当に放り投げて、次の話題へと移っていった。
     先輩を俺が?
     先輩はこの噂を知っている?
     それとも知らない?
     茫然とする流川に誰もが気づかない。表情が乏しい流川の変化を機敏に拾えるのは限られた人間だ。たとえば、ほら、先輩とか。
     頭をガツンと殴られたような衝撃だった。
     先輩に限って噂を知らないわけがない。
     答えの出ないことをいちいち考えるのは流川の性に合わない。悩むくらいなら寝てしまえばいい。自分はそういう人間だ。そもそも目を閉じれば五分も待たずに夢の中である。
     しかし答えが出てしまった場合はどうすればいい。答えが出ていることと、自分がすべき行動を知っているかはまた別問題だ。
     俺は先輩を“そういう意味で”好きなのか?──そんな初歩的なことはこの際どうでも良かった。これまで誰かを好きになったことがないし、多分苦手分野だ。
     それよりも、この噂を先輩が知っているというおそらくほぼ確定の事実にどっと疲れてしまった。……多分じゃない、それこそ確実に、俺はこの手のことが苦手だ。
     まるでフルコートに出ずっぱりのまま第四ピリオドを迎えたときのように、流川は長い息を吐いた。
     寝るしかない。寝て起きても解決しないことは悲しいかな明白だが、こんなときの流川は眠るしかすべを持たないのだ。
     一泊二日のキャンプを終えて自宅に帰った流川は、いつも以上に泥のように寝た。
     さすがに昼を過ぎても起きてこない息子を母親は叩き起こしてシャワーを浴びさせると、しゃきっとなさいとばかりにお遣いをさせるのだった。


      ※


     七月に入り、期末考査の最終日。梅雨の谷間が増えてきた。中旬に明けるまで、もうあと少し。
     最終科目のテスト中に降った通り雨は止み、空には薄く虹がかかっている。
     ホームルーム後に手作りのおにぎり二つで腹を満たした彩子は、ぐっと軽くなった通学カバンを手に取って体育館に向かう。
     校舎を出て渡り廊下に出ると、左手のフェンス沿いに六月から咲く紫陽花が雨粒を乗せていた。
     換気のため開扉された体育館からドリブルの音が聴こえた。一番乗りだと思っていた彩子はそっと覗きこむ。
     イレギュラーな日に彩子より早く体育館に来て自主練するのは流川しかいない。
     胸の高鳴りを落ち着かせるように深呼吸する。
     あの日、彩子は流川にキーホルダーを渡せなかった。
    『先輩』
    『あっ、うん! なんだっけ?』
    『──ごめん』
     キーホルダーは買った? そう、訊かれるとばかり思っていた彩子は一瞬なにを言われたか分からなかった。頑なでぶっきらぼうでいまいち礼儀知らずで不躾な流川が、私に頭を下げる理由って?
     驚いて応えられずにいる彩子に、流川は低くて通りにくい地声をさらに小さくして消え入るような声で続けた。
    『噂、イヤだったと思うから』
     彩子だけに届いた言葉に息を飲む。飲み込んだのは、自分の声か、流川への芽吹いたばかりの想いか。どろりと下降していく感情を掬い上げる手立てが浮かばない。
    『あー……』
     そのあとどんな風に答えたか彩子は思い出せなかった。
     いや、うん、気にしないで。私なら大丈夫だから。多分そんなところだ。気の利いた返しを出来たとは思えなかった。
     それから半月と少し、彩子と流川の間には気まずい空気が流れた。同級生にも「お前らが喧嘩なんて珍しいな」と言われるくらい、あからさまに。
     いくら同じ場所で練習しているとはいえ、男バスと女バスではメニューも違う。そのうえ学年も違うのだから、関わる意志を持たなければ次第に溝は深まった。
     ついに噂を知ってしまった流川は、やはりその気がなかったということだろう。いつものように平然とやり過ごせばいいのに、わざわざ謝ってくるなんて彩子の予想を超えていた。
     イヤだったのはどっちよ。そりゃあ私も、当初は困っていたし呆れてもいた。だけどイヤだと思ったことは一度もなかった。
     彩子は唇を目一杯噛んだ。そうでもしないと涙が零れそうだったから。情けない。バカみたい。好きだと自覚した途端、失恋なんて。めちゃくちゃダサい。
     流川のレイアップシュートが決まる。ゴールネットをボールが揺らす音はハッキリと聴こえた。それなのに、彩子には見えなかった。おかしいな。泣いていないはずなのに。
    「おい、大丈夫か?」
     肩を揺さぶられてハッとする。
    「え? うん」
    「うん、じゃねーだろ。泣いてんじゃん。体調悪いなら部活休めよ。腹でも痛い? 俺から言っとくから」
     同級生が心配そうに顔を覗き込んできた。妹思いの片鱗をこんな形で知るとは思わず、彩子はふっと気が緩んだ。
    「なに笑ってたんだよ。こっちはマジで心配してやってんのに。おい、流川。お前も突っ立ってないで、彩子を……保健室行くか?」
    「え! いい! いいわよ」
    「昇降口まで送ってこい」
     彩子としては流川の介添えは不要だと言いたかった。顔を横に振って止めようとするが、あろうことか流川は「うす」と答えてボールを片付けた。なにを差し置いてもバスケをしたい練習の鬼が、なんてことだ。
    「ほんとに大丈夫だって」
    「ついでに仲直りしてこいよ」
    「なに言ってんの?」
     すっかり妹思いの兄の顔をした同級生は彩子に耳打ちすると、今度は流川にも声をかける。
    「流川、昇降口じゃなかったわ。家まで送ってこい。監督には俺から言っとく」
    「うす」
    「女バスにも、俺が言っておくからな」
     有無を言わさず事を運ぶ同級生に、彩子は開いた口が塞がらない。
    「先輩はゆっくり来て」
     流川はそう言って、もう一人の先輩に頭を下げると足早に更衣室へ向かった。きっと手早く帰り支度を整えて昇降口で待つつもりだ。そんな様子を誰かに見られたら、最近落ち着いていた噂がまた盛り返すかもしれない。
     観念して彩子は体育館を後にした。
     彩子はこれまでバスケ部の練習を一度だって休んだことはない。そしてそれはきっと流川も同じだ。こんなことでサボらせるような真似をして、いいんだろうか。
     下足箱の前で上履きから履き替えた彩子に流川が駆け寄る。
    「早い」
    「待ってないわよ」
     あんたまで心配しないでよ。
     上手く、笑えていたらいいのだけれど。
     流川は無言で駐輪場に向かう。二人乗りをするのは、修学旅行の前日以来だ。彩子は自分よりずっと大きな後輩の背中を見つめた。制服のズボンのポケットに両手を入れて歩く流川は以前と変わらず平然として見える。
    「乗って」
    「ごめんね」
     ママチャリのサドルに跨った流川の長い脚は窮屈そうだと、的外れなことを考えながら彩子は後ろに乗る。腰に腕を回すのがなんとなく憚られて迷った挙げ句腰ベルトを握ったが「落ちる」と流川は前を向いたまま、彩子の手首を掴むと自分の腰をしっかりと持たせた。
    「……ごめん」
     らしくない。彩子らしからぬ言動を彩子も流川も気づいている。でもどうしようもなかった。
     彩子一人を乗せてもまるで負荷がないように流川はすいすいと自転車を漕ぐ。少し前までは彩子にとってもそれが当たり前で頼もしさすらあった。でも今日は虚しい。恋をするとは、失恋するとはこんなにも人を弱くするんだろうか。
     私に恋は向いていない。
     悲しいけれど仕方がない。
     彩子は流川の背中に額を落とした。
     それから暫くして彩子は違和感を覚えた。いつの間にか通学路を大きく外れている。流川を見上げるが、相変わらず前だけを向いていた。
     帰路がほとんど被っている流川が彩子の自宅住所を忘れたなんてことはないはずで。それにこの道を彩子は知っている。
     富中から海岸線の公道へ抜ける一番の近道だ。
     部活のオフ日や午後休の日、物足りなくなって海沿いにあるバスケットコートに数回二人で行ったことがある。直近では五月の中間考査前に行ったきりだ。
     彩子は頭を流川の背に預けたまま海側を向いた。
    「腹痛ぇの」
    「痛くないよ。あいつが大袈裟なだけ」
    「なら良かった」
     気のせいか、雰囲気が和らいだ。
    「あいつさ、妹がいんのよ」
    「うす」
    「私も最近知ったんだけど。でさ、だからか、たまにお兄ちゃんぽいところ出してくんの。同い年なのにおかしいわよね」
     共通の知り合いは話題の潤滑油になる。
     彩子は少しずつ気持ちが落ち着いた。
    「俺はそういうの分かんねーから、すげぇと思う」
    「あんたはその図太さがいいの」
    「む……」
     海開き前だが梅雨真っ只中でも前線の位置に恵まれたのか、サーファーがちらほら見える。雨上がりの澄んだ青空に扁平雲がもくもくと育ち、昇りきった太陽の日差しが海面に白く反射して、彩子は目を細めた。
     流川の自転車に乗って眺める海が好きだ。感傷的になりたいわけじゃない。でもきっと、今日でこんな時間は最後になる。もっと早く気づけば良かった。大切に過ごして、大事に育みたかった。
    「あそこのバスケットコートに向かってるんでしょ?」
    「うす」
    「あんたボール持ってきたの? 置いてきたんじゃない?」
     自転車が緩やかに停まった。無言で振り返った流川の顔には「しまった」と書いてある。こいつはまったくもう……。彩子は吹き出して、バツの悪そうな後輩の背中を叩いた。
    「そんなことだろうと思ってたわよ」
    「どうせ気が利かねー」
    「そうね」
     否定しない彩子に流川は口角を下げてつまらなそうに押し黙る。
    「あんたのそういうところ、救われる」
     前までの彩子ならあっさりと言えたはずの「好きよ」の三文字を飲み込んで、言い換える。それも嘘ではなかった。だから真っ直ぐと流川の目を見て言えた。これでいい。
    「噂って酷よね」
    「……うす」
     頷く流川に迷いが見えて、らしくないのは自分だけじゃないことを彩子は知った。流川が彩子以上に恋愛沙汰へ疎いのは明白で、たかだか噂一つに惑わされて可哀想にとはじめて同情心が湧いた。
     話題を変えたかった。
    「あ、そういえばキャンプの写真、何枚か買ったの? 見に行こうと思って忘れてたわ」
    「乳搾りは撮られてねーから」
    「えー! なんでよ! カメラマンってばポンコツね。私がいたら絶対押さえてたわよ、そんなシャッターチャンス!」
     大袈裟に顔を顰める彩子には流川は短く笑みを漏らして再びペダルを漕いだ。流川は静かに笑う。彩子は自分とは大違いだなといつも思っていた。他人が流川を無愛想だと評するのはその静けさのせいだろう。彩子にしてみれば分かりやすいヤツなのに。
     赤いママチャリはバスケットコートから住宅地へ方向転換をして進む。
    「そっちのカメラマンは有能だったかも」
    「え? 三年のやつ見に来てたの?」
    「映画村のやつ見た」
    「あ〜」
    「二枚」
    「そうだっけ、一枚しか撮られたの覚えてないな。ちゃんと見ておけばよかった」
     写真が貼り出されたのは噂のことを流川に謝られた日だ。だから、それから数日を抜け殻のように過ごした彩子はろくに記入欄を埋められないまま、〆切ギリギリに写真の購入申込用紙を提出したのだ。
    「なんか喉乾いちゃった」
    「すぐ近くにコンビニあるけど」
    「ナイス。気分転換に連れ出してくれたお礼にジュース奢るわよ」
    「あざす」
     回復に随分とかかった。試合で惜敗したときよりもずっと。でももう大丈夫だと彩子は安堵した。少しずつ先輩としての、らしい自分を思い描いてなぞっていけばいい。


      ※


    「キツネ野郎、また傘パクられてやんの!」
     桜木が嬉しそうにはしゃぐのを流川が見逃すはずはなく、すぐに掴み合いになりかける。
    「やめんか!」
     湘北高の男バスマネージャーになってから二年、手放せなくなってしまったハリセンを彩子は後輩二人の頭に連打する。
    「ふぬぅ……!」
    「俺は悪くねー」
    「喧嘩厳禁!」
    「そうだぞ、アヤちゃんの言う通り」
    「俺はリハビリ中なのに……」
    「手加減してるわよ、桜木花道」
     宮城キャプテンによる新体制になって五ヶ月。八月のインターハイ二回戦で背中を負傷し治療とリハビリのために長らく入院していた桜木は、先月・十二月に入ってようやく退院して通院に切り替わった。
     練習後の帰り支度を終えて昇降口まで部員一同わらわらと連れ立ちながら、今日みたいに朝から雨に降り籠められた日は体の痛みが出やすいと、そんな話をしていた矢先だ。
     一月の雨は激しかろうとそうでなかろうと、体の芯を冷やす。
     故に傘を盗まれたというのはまったく笑い事ではないのだが、流川は部活用の大きなボストンバッグを探ってどこか得意げに折り畳み傘を出した。
    「んだとぉ…」
    「どあほうとは違う」
     同じ過ちは繰り返さないと、こめかみを人差し指でノックする。
    「流川テメーこの野郎!」
    「だから止めろっつーの」
     彩子のツッコミで我に返った一年の石井と桑田が二人を止める。佐々岡が同中出身の石井を呼んだ。
    「時間そろそろだぞ」
    「それを言うなら俺たちも急がないと」
     角田も方角が同じ潮田に声をかける。
    「リョータ、俺らもだよ」
     安田の声に宮城は名残惜しそうに彩子を見た。
    「私は傘あるわよ」
    「身の程知らずめ。彩子さんが傘ないわけねー。そうですよねっ、晴子さん」
    「ふふ、そうね」
    「花道うるせぇっ!」
    「はいはい」
     初夏に切り揃えた髪が再び伸びてきた赤木晴子は、入学式の翌日に出会って以降、依然として桜木の女神だ。なんどきも肯定してくれる晴子への憧れは、リハビリ期間の文通を経てより強固になっていた。
     バスケ部で完全徒歩通学は桜木・晴子・桑田のみだ。残る彩子と流川も徒歩自体は可能な範囲だが、普段は同じ方面といえどバスと自転車である。
    「先輩、俺らもバス」
    「あんたは普段乗らないもんね。うちらはまだ時間あるわよ。さっき出たところだろうから。だからリョータも、電車とバス組も急ぎなさい」
     彩子の一声で各自解散となった。
     徒歩組とも曲がり角で別れて彩子と流川は二人きりになる。
     終日の雨予報だったが、校門を出る頃には小雨になっていて彩子はホッとして夜空を見上げた。冬の部活後は雨でなくとも暗い。それでも分厚い雲がややましになっているような。
     二人の使うバス停はすぐそこだ。傘の分だけ離れた距離で、人も車も通らない静かな通学路を並んで歩く。
    「流川が折り畳み傘まで準備してるなんてねぇ」
    「ビニール傘はパクられ易いっつってたのは先輩」
    「それは、そうだけど」
     あまりに懐かしい話題で彩子は瞬きをした。思い出すのに少しだけ時間がかかった。それは遠い記憶だからか、それとも蓋をしていたからか。
     流川は彩子の逡巡に似た反応を気に留めず、話を続けた。
    「来週の修学旅行」
    「えっ?」
    「沖縄でキーホルダー買ってきて。そしたらもう折り畳みを持たなくて済む」
    「それ、どういう……」
     彩子の背後に車のライトが迫った。流川が「先輩、こっち」と彩子の腕を引くと、後ろを軽自動車が通り過ぎていった。
    「俺が車道側歩けば良かった」
    「あ、うん。ありがと……」
     左右を入れ替えて流川はまた歩き出す。彩子は目まぐるしく頭を回転させずにはいられなかった。
     ほどなくしてバス停に着き、屋根の下で二人は傘を閉じた。
     和らいだ雨足がバス停のビニール屋根を優しく鳴らす。水捌けの良い路に水溜りはなく、雨は跳ねずに大人しく道路脇のU字溝に流れていく。
    「先輩とは同じ班?」
    「え、ああ、リョータね。席が離れてるから別よ」
     そういえば中学の修学旅行ではバスケ部の同級生と同じ行動班だったと彩子は思い出す。そいつは別の高校に進学したけれど同い年のくせに時々兄貴風を吹かすヤツだった。
    「沖縄は暖かいんだろうなぁ。早く行きたい」
    「先輩」
    「ん?」
    「あのとき見てたキツネのキーホルダー、俺にくれねぇの」


      ※


    「なあなあ! 流川、三年の写真見に行かねぇ?」
    「は……?」
     約一週間ぶりに全校生徒が登校となった富ヶ丘中は日常を取り戻していた。週末から降り続いていた雨も一限目のうちには止み、いまは曇り空のまま持ち堪えている。
     休み時間といえば流川にとって文字通り休息時間であり寝て過ごすのが当然だ。それを知っているはずの同級生の誘いに自然と眉間に皺が寄る。
     流川の反応を見越していたかのように別の同級生も声をかけてきた。
    「バレー部の先輩と付き合ってんの、俺」
    「だからなに」
     眠くて仕方ない流川は目を擦り、もう一度机にうつ伏せようとする。
    「授業中も寝てただろ! 彼女の写真見に行きたいんだよ〜。付いてきてくれよ」
    「そうだぜ流川。お前だって先輩の写真見たくねぇ? 女バスがめっちゃ可愛かったってマジでうるさかった」
     彩子を慕う後輩は大勢いる。特に女子からの信頼は絶大で、想像に容易く、流川は瞬きをして頭を掻いた。
    「な、行こうぜ?」
    「……分かった」
     どうせしつこく睡眠の邪魔をされるくらいなら、話に乗った方が幾分かは目が覚める。流川は普段行くことのない三年の廊下へ付いていった。
    「あ、こりゃ可愛いや」
     人だかりのピークを超えた修学旅行写真の展示前は閑散としていて、流川たち二年生も臆せず見物できた。
     同級生が流川の肩を叩く。見ると、彩子と男バスの先輩が仮装してピースサインをする写真があった。舞妓姿の彩子は化粧を施していないはずなのに、華やかな元の顔立ちで上品な振り袖と日本髪の鬘を着こなしている。
    「やっぱ美人」
    「流川って面食いだな」
     自分が先輩に惚れていることが同級生たちの中ですっかり定説になっていて、流川は居心地が悪い。それに、わざわざ訂正するつもりはないが、彩子の良さは容姿に限らない。流川は一人悶々とする羽目になった。
     しかしその写真の彩子はどこか心あらずだ。一見いつもの彼女らしい笑顔に見えるが、流川はなんとなく腑に落ちず、視線を動かすうちにもう一枚彩子の写真を見つけた。
     さきほどと同じく男バスの先輩と映っているそれは、土産コーナーでの一コマだった。制服姿の二人はカメラに気づかず、キーホルダーを手にして楽しげに笑い合っていた。
    「仲良いなこの二人」
    「同じ班だっつってた」
     同級生の呟きに流川は答える。たったそれだけの理由だ、この二人が同じ写真に収まっているのは。まるでそう言い聞かせるような声色だった。
     睡眠と無関係なところで流川が声に感情を滲ませるのは珍しい。同級生たちは目配せして肩をすくめた。
    「帰る」
    「もう まだ時間あるぜ」
    「寝る」
    「あーあ……」
     同級生の呆れる様子は背後でも流川に十二分と伝わったが関係なかった。
     先輩たちの写真は傍からするとどう見てもお似合いだった。噂話を二人が知らないわけはない。
     流川の胸にはじめて痛みが走った。
     チクリと指先に棘が刺さったときのような、微かだが無視できない確かな痛みを抱いて、教室に戻った流川は机にうつ伏せて瞼を閉じた。


      ※


     定刻より遅れてきたバスの乗車ドアが閉まる。二人は乗らなかった。
     口元まで覆ったマフラーの隙間から白い息が漏れる。
    「なんで知ってんの。なんで、覚えてんのよ」
     ずっと蓋をしていた思い出と想いが蘇って、彩子は流川を睨みつけた。
    「もうなくしちゃったし」
    「残念」
     嘘だ。
     映画村の土産コーナーで見つけた伏見稲荷大社の白狐のキーホルダー。まるで誰かにそっくりだと、同級生と笑い合って、バレないように後から買った。
     結局渡せなかったお土産は、ポチ袋に入ったまま彩子の自室の机の引き出し奥にずっとしまわれている。
    「先輩が、いま好きなやつがいるのかとか、そういうの、俺には分かんねーけど」
     いつも前だけを見ている流川の瞳に自分が映っている。彩子は夢見心地だった。
    「俺は先輩が好きだから。知ってて」
     答えを必要としない告白は、流川の不器用さを知らなければ不遜にしか聞こえない。
     でも彩子は流川のことをよく知っていた。
     いつだってマイペースで、寝てばかりで、バスケのことしか分かっていなくて、無愛想で可愛げもなくて、でも私にだけは素直で、一度だってキツい態度を見せたこともなければこちらの軽薄な冗談にも怒らず平然と構えてくれていた。それが流川楓という後輩だ。可愛くて気を許していた後輩。ずっと諦めていた。
    「なんでいまなのよ」
    「また先輩が他の男とツーショット撮られるのかと思うと、宮城さんでも、イヤだった」
    「なにそれ……」
     背中に身を預けたことは何度もある。
     でも、流川の胸に額を埋めたのは初めてだった。彩子の鼻先がツンと甘い刺激を覚えた。足の爪先から湧き上がり加速するばかりの心臓の音がうるさいのに心地よく、それがどちらのものかもう分からなかった。
    「バカな流川。私もあんたが好きなのよ」
     顔は見えないが、流川が笑うのが彩子には分かった。
     十五分後に今度は定刻通りバスが来た。ラッシュからズレて人も疎らな車内で空いている座席を最後部に見つけると、二人は並んで座った。
     触れ合う肩がくすぐったい。
     指を絡ませるにはまだ気恥ずかしくて、礼儀正しく指を揃えて握り合った手は、冷えた互いの体をゆっくりと温める。
     車窓を這う小夜時雨の水滴に初々しく寄り添う影が煌めいていた。



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