行かないで 無惨が生まれ育った時代を考えると、彼は一緒に住むより通う方が馴染みあるのだろう。
愛しい相手と初めて夜を共にして「逢ひ見てののちの心にくらぶれば 昔はものを思はざりけり」などと後朝の歌を詠むような時代を生きていたので、通い婚に慣れ親しみすぎているのだろう。だからこそ、潜伏先を多数作って上手く立ち回れるのだろう。
中でも一番足を運ぶのは、黒死牟のところであった。
日が暮れた頃に黒死牟の住まいに向かうが、無惨としては「通い婚」という意識はない。あくまでも聞き取り調査である。なので、業務報告を受けたら、さっさと帰って自分の時間を過ごしたいのだ。
しかも、報告といっても、せいぜい柱を倒したくらいで、青い彼岸花は見つからないし、産屋敷の居所も掴めない。無惨の望む報告は何ひとつ返ってこないのだ。
毎回毎回ねちねちと叱らないといけない、こちらの身にもなって欲しい。大した結果も出していないのだから、「会いたくない、さっさと帰ってくれ」と他の鬼と同じように思ってくれた方が有難いのだが、黒死牟は違うのだ。
身を清め、長い黒髪に丁寧に櫛を通し、一組の布団の横で髪を下ろし、三つ指をついて長襦袢姿で報告するのだ。
明らかに報告ではない。夜のお誘いである。
「寝入りばなに来て悪かったな」
と気付かないふりで逃げ帰ろうとしたこともあるが、ぐいと袖を掴まれた。袖を引くのではない、掴むだ。
「鬼は……眠りませぬ……」
知っとるわ! と無惨は心の中で指摘したが、黒死牟の圧が強すぎて、じりじりと無言で後退りした。
重いなぁ……と思いつつ、無下にも出来ず、適当に相手をして帰ろうと思うが、無惨のそのおざなりな空気を察して、黒死牟は必死で夜明けまで引き留めようとし、帰れない状況を作るのだ。
死なない程度に折檻をして帰れば済むのだが、ここまで健気に尽くす相手に無体を働けない、案外、無惨も弱いのだ。
本当に重い男だ。
それは図体ではなく、愛情が、である。
黒死牟が後生大事にしている櫛は、二人で京に出向いた時に無惨が買ってやった柘植の櫛だった。
その時も、長い髪が洗いざらしのままボサボサになっていたので、「綺麗な髪なのに、こんな無頓着にして勿体ない」と櫛を買って梳いてやった。元より黒々と艶のある髪を美しいと思ってみていたので、櫛通りのよくなった髪は触り心地も良く、無惨も満足していた。
だが、それ以上に満足しているのは黒死牟である。見たことのない嬉しそうな表情に無惨は驚いたが、犬猫の世話と同じような感覚で愛でていた。
今夜も日が昇る前に帰りたいと思いながら背広を脱ぐと、甲斐甲斐しく受け取り、衣紋掛けに掛ける。
無惨より一回りは大きい図体で、花魁や女形よりも嫋やかで艶やかな仕草で迫ってくる。普段は稽古に励み、剣技を磨くことにしか頭にない愚直な男なのに、惚れた相手の前ではここまで豹変出来るのだ。こいつの情念は地獄の業火など比べ物にならないほど煮え滾り、死後は怨霊になって惚れた男に取り憑くだろうなと思うと、背筋に寒気が走る。
今夜も鬼気迫る表情で、無惨の体に乗ってくる。これでは自分が襲われている気分になる。自分の方が明らかに強いのだが、気持ちでは完全に負けている。
東の空が白んできた。気を失っている黒死牟に気付かれないように静かに布団から抜け出すが、「行かないで」と言わんばかりに腕を掴まれた。
「明けぬれば暮るるものとは知りながら、なほ恨めしき……朝ぼらけかな」
咄嗟に思い出した後朝の歌を詠み、別れを惜しむように黒死牟の髪を掬い上げ、その絹のような髪にくちづけた。
「夜明けが恨めしいな……だが、また日が暮れれば会える」
「無惨様……」
長い黒髪の隙間から、六つの目がじっとりと彼を見つめる。そうだ、私も別れを惜しんでいるのだ、また夜、会おうな! と思いながら去ろうとするが、なかなか手を離そうとしない。
「長からむ……心も知らず黒髪の……乱れて今朝は……ものをこそ思へ」
怖っ! でも、とっても黒死牟っぽい!!
本当にお前、重たい歌が似合うな……と思いつつ、無惨は思わず手を振り払い、逃げるように帰っていった。