Monologue for himself【さめしし】「……旅行とか、大人になるまで行ったことなかったんだよ、オレ」
寝ようとしていたベッドの中で、獅子神が言葉を発した。
彼が自ら、突然過去のことを話し出すのは珍しく、村雨は入眠しかけていた頭を無理矢理覚まして耳を傾ける。
体を起こして無言で獅子神を見つめる村雨の視線は優しく、彼が次の言葉を自然と話し出すのを促していた。
「誰かと遊んだ記憶もほとんどなくてさ。家族で旅行とか、ダチと旅行とか、憧れてた」
獅子神も体を起こして、村雨のほうを見て話す。
「大人になってこの仕事を始めて、まとまった金ができた。ずっと憧れてた車も買って、ドライブがてら横浜とか、北陸とか、海があるいろんなとこに一人で行ってみたんだ。……でも、なんか違ったんだよな」
それはそれで楽しかったんだけどさ、と付け加えて、彼は少し苦く笑う。村雨はそのまままっすぐ目を見つめている。部屋の明かりは点けず、宵闇が包む中、静かな時間が少し流れていた。
「……そうか」
村雨には、当時の獅子神の感情を慮ることはできても、経験を共有して同じ感情を抱くことは不可能だった。過去の出来事は変えられないし、彼とは過ごしてきた環境がそもそも異なる。決して、「わかる」とは言えない。相槌を打って聞く姿勢を見せることが、村雨に今できる唯一のことだった。
「まさかこの年になって、世代も仕事も考えも、何もかも違うダチができるなんて、思ってなかったんだよな。そんで、そいつらといろんな場所にこうして出かけるなんてさ」
獅子神はそう言って、先ほどとは違う笑みを零した。
村雨は、この男にいつまでもそうやってマヌケのように笑っていてほしいと心から願っていた。だが、彼は自分の選択で賭場にいて、命を削る場所に立っている。彼の選択を蔑ろにすることはできなかった。獅子神が安全な場所にいて、普通の暮らしをしていたら、そもそもこうして出会うことすらなかったのだから。
「……オレ、楽しいって、思っていいのか」
手元にあった枕を抱え、獅子神はぽつりと吐き出すようにそう言った。独白だったいままでの言葉とは異なり、問いかけられたその言葉は、村雨に投じられたものなのか、彼自身へのものなのか。村雨は聡明なその頭を動かしての判断を待つこともなく、反射で口が動いていた。
「当たり前だろう」
珍しく少し語気が強くなった村雨の言葉に、獅子神は目を見開いた。
「あなたが楽しいと思えば『楽しい』と言っていい。あなたが悲しいと思えば『悲しい』と言っていい。少なくとも私の前では、下手な繕いはしなくていい」
そう言うと村雨は、枕を抱えていた獅子神の両手を握り、まっすぐ彼の目を見つめた。段のような余計な言葉は添えず、曲解しやすい彼にでも伝わるようにしっかりと言葉で伝えよう。
「あなたの過去は誰にも変えられないが、あなたのこれからは変えられる。どう過ごそうがあなた次第だ。縛るものなんてない」
「……はは。なんだよ、それ」
ギュッと握られた手は力強く、しばらく二人はそうして時を過ごした。
「大の大人がこんなん、みっともねえし恥ずかしい」
どれくらいそうしていただろうか。気づくと獅子神はいつもの調子を取り戻していたようで、
「みっともなくとも構わん。何か躓くことがあったらすべて私に言え」
「なんでだよ。オメーはオレの保護者か」
保護者……彼の表情から察するに、その単語に深い意味はないのだろうが……。彼の保護者は彼自身を『保護』してくれなかったというのに、その例えを使うのか。村雨はわかりやすく溜息をつき、こう返した。
「パートナーのことを大切にしたいだけだが。もしやそう思っているのは、私だけか?」
「うっ……」
大事に扱われることに慣れていないのだろう。獅子神はバツの悪そうな顔をして、「悪い」とだけ返事をした。わかったのであればよろしい。
「あなたがしたいと思ったことは、些細なことでも言葉にしてほしい。旅行でも、何でも」
「……別に言わなくったって、オメーならわかっちまいそうなモンだけど」
「マヌケめ。私にあなたの感情の機微をいちいち察しろなどと言うつもりか?自分で主張する癖をつけろ」
そう話す村雨の表情は柔らかく、二人して顔を見合わせて笑いながら、隣で眠りについた。