糸師凛はモテない「凛さ、もうちょっと愛想良くした方がよくない?」
風呂から戻ってきた凛の気配に向かって、声をかける。返事はないまま、ソファの左側が凛の体重分沈む。
「ファンサして点が入るなら、いくらでもやってやるよ」
そう言うだろうと思った。俺は視線を上げずにスマホをいじり続ける。そういう文言で検索をしているのだから当然なんだけども、どれだけ下へスクロールしても凛への悪口が途切れることはない。
「サポーターの応援が力になるってことがあるじゃない。アウェイのスタジアム、追い込まれている盤面、確かに聞こえる俺の名前を呼ぶ声。何がなんでもあと一点、あのゴールにぶち込んでやる!って思ったりしない?」
「わかんねぇ」
「お前その見た目なのに、人気男子サッカー選手ランキング入んないんだもんな。相当だよ」
「女が選ぶやつだろ?俺を応援している奴はいっぱいいるはずだ」
そう凛は、人気はあるのだ。男性とサッカー少年に。凛がフィールドに現れた瞬間、スタジアムに響く、野太い声援。咆哮。太鼓に鳴り物。それに答えるように360度見渡し不敵に笑って見せる凛の姿。
「俺のグッズの売り上げ、知らないのか?」
凛のレプリカユニフォームや名前の入ったマフラータオルの売り上げは、歴代の一位をとっくに追い抜き、記録を更新し続けているらしい。男性ファンの方が金離れが良い、という都市伝説を凛本人が真実だと証明している。いや、一概には言えないと思うけど。
「凛に嫌がらせしている人は、女性なんだろうな」
「嫌がらせされているのか?俺が?」
気の抜けた声を出す凛に思わずため息が漏れる。凛は基本的に、サッカーと兄貴にしか興味がない。自分に向けられる悪意にすら鈍感だ。
「何も全員にサインしろ、握手しろって言ってるんじゃない。ただ、凛が手を振ったり、ちょっと笑いかけるだけで幸せになれるって人はいっぱいいるんだよ。そんで、その逆も然りってこと」
「嫌がらせする奴が悪いだろ。なんで俺が態度を改めなきゃなんねぇんだ。そいつらをどうにかしろよ」
まぁ、そうなのかなぁ。
「大事な人がこんなにヘイトを買っちゃってるのは、不安なわけですよ」
スマホ画面を凛に見せつけるが、軽く払われてソファに落ちる。
「俺が女にキャーキャー言われて、お前にとっていいことがあるのか?」
「そう言うわけじゃあないけどさぁ」
俺だって、恋人というだけで凛の挙動に苦言を呈しているわけではない。そもそも何でわざわざ凛に対する悪口なんか検索しているかというと、相談されたのだ。凛のチームの会社の人に。
『糸師さんに、もう少しだけ愛想良くしてくれるよう、潔さんから言ってもらえませんか』
数日前に言われた言葉だ。SNS上で凛に対する悪口がバズったり、凛の態度の悪さが度々炎上していると。チームの公式サイトにも凛への誹謗、中傷が届いているそうだ。
「まぁさ、俺の好きな子が知らないやつに悪く言われているのを見るのは嫌だよ」
「好き?」
「お前だって俺が暴言吐かれている場面なんか見たら、気分悪いだろ?」
「別に」
「別にかぁ」
「グダグダ言ってねぇで、やること済んだんなら早く寝ろよ」
凛に足蹴にされ、渋々寝室へと向かう。ひと足さきにベッドに入って、考える。女の子にファンサする凛なんて想像できないか。その時の俺は、凛がそのことについて真剣に受け取り、行動に移してくれるなんて、微塵も思っていなかったのだ。
「凛?おかえりー、今の音なにー?ってどうした?!」
数日後。珍しく俺の方が早く家に帰って来たため、先に夕食の準備をしていた。凛、遅いなーなんて考えながら野菜の皮を剥いていたら、玄関から大きな荷物が倒れるような音が聞こえてきて、急いで様子を見に来たら凛が倒れていた。傘立てやコート掛けなんかも凛と一緒に横たわっている。
「凛?凛、大丈夫か?具合悪い?どこか怪我した?」
お母さん座りをして膝の上に凛の頭を乗せる。虚ろな目をしているけれど意識はあるようだし、顔色も大して悪くない。
「凛?何があった?立てるか?」
凛の頬を撫でる。熱もないようだ。
「つ、うぅ」
「ん?なんて?」
「疲れた」
そのまま凛は寝てしまった。
凛に何があったのか、はそのあとすぐに判明した。ネットニュースもSNSも凛に関する話題で大盛り上がりだったからだ。簡単に言ってしまうと、糸師凛のファンサがエグいと。最近の凛は求められれば断ることなく、握手をし、サインを書き、写真を撮らせてくれるとのこと。これまでは練習後、ファンの前を通る時にジャージを頭から被ったり、全力で走り抜けていたのに、どういう心境の変化だ?と界隈がざわついている。なんとウィンクを送られたと言っている女性もいる。そしてそれに比例して、サッカーガチ勢や男ファンからはこれまたえげつない程の批判が寄せられているようだ。今さら顔の良さに気づいたか?そろそろ嫁が欲しいのか?運営は糸師凛をアイドルと勘違いしているのではないか?など。それでも、成績をキープできていれば文句も少なかっただろう。けれども凛は、目に見えて調子を落としている。凛はファンサを続け、どんどん弱っていき、うちうちにだけれど、ついにしばらく休養するようチームに言い渡されてしまった。
「潔選手」
移動中、突然下の方から声をかけられた。小学校低学年くらいと思しき男の子が、気を付け!の姿勢でピシリと立っていた。
「潔選手、あの、お疲れ様です、応援しています」
緊張した面持ちの少年と視線を合わせるため、しゃがむ。なんで後ろ手に手を組んでいるのかな?と思ったら、背中に色紙を持っていた。
「サイン、いる?」
「欲しい!です」
お名前は?と聞いて、色紙とマジックを受け取る。
「僕、糸師選手が好きなんです」
「え?」
「あ、凛選手です。冴選手も好きだけど」
「うん」
「プレイは潔選手が好きで、一所懸命真似してます。コーチも、潔選手みたいに全体を見て、みんなの動きを予測しながら動きなさいって。ユーチューブ楽しみにしています。わかりやすいです。ありがとうございます。昨日ダイレクトシュートが上手にできて、褒められました」
「ダイレクトシュートできたの?すごいね。今度見せて欲しいな。凛は?凛のどこが好きなの?」
「かお」
「顔かぁ」
サインは書き終わったけど、もう少し話したくて端っこに落書きをする。
「でもこないだ少し、好きじゃなくなりました」
「なんかあったの?」
「すごく前ね、5歳の誕生日の時にりんの練習を見に連れて行ってもらったんだ。もらったんです。握手してくれて、頭も撫でてくれました。でも、こないだ見に行った時は、お姉さんたちとばかり喋ってて、ちょっと泣いちゃった」
「それは凛が悪いな。凛に言っておくよ。悲しんでたって。その分俺が撫でてあげる」
少年の髪の毛をこねくり回すと、嬉しそうに目を細める。
「凛選手、きれいなお姉さんが好きって言ってくれた方がうれしいよね」
「そんなことないよ」
俺は、凛が小さなファンからもらった手紙、折り紙のメダル、似顔絵、そのほかいろんなものを大事にしまっていることを知っている。
「凛は、君の応援もきっとすごく喜んでいるよ」
少年はお礼を言うと、離れた場所から見守っていたご両親のもとに駆けて行った。
「もー!潔選手~!何で諦めちゃったんですか!糸師選手女性人気アップキャンペーンを!」
「そんな作成名だったんですか?」
俺は呼び出された喫茶店で、ローテーブルの天板に突っ伏す凛の会社の人のつむじを見下ろしている。
「糸師さんのネットでの評判が悪すぎて、会社で問題視されていたのは事実ですよ。このままだと、糸師選手に、実際に手を出してくる人が出かねないと」
「本音は?」
「糸師さんの女性人気が上がれば、ファンイベントや企画が盛り上がるなって」
凛の態度について相談してきたこの男は、広報、特にイベントを担当しているそうだ。女性向けのイベントを開催するに当たって、毎回凛の扱いに頭を悩ませていたらしい。
「だってあのルックスですよ?我々としてはサイン会でも写真撮影会でも一番人を集めて欲しい存在なのに、大抵一人でぼーっとしているんです。男性向けイベントだと、罵ってください!みたいな変なファンを集めちゃうし、会社としては心配なんです」
自分もその手のファンは多いため、何も言えないしアドバイスもできない。俺の方こそ対処法を知りたいくらいだ。
「でも、試合の成績とイベントの盛況、どっちか取るなら前者でしょ?」
「まぁ、そうなりますね。そうなりました」
俺は飲みかけのコーヒーを一気に煽る。
「念の為。凛に実際、実害を加えてくるような人はいないんですよね?」
「誹謗中傷は相変わらず来ますけど、なんとかなる程度です。あとSNSで悪口めちゃくちゃ書かれるくらいで。警備も強化していますし、問題はないはずです」
俺は立ち上がり、領収書に手を伸ばす。と、彼はそれを遮り「経費で落ちますので」と言った。
「それにしても、糸師凛についての相談は潔選手にするといいって言うの、本当だったんですね」
俺は振り返り、首を傾げる。誰がそんなこと言ってるんだ?
「うちの社内では、七不思議の一つかってくらい実しやかに噂されていましたよ。かなり昔から。誰か試してみろって。本当でした」
「俺に?糸師冴じゃなくて?」
彼も首を傾げる。
「いやそもそも、糸師冴の発言らしいんで」
「凛!?もういる!!」
少し早めに着いたつもりだったのに、凛は待ち合わせの駅改札前に既に立っていた。サングラスに帽子と、変装をしているものの、イケメンオーラが漏れ出ているせいで周囲の注目を一身に浴びていた。少し離れた場所で、凛だと気づいていそうな女子たちがソワソワとこちらの様子を伺っている。
「早かったな。仕事、終わったのか」
「うん、滞りなく」
今日は適当に街で買い物をして、ご飯を食べて帰ってこようと約束している。
「凛が元気になってくれてよかったよ。やっぱりありのままの凛がいいね」
さりげなく腕を組もうとしたけれど、するりと避けられてしまった。
「お前が前に言っていた、好きな子が人気者だと、って言うあれ、もういいのか」
「ああ、うん、ね、凛に人気があろうとなかろうと、凛と俺の関係性が変わるわけでもないし、やっぱ凛にはサッカー最優先でいて欲しいって思ったよ。改めてね。変なこと言って悪かったな」
「俺は、俺が少し愛想良くしただけでこんなに女が寄ってくるのかって、驚いた。俺はモテるのかもしれない。あと、なんだ、それで、気分悪ぃなって。おい潔、お前はもっと女に対しても暴言とか舌打ちとかしろ。手を振るな。笑いかけるな」
「え?!どういう話?俺試合中以外は穏やかなキャラで行きたいんだけど」
「そんなんだから俺に勝てないんだ。次の試合、絶対負かしてやる」
「マジで何の話?!俺のチームが勝ちますけど??!」
口喧嘩しながら、人通りの多い方へ進んでいく。もう俺たちのことを気にしている人なんて、どこにもいないように感じた。