悪夢ネタのナタンポ珍しく、サンポが眠そうにしていた。いつもぱっちりと開いた瞼は、どこか重そうで、ゆらゆらと視線をさ迷わせている。
治療中なら、いつも喧しい口も今日ばかりは静かだった。時折、欠伸を噛み締めている。
「眠れなかったの?」
傷口に消毒液を塗り込みながら、ナターシャはサンポに問いかけた。それを聞いた彼は、質問を理解するのに数秒使い、ようやく返答を口にする。
「いえ……なんというか、そうですね。寝てません」
「言い淀んだわね。理由があるのね、サンポ?」
「……まぁ」
「今更あなたが何をしてようが驚かないわ、言ってみて」
まさか、背丈が高く体格もいいというのに、女装で複数の男を誑かし、ベロブルグの経済を傾かせただけではなく、カツラ禁止令という聞いたこともない法律すら作らせた男だ。言葉通り、今更何をしていようが驚かない。
「あまり……その、夢見が良くなくて」
悪夢を見る。それのどこが恥ずかしいのか、ナターシャにはとんと理解出来なかったが、サンポにしてみれば恥ずべきことらしい。少し耳を赤くして、そっぽを向いた。
「健康状態が良くなければ、悪夢も見るわ。もし本当に酷ければ、睡眠薬を出すけれど」
「いやいや!そこまではさすがに!こうして治療をして貰って、療養する場所まで提供して頂いているのに、これ以上は望みません」
全力の拒否。それすら借りになるらしい。当初サンポは借りを作らないため、ナターシャの治療すら断って逃げていたことを思えば、今こうして大人しくしていることはかなりの進歩と言えるだろう。ようやく信頼してくれた証、とでも言うべきなのかもしれない。
大丈夫と何度も言う彼に対し、折れたのはナターシャだった。
「分かった。でも、念の為今日は泊まりなさい。何かあれば、すぐ対応出来る様にしておくから」
「念の為聞きますけど、もし断ればどうなります?」
「今傷口に塗ってる消毒液が別のものに変わる」
「えへへ〜……じゃあ、お言葉に甘えますぅ……」
医者としての脅しに屈したサンポは、苦笑いで頷く他なかった。
○
サンポがショートスリーパーという、短時間睡眠で活動できる人間であることは、出会った当初に本人から聞いていた。
睡眠についてナターシャは専門外だが、一応の知識はある。ただ、短時間睡眠で夢を見るということはほとんど無い。ましてや、悪夢など。
医者として、彼の怪我もそうだが精神状態も気にかけての入院措置だった。
ボルダータウン全体が、眠りについた頃。ランタンを片手にナターシャはサンポが居る個室を覗き込む。
「ぅ、あ……ッ」
(魘されている)
まだ寝てないと思った時刻に、サンポは眠りについて悪夢に苛まれていた。額に脂汗を滲ませ、開いた口から息とともに喘ぎが漏れる。
「いや、だ、やめ……っ」
自分自身を守るように、腕を抱き体全体を丸めている。腕の皮膚に爪がくい込んで血が滲むほどだ。
「触らないで……」
明確な言葉だ。得体の知れない夢ではなく、もしかしたら過去の記憶から掘り起こされるトラウマによる悪夢かもしれない。
(私に出来ることは……)
ナターシャはランタンをサイドテーブルに置き、サンポの腕に触れようとした。
「───……ッ!!」
強い力で叩き返される。気配に覚醒したのか、焦点の合わない瞳でナターシャを見つめているサンポは、今にも泣きそうな顔だった。
「あ……」
表情に後悔が広がる。迂闊だった。触らないでと言っていたのに。ジンジンと痛む右手を左手で庇いながら、ナターシャはサンポの様子を見る。
「ぼく、あの」
震える声でサンポは言葉を吐いて、ごめんなさいと呟いた。
「何でもします、だから怒らないで、痛いことは……お願いです……」
「サンポ……」
錯乱しているのは目に見えて分かる。ナターシャを別の誰かと認識しているようで、酷く脅えた様子だ。名前を呼べば、ビクリと肩を大きく震わせた。
普段の様子からは信じられない姿だった。
「……サンポ、よく聞いて。私の名前は、ナターシャ。あなたの味方で、敵ではないわ」
「……ナターシャ……」
「そう。ナターシャ」
名前を繰り返す。サンポの視線が、徐々に定まり始めた。
「私は、敵ではないわ」
ゆっくりと慎重に、サンポに手を伸ばす。それを見て、サンポは怯えを見せるがその手とナターシャの顔を交互に見る。やがて、敵意はないと判断したのか、人差し指と中指をそっと掴んだ。
「…………」
「いいの。誰だって怖い夢は見る。私もそうだから。サンポ、君は理不尽な怖い目に遭ったのね」
「すみません……僕、は……」
「大丈夫」
正気を取り戻したのか、言葉が明確になり始めたサンポは、ナターシャを傷つけてしまったことを自覚し謝り始める。
「手、大丈夫ですか?」
「平気よ。ありがとう」
「……ありがとうは、違うと思いますが……」
力無く喋るサンポは、ナターシャの指をゆっくりと離した。
「……落ち着きました。すいません、迷惑をかけてしまって」
虚ろな瞳で、サンポは微笑んだ。顔色は未だに悪い。呼吸は落ち着いているが、不安定なのはナターシャから見て明らかだった。
「ここで大人しくしていますので、ナターシャさんはお休み下さい。ほら、明日も忙しいんでしょうし」
もう寝るつもりはないらしい。言って、それ以上会話する気は無いとサンポはナターシャから視線を逸らした。
「……だめよ」
「?」
ナターシャの呟きに、サンポが思わず怪訝な顔と共に再度視線を向けた───その隙をついて、ナターシャは彼の肩を強く掴んだ。
「なっ!?」
そのまま体重を乗せて押し倒す。古いベッドが軋み、サンポは状況の理解が追いつかないまま、覆い被さるナターシャの顔を見つめていた。
「朝日が昇れば、貴方はここからいなくなるつもりでしょう、サンポ。怪我を放っておいて、ろくに眠りもしない。悪夢を見るのも当たり前じゃない」
「……いいじゃないですか、僕は怪我の治りも早いんです。手当さえしてもらえれば、後はなんとかなります」
「ふざけないで」
「ふざけてません」
サンポの手が、ナターシャの腕を掴む。どけろ、と暗に言ってくる。
それでも、ナターシャは引かなかった。
「ここにいるうちは、私が診ているうちは、そんなこと許さない」
その言葉に、サンポの顔から表情が消えた。
「……やっと、仮面を外したわね」
「何……」
「貴方、人を信用しないのね。距離を置きたがる。それはどうしてかしら?」
「…………」
「怖いの?」
ナターシャの腕を掴むサンポの手──指が、ぴくりと動いた。心理学は専攻こそしていなかったが、知識はある。彼の中で、怖いという感覚に覚えがある。
道化を演じて、自分を偽って、サンポはそうして人との距離を保っている。
きっと、理由は教えてくれないだろうが。
「……僕は、情抜きの商売を信条としているんです。人情は嫌いだ、時間が経てば値段が付けられなくなる厄介なものなので」
「だから、貴方は借りを作りたくないのね。善意も全て、借りで片付けて受け取ろうとしない」
「それは果たして、責められるようなことでしょうか?僕のような人は、大勢いますよ?」
「そうね。それは、分かってるつもり」
「なら……」
「貴方がそのスタンスなら、私から歩み寄りましょう、サンポ・コースキ。……私が、地炎の本当のボスよ」
その告白に、サンポは目を見開いた。演技でもない、彼の素の表情の変化。ナターシャは言葉を続ける。
「私たち地炎……いえ、この下層部は常に資材不足に苦しんでいる。サンポ、貴方は腕もたつし何より上層と下層を自由に行き来できる、希少な人材、そのままにしておくのは惜しいわ」
「お褒めに預かり光栄ですが、僕は地炎に属するつもりはありませんよ。ルールこそ守りますが、縛られるのは嫌いなので」
「分かっています。だから、取引をしましょう。私たち地炎は、貴方に仕事を振ります。物資の調達や、情報収集……もちろん、お金は払うけれど、貴方がここで治療を受けるその見返りにもなるでしょう?」
「……そんなにも、僕に治療を受けさせたいのです?」
「そんなにも、貴方に治療を受けさせたいのよ、サンポ」
「…………」
その言葉に、サンポは口を閉じて何かを考えるように視線をさ迷わせた。
「……呆れた」
無表情のままそう呟いた言葉は、きっとサンポの本心だろう。次の瞬間には、見た事のある微笑みを顔をに貼り付けて、ナターシャを見た。
「分かりました。その取引を飲みましょう。つきまして、そろそろどいて頂いても?」
「今夜はここでちゃんと寝ると約束するのなら」
「約束しますよ、ここで寝て一夜を過ごします」
目を真っ直ぐ見て言うサンポに、ナターシャは頷いてゆっくりと退いた。サンポは起き上がることなく、寝転んだまま目を閉じる。
「睡眠薬、飲む?」
「生憎、良くも悪くもそういう薬はあまり効かないんで。まぁ、夢を見ないことを祈るだけですね」
「そう……」
それきり、サンポは何も言わない。
ナターシャは周りを見回して、壁際に使われていない椅子を見つける。それを持ち上げて、ベッド横に置いた時、サンポが目を開けた。
「……何をしているんです?」
「気にしないでちょうだい」
「いや、流石に気にします」
よいしょと座り、困惑するサンポの手を優しく握った。さらに混乱する彼に対して、ナターシャは優しく言う。
「昔、私も悪夢をよく見る時があってね。養母が、手を握ってくれたの。そうしたら、よく眠れるようになって……不思議よね」
「それを僕にも?」
「何もしないよりいいじゃない」
「貴女が寝られませんよ」
「椅子に座って眠るなんて、良くあることよ。子供が悪夢が怖くて眠れないって泣いている時は、いつもこうしてる」
子供扱いされていると思ったのか、サンポは少し嫌そうな顔をして目を閉じた。
笑顔とわざとらしい驚き以外の表情が見れたことに、ナターシャは安堵していた。みとめられたかはさておいても、1歩近い人間として接して貰えるようになったのだ。
「…………」
程なくして、サンポは寝息を立て始めた。微かだが、穏やかな寝息。手首に触れれば、脈は正常に動いていた。
(貴方が、悪夢を見ませんように。願わくば、幸せな夢を……)
○
少しの肌寒さに、意識が浮上した。うつ伏せで寝ていた身体は、どこもかしこも関節が凝り固まっている。少しの気だるさの中、ナターシャは目を開けた。
ぼんやりとした視界に飛び込む紺色の髪の毛。聞こえてくる寝息と、握られた手から流れ込む体温。
──良かった、ちゃんと眠れてる。
横向きで、ナターシャの手を両手で力無く掴み、身体を丸めて眠っているサンポの頭を空いている手で優しく撫でる。
昨夜、悪夢に怯える彼の姿が脳裏をよぎる。
「そのまま、ゆっくりおやすみ。サンポ・コースキ」
せめて、この診療所が彼にとって安心できる場所になればいい。誰かの恐怖に晒されることなく、ゆっくりと眠れる場所。そうするのは、ナターシャ自身の努力だ。
「いつでも、ここは貴方を受け入れるから」
そう呟いて、ナターシャはサンポの頭を優しく撫で続ける。