リーマン現代パロのジェパサン(夏)夕日が、太鼓と笛の音を連れて窓から差し込んでいる。それに混じり、子供のはしゃぐ声と大人の乱痴気騒ぎ。ただでさえ暑いオフィス内が、更に暑くなる気がした。
鼻先と首に滲む汗を手で拭う。ジェパードは、薄暗いオフィスの中で一人モニターを見つめていた。
土曜日。世間一般では休日とされている日だ。
(……ここの計算がおかしい。道理で、全体の総額が合わないわけだ)
先月の経費データのミスをようやく発見し、ジェパードは大きく息を吐く。
大きく背筋を伸ばした時に、額に貼っていた冷えピタが端から剥がれた。慌ててそれを手で押さえ、貼り直す。
机の上に置いてあるスポーツドリンクを一口飲み、マウスを手に取った。カーソルを動かし、印刷ボタンを押す。少し遠くのプリンターが起動し、ガタガタと動き始めた。一定のリズムで印刷を始める。
表示されているページだけを印刷したつもりが、ファイル全てを印刷してしまったと気がついたのは排出口に積まれ始めた紙の山を見た時だった。
ジェパードはため息を吐く。目的のページが印刷されるまで、しばらくかかりそうだ。
(……祭りの音か)
プリンターから近い窓に寄って外を見る。すぐ近くの公園で、祭りが開催されているようだ。
それが、ずっと聞こえてくる喧騒の正体だった。
会社下の道で、光るブレスレットをつけて笑う子供とそれを見守る親が見える。ふと、思い出したのは子供の頃にそれを買ってもらえず泣いていた自分自身だった。
とても厳しく、無駄を許さない両親を恨んでいるわけではない。
ただ、その記憶はジェパードの中では苦い思い出として残っている。結局、姉がこっそりと自分のお小遣いで買って来てくれた青く光るブレスレット。今ではただのプラスチックのゴミだが、それでも捨てられず手元にあった。筒の中の液体は、とうに腐っていることだろう。
「え、うわ。サービス出勤してる事務員がいるんですけど?」
そんな感傷を、軽薄な声がぶち壊した。オフィス内、乳白色の照明が一斉につく。その眩しさに目を細めながら振り返れば、出入り口に立っていたのは一人の男だった。
紺色の髪に、白の襟髪。少々派手な色のワイシャツは、彼に似合っている。今日は、薄めのシルバーフレームの眼鏡をかけていた。その手に持っているジャケットを誰かのデスクに放り投げて、男はエアコンのスイッチを入れる。袖を捲り上げた先から見える肌は、照らされ汗が僅かに煌めいていた。
「ていうか、暑くないんですか?なんでクーラーつけてないんですか、ジェパード」
「必要ないからだ。それよりサンポ、お前の方こそ今日は休みのはずだろ。何をしているんだ」
「僕は営業ですよ。お得意様が月曜のアポを今日にしてくれって」
クーラーの稼働音。サンポが触れるモニターが示す温度は三十度を超えていた。
「なので、今日出勤して月曜日を休みにしたんです。振り休の申請は……あの受理印はペラさんか」
まぁどうでも良いんですがと言いながら、サンポはネクタイを緩める。ジェパードの隣に立ち、延々紙を吐き出し続けるプリンターに彼は顔を顰めた。
「またペラさんに小言を言われますよ、これ」
「仕方ないだろう、やってしまったんだから。次はやらないようにする」
「それを聞くのは3回目ですよ」
サンポのツッコミに、ジェパードは顔を背けた。クーラーが全力で、熱された室内を涼しくしようと風を送っている。
もう必要ないだろうと冷えピタを剥がすジェパードに、サンポが問いかけた。
「照明はまぁ良いとして。本当に何でクーラーつけてなかったんですか、このクソ暑い中で。熱中症になって死にたいんですか、貴方」
「そうならないよう、注意している」
「冷えピタとスポドリで?限界がありますよ」
呆れた様にサンポが言ったと同時、プリンターが動きを止める。
ようやく全てを刷り終わった様だ。小さなモニターには、用紙残量に警告マークが出ている。それを見たジェパードが、大きくため息を吐いた。
「……ジェパード。貴方これ、二部設定で印刷したでしょう?同じ内容物が、二枚ずつ出てますよ」
「そんなまさか」
容姿の補充に棚を探っていたジェパードは、サンポの手から二枚のプリントを受け取る。
確かに、どう見ても同じ内容だった。
「まぁ、僕もたまにやりますし……。ファイル全印刷は、そうそうやりませんが」
「フォローなのか、そうでないのか……」
「ははは」
乾いた笑いをこぼしたサンポは、大量のプリントを手に取りジェパードのデスクに座る。
「指サック借りますね」
ジェパードが良いと言う前に、勝手に引き出しを開けてサンポが中身を漁る。咎めようとしたが、自分のミスのせいだと思い出して、ジェパードは口を閉じた。
大人しく、プリンターの用紙トレイを補充する。
「先月の経費集計の計算ミス?」
「そうだ。総額が狂っていたから、間違っている部分を手直ししようと」
「それで該当ページだけ刷ろうとして、全ページかつ二部刷りしたと」
「うるさいな……」
何度も自身のミスを笑われては面白くない。少し不機嫌になったジェパードに、サンポは軽く謝った。
小気味よく紙を擦る音がオフィスに響いた。祭囃子の音に紛れて、不思議な調和を生み出している。
「……さっき、帰る途中でお祭りやっているのを見たんです。すぐそこの公園で。ここまで音が聞こえてくるので、貴方も気がついてると思うんですけど」
「あぁ、知っている。結構近い場所でやっている様だな」
「再計算、僕も手伝うので一緒に行きませんか?」
ばちんと、ホッチキスの音。二つの紙束をジェパードに見せて、サンポは笑う。隣から椅子を持ってきて、座ってと叩いた。
「元事務員の僕と、現事務員の貴方。本気でやれば、30分もかかりませんよ」
◉
キーボードの打鍵音。ジェパードがエンターを押し、完成したファイルをサンポが検閲する。メガネのレンズ、その奥でエメラルドグリーンの瞳が忙しなくモニターの文字を追いかけていた。
「……うん、大丈夫そうですね」
「ふぅ……本当に30分で終わるとは」
散々赤ペンで書き足したプリントをデスクに投げて、サンポはそうですねと頷いた。
ジェパードがファイルを保存し、パソコンの電源を落とす。その横で、サンポがネクタイを外していた。
「よし、お祭り行きましょうか」
「ああ、それ本気だったのか」
「ちょっと、冗談なんて僕は一言も言ってませんよ」
縁起がかった驚きの表情をジェパードに向けてから、カラッと笑ってサンポは彼の手を引いた。
椅子から立ち上がりながら、まるでサンポのそれは百面相の様だとジェパードは思う。
暑いだろうとサンポにネクタイを取られ、律儀に留めていたボタンを二つ外された。ジェパードが咎めても、彼は笑ったまま反省の色は見せない。
「社証持ちましたね?忘れたら、会社に入れませんよ」
サンポに確認を取られる。ズボンの後ろポケットに、それが入っていることを確認してジェパードは頷いた。
二人で外に出れば、蒸し暑さに熱風が頬を撫でる。夕日は、今にも顔を隠そうとしていた。
「こっちですかね」
サンポが一歩先を行く。その後ろをついていけば、徐々に祭囃子の音は大きく聞こえ始めた。
それに伴い、人が増え始める。足元を走り回る子供の手には、綿飴やかき氷が握られていた。
「おっと、失礼」
ぶつかりそうになった子供を避けて、ジェパードはサンポの手を掴んだ。
「あまり前を行き過ぎるな、はぐれる」
「え、ああ……すいません。どうせはぐれても、すぐ見つけられるだろうなって思って」
「僕には無理だ」
「またまた。貴方、僕が領収書出さないととんでもない嗅覚で僕を見つけるじゃないですか」
繋いだ手を緩い力で振り払い、サンポは視線を屋台に移した。ぐう、とジェパードの腹が鳴る。
「……ふ」
「笑うな」
「すいません……ふふふっ」
「おい」
これだけ喧騒に塗れているのに、何故サンポに聞こえたのか。羞恥に顔が赤くなるジェパードは、ため息を吐いた。
「何か食べるもの買いましょう。折角だし、近くのコンビニで酒でも買って酒盛りしましょうよ」
「どこでするつもりだ」
「どこって……会社ですけど?良いじゃないですか、仕事をした後のご褒美ですよ。カカリア社長も怒りませんって」
「どうだろうな」
「カカリア社長で思い出した。貴方、照明もクーラーもつけなかったの、社長から節電指示が出たからですね?」
「そうだが」
「真面目……!そんなことして、貴方が倒れたら社長も僕も悲しみますよ。そんなことのための節電指示じゃないと思いますし」
今度はサンポがため息を吐いた。ズレたメガネを指で直す。
「株式会社シルバーメインたる大会社が、働く環境を苦境に立たすわけもないですし」
「それでも、出来ることをしようと思ったまでだ」
「それで熱中症になったら元も子もないですよ。あ、焼きそば。良いですね、買っていきますか」
興味がジェパードから、焼きそばに移ったようだ。買おうとするサンポが自身のポケットを探る。あ、と彼は声を上げた。
「……まさかお前」
「すいません、ジェパード。財布忘れました」
「…………。絶対に、後で返せよ」
「えへへ〜……」
「全く。すいません、焼きそば二つください」
目の前でやり取りを見ていた店主は、苦笑いで既に詰められているパックを二つ、袋に入れた。
「ジェパード、あとたこ焼きも食べたいんですけど」
「遠慮を覚えてくれ」
可愛こぶって強請るサンポに、苦言を呈しながらもジェパードの財布は開きっぱなしだった。
なんとも甘い。そう自覚はしているが、どうしても彼のお願いには弱かった。それが何故かなど、考えるまでもない。
惚れた弱みとは、どうにも抗い難いものだ。
「……これだけ買って、食えるのか?」
両手にビニール袋を持つジェパードは、そう呟いた。焼きそば、たこ焼き、フランクフルト──その他。二人で食べるにしても、相当な量だった。
「大丈夫でしょ。お腹ぺこぺこな人もいますし」
そう言って、サンポは買い物カゴをレジに乗せた。店員が一つずつスキャンをしていく。モニターの20歳以上承認ボタンを押して、サンポは財布を開いた。当たり前のようにしているが、もちろんジェパードの財布である。
「……貴方、もう少し小銭使った方がいいですよ。変に重いなって思ったら」
支払いを終えたサンポは酒が詰まった袋を手に、ジェパードにそう言った。何故支払った立場で怒られているのか。
「僕の金だぞ、どう支払おうが関係ない」
「このパンパン具合。財布がそのうち死にますよ。もう、チャックが閉め辛いったら」
両手が塞がっているジェパードの代わりに、サンポが社証でフロアのロックを外す。中に入ったところで、何かを思い出したようにサンポが足を止めた。
「どうした?」
「すいません、買い忘れ思い出しました」
「この後に及んで、まだ何か買うつもりか?」
「すぐ戻ります」
酒の入った袋と財布をジェパードに渡し、サンポが踵を返した。そのまま、走って外に出る。
「……一体なんなんだ」
一人残されたジェパードはオフィスに戻る。冷えたフロアは、蒸された身体を優しく包み込んだ。
買ったものを自身のデスクに広げる。食欲をそそる匂いに胃袋が鳴くも、やはり量が多すぎだ。
(まぁ、食べ切れなかったものは明日に回せばいいか……)
そう思い、椅子に腰掛けてサンポの帰りを待つ。
程なくして、微かに足音が聞こえてきた。
「ジェパード、何してるんですか。ここじゃないですよ」
「は?」
「屋上!」
フロアに顔を出すなり、サンポが言った。その両手に握られているのはかき氷だ。ブルーハワイとメロンのシロップがかけられている。
早くと急かされながら、広げたそれらを持ってサンポの元へ行く。エレベーターを呼んで待っていた彼は、額に汗を滲ませていた。急いで帰ってきたのだろう。
サンポが手の甲でRのボタンを押した。エレベーターの扉が閉まり、動き出す。30秒もしないうちに、到着音が室内に響いた。
「屋上の鍵、僕の尻ポケットにあるんですけど取れます?」
「両手どころか腕すら塞がってるんだが?」
「あはは、本当だ。じゃあちょっと持ってて下さい」
かき氷を一つ、ジェパードの腕に乗せた。落とさないでと言いながら、サンポはポケットから鍵を取り出す。
いつの間に拝借していたのか。彼の手癖には、驚かされるばかりだ。
「はい、ありがとうございます」
かちゃりと音がして、鍵が開く。扉を開けてかき氷と受け取ったサンポは、ジェパードに先に行くよう促した。
再び蒸し暑い空気が肌に触れる。じわりと汗が滲む中、サンポが何かを探すように辺りをキョロキョロと見回していた。
「ああ、向こうですかね」
「サンポ、何を探しているんだ」
「花火が見える方ですよ。今日、隣町で花火大会があるんです。この屋上からなら、よく見えますよ」
そう言って、サンポは下に何も敷かずに座り込んだ。
「ほら、座って。レジャーシートなんて洒落たものはないですよ」
「……そうだな」
言われるまま、サンポの隣に座ったジェパードは食べ物の置き場所に困ることになる。それに気がついたサンポが、ポケットからハンカチを取り出した。
「狭いですけど、重ねておけば大丈夫でしょ。酒は地べたに置くしかないですね」
「花火が始まるまでまだあるだろう。段ボールか何か、持ってこようか」
「かき氷が溶けちゃいますよ」
笑ったサンポが、ジェパードにメロン味を差し出した。既に半分ほど溶けているそれを受け取って、刺さっているスプーンストローを持つ。
一口含めば、懐かしい甘さが口内を満たす。流石にかき氷は何度か食べたことがある。子供の頃は、イチゴを好んでいた事を思い出した。
ああ、そうだ。折角行ったのだから光るブレスレットも見ればよかった。この歳だ、買いはしないが──。
「……待て、サンポ」
そうやって感傷に浸っていたジェパードだったが、ある事が思い浮かんだ。
「財布持ってただろ」
かき氷を買いに走った時、ジェパードの財布は返していた。その彼が、何故かき氷を買えたのか。答えは一つしかない。
「……えへ♡」
「サンポ……!」
最早言い訳すらなく、舌をぺろりと出してサンポは笑った。発泡スチロールの容器を握り潰しそうになりながら、ジェパードはサンポを睨む。
「そんな凄まないでくださいよ。後でちゃんと返しますってば!」
「当たり前だ」
「えへへぇ……」
誤魔化すように笑って、サンポは一息にかき氷を飲み干した。頭が痛むようで、顔を顰めている。
ジェパードも、色水と成り果てたそれを飲み干した。
「いってて……いやぁ、はは。ほら見てジェパード、舌真っ青でしょう」
「子供か」
着色料で青くなった舌を見せてくるサンポに、ジェパードは呆れていた。
「ふふ」
ちろりと、舌が動く。赤い唇を舐めるそれに、青が映えていた。
それが、ジェパードの中で燻りに火を起こす。
「ジェパ、んっ」
容器の落ちる音がした。
サンポの腕を掴み、ぶつかるようにキスをする。互いの歯が軽くぶつかり、サンポが怯んだ一瞬。ジェパードはその口内に舌を捻じ込んだ。邪魔なメガネを外して、深く口付ける。
「ん、ふ……」
甘い味がする。人工甘味料のそれを、サンポの唾液と共に散々味わった。途中で僅かな呼吸を挟みながら、飽きる事なく舌を絡め合う。耳奥に響く水音が、劣情を強く煽ってきた。
ゆっくりとサンポを押し倒す。逃げられないと察したのか、彼の腕がジェパードの首に回ってきた。
「あ、ん……じ、じぇ、ぱ……っ」
「…………」
ゆっくりと口を離す。薄く開いた口で、酸素を求めて呼吸を繰り返すサンポの吐息は熱っぽい。顔を赤らめて、サンポは目を細めた。
「……スイッチの入り方が、童貞高校生のソレですよ」
「悪かったな」
「別に悪く言ってな……」
黙らせるように再び唇を重ねる。啄むようなキスを繰り返して、ゆっくりと汗ばむサンポの首筋に舌を這わせた時、僅かに空が明るく光った。遅れて、遠くで爆発音が鳴る。
「あっはは!間が悪いですね!」
「……全くだ」
打ち上がる花火に、恨めしく視線を送りながらジェパードは頷いた。押し倒していたサンポの上から退いて、彼を起こす。
「続きは家に帰ってからにしましょ。僕の家で良いですよね。貴方の家に行くと、セックスどころじゃないんですよ。もう無法地帯すぎて。……見えないな、メガネ返してもらって良いですか」
ジェパードからメガネを受け取って、サンポはレンズを拭いてかける。何度か大きく瞬きをしてから、空を見上げた。
「ま、興も削がれたところでご飯食べましょうか。何から食べます、たこ焼き?」
「なんでもいい」
「拗ねないでくださいよ。後でヤるって言ってるじゃないですかぁ」
「拗ねてない。ほら口開けろ、食べさせてやる」
「でかいでかいでかい。そんなの入らな、んぐっ」
たこ焼きを爪楊枝で刺し、首を横に振るサンポの口に突っ込む。頬を膨らませて、必死に咀嚼する姿を眺めてジェパードは笑う。すっかり冷めているのだ、食べやすくはあるだろう。
「お返しです、ほら口開けなさいジェパード」
「いや結構」
「ちょっと!」
ふざけ合う二人の遥か上で、音を鳴らして大輪の花が咲いた。