リーマン現代パロのジェパサン(水風船)溶ける。半袖から出ている腕を、ジリジリと光に焼かれながらジェパードはふと思った。太陽も絶好調の8月、本日も猛暑日と天気予報士が言っていたことを思い出した。
豪雪地帯出身のジェパードは暑さに強くない。上京して、昔よりは耐性が出来たとは思うが、それでも35度を超える日が続けば気が滅入る。
額に滲む汗をハンカチで拭いて、深く息を吐いた。この暑さで、夕方とは何事だ。日が沈むのだ、もう少し涼しくなってくれてもいいだろう。
(後少しだ。頑張れ、ジェパード)
自身を鼓舞しながら、ジェパードはスコップを手に取った。プランターの中、既に鳴らしてある土に切っ先を沈めていく。それを少し掻き出して、苗を植えた。
株式会社シルバーメイン、本社ビルの屋上。その隅で、事務員のジェパードは土弄りをしていた。今植えたものは、人参だ。
家庭菜園と呼べるものを、会社で行うのには理由がある。
得意先の社長が、最近家庭菜園にハマり、その種を自社の営業マンに持たせたからである。受け取ってしまったからには、育てて次の商談に繫げる武器にせねばなるまい。その判断を下したカカリア社長が、花を育てることが趣味のジェパードを指名したのだった。
しかし、そこには問題があった。自慢ではないが、ジェパードは花を枯らす天才であるということ。ロックスターの姉には苦笑いをされ、植物学を専攻する大学生の妹には首を横に振られた。先天的な才能らしい。そんな才能、あってたまるか。
「ふぅ……」
作業に目星をつけ、ジェパードは息を吐いた。横に並んだプランター5つ、その全てに種は植えた。鳥避けの網を張る都合上、柵の近くで栽培をしなくてはならない。8月の強い日差しから植物を守るため、日除けシートも被せなくては。
まだまだ、やる事は多い。今日の仕事は、土弄りだけで終わりそうだった。
「あれぇ、本当に植えてるんですか?」
気の抜けるような、軽薄な声にジェパードは顔を顰めた。立ち上がり、屋上から社内へ続く出入り口に視線を向ける。そこに立つ男は、左手にペットボトル2本、右手に青いプラスチックバケツを持ってそこにいた。ついでに、その右腕にも同じバケツをぶら下げている。
紺色の頭髪、白い襟髪。今日のサンポのメガネは、黒いアンダーフレームだった。
レンズの奥、エメラルドグリーンの瞳が細められる。
「どこかの誰かが、営業先から種を持って帰ってきたからな」
「ははは、誰でしょうね」
笑って、サンポはジェパードの横に立つ。バケツを地面に置いて、プランターを見た。へぇと彼は感嘆の声を漏らす。
「お上手ですね。流石、社長ご指名」
「まぁ、知識はあるからな」
「何故そこまで知識を持っていて、花を枯らすんですかねぇ……」
言いながら、サンポは持っていたペットボトルをジェパードに手渡した。自社で輸入しているミネラルウォーターだ。社長からの差し入れとサンポは笑って、蓋を開けている。
薄い水色のワイシャツ、その半袖から出ている右腕に視線が向く。バケツをぶら下げていたからか、うっすらと赤らんでいた。
ジェパードは件のそれに視線を切り替える。
「……なんだそれは」
「何が?」
「バケツの中身だ」
「ああ、これ。これ、水風船です。なんでも、仙舟という国からの輸入品だそうで試してみてくれと」
2つのバケツいっぱいに、水風船が詰め込まれている。全てに水が入っていて、少しの衝撃で割れてしまいそうだ。
ジェパードから見れば、ただの水風船だ。それだけなら、わざわざ仙舟から取り寄せる意味もないだろう。こちらで売っているものとは、何か一線を画す仕掛けがあるに違いない。
「これ、投げると色がつくんですよ.風船の色に合わせて」
「色?」
「そう、赤色なら赤くね」
「……それだけか?」
「それだけですよ?察するに中に少量のインクなりが入っていて、水を入れるとそれが溶けて色水になり、投げて割れた時に色がつく。まぁ、そんなもんですよ」
「それは……売れるんだろうか」
「無理でしょ。だからまぁ、向こうのお試し程度の気持ちで僕に押し付けたんでしょうね。あわよくば、うまい販促方法を提案してくれぐらいに。はははは、そんなの適当なネット配信者にお金支払って宣伝してもらった方がいいと思いますがね」
サンポの言葉に、ジェパードは頷いた。
青色、緑色、赤色、黄色。様々な水風船が、バケツの中で太陽光を浴びている。
「ま、僕はこれを適当に投げて遊んでるので。ジェパードはどうぞ、作業の続きを」
「そうさせてもらうよ」
そこでようやく、ジェパードは社長から差し入れられたミネラルウォーターの蓋を開けて中身を煽る。持った時に冷たかったそれは、既に温くなっていた。
◉
日除けシートを掛け、ようやく作業を終える。屋上を照らす太陽は完全に傾き、地平の奥へ沈んでいくところだった。時計を見れば、17時を過ぎたところだ。
自社の退勤目安は18時とされている。なんとか、業務時間内に終えることができた安堵で、ジェパードはため息を吐いた。
後は、片付けて帰るだけだ。地面に転がしたままのスコップを拾おうとしゃがんだところで、その後頭部に何かが当たった。パシャ、と音を立て後頭部から背中にかけて液体が滴る。温いそれは、微かにインクの匂いがした。
「サンポ!!」
犯人など分かりきっている。湧き上がる怒りと共に、声を張り上げて彼の名前を呼んだ。
「すいません、暑そうだったのでつい」
サンポは飄々と、片手に水風船を持って立っていた。暑かったのか、ネクタイを外して、ボタンを二つほど開けている。肌着が、ちらりと見えていた。
彼の足元はびっしょりと濡れている。水風船を試していた証拠だ。それでも、彼の手元にあるということはどれだけ営業先から貰ってきたのだろうか。
「そんなに怒らないで。色水と言っても、薄いですし水溶性ですから水で洗えば落ちますよ」
ずかずかと近づいてくるジェパードに、サンポは両手を上げて言った。しかし、彼の足はサンポではなく少し離れた場所に置いてあるバケツに向いている。
向かう先に、サンポは眉を顰める。しかし、その目的を瞬時に察してその場から逃げようとすると同時に、その顔に水風船が思いっきりぶち当たった。
薄青い水が辺りに飛び散る。
「……っ!か、顔は無しですよ、顔は!顔もそうですけど、メガネ!」
「不意打ちしてきたやつの言葉じゃないな」
水で濡れたメガネをワイシャツの裾で拭いて、サンポはかけ直す。ジェパードが放った2投目をしゃがむことで躱し、サンポの足元にあるバケツから水風船を掴み取った。アンダースローの要領で、それを投げる。ジェパードの足元を狙うそれは、無惨にも地面に当たって破裂した。
「どこを狙ってるんだ?」
「この……調子に乗ってんじゃねぇですよ……」
別に争う意図で投げたつもりのないサンポの水風船は、戦いの火蓋を切っていた。バケツの中にあるそれが、尽きるまでそれを投げ合う。
青色、緑色、赤色、黄色。様々な水風船が、宙を飛び交う。地面に当たり弾けるもの、ジェパードやサンポの身体に当たり濡らすもの。
それは、互いの手持ちが尽きるまで行われた。すっかり、日は落ちて当たりは薄暗い。2人の立つ間の地面から周りまで、水で濡れて変色していた。
「はぁ……はぁ……」
「……サンポ、1つ良いだろうか」
「なんですか……」
肩で息をするサンポは、律儀に手をあげているジェパードを見た。彼もまた、荒い呼吸を繰り返している。
「臭いんだが、この商品」
ジェパードの言う通り、周囲にはインクの匂いで埋め尽くされていた。
「短時間で二袋使うような商品じゃないですからね……頭痛くなってきた……」
本来の用途から外れていたことをサンポは白状して、頭を抑えた。色水で変色したワイシャツは、べっとりと彼の肌に張り付いている。くっきり、身体のラインを浮かび上がらせていた。ジェパードも、彼と同じ状態だ。
確かに、この匂いを長時間嗅いでいたら気持ち悪くなりそうだ。ジェパードは空になったバケツを持ち、サンポに戻ろうと提案する。
「もう19時を回る。流石に、オフィスに誰もいないだろう」
「人の目を気にする必要あります?」
「この状態をどう説明するんだ。ペラに見つかってみろ、2人して説教されるぞ」
ジェパードの言葉にサンポは苦笑いを浮かべた。
屋上から去る際、家庭菜園たちをちらりと見る。ちゃんと育ってくれよとジェパードは願いながら、扉を閉めて鍵をかけた。
「クリーニングに出せば匂い落ちますかねぇ……」
ワイシャツを脱ぎながら、サンポはぼやく。真っ暗なオフィスに戻った二人は、帰り支度をしていた。
帰ると言っても、着ている服は下着までびしょ濡れだ。色を落とすため、ワイシャツもズボンも水で手洗いしている。この暑さを利用して、外に干して乾くのを待つしかない。
「地炎の頃なら、社内に着替えがあったんですけどねぇ」
「何故?」
「その頃は根無草だったので、会社に寝泊まりしてた時がありまして。はは、ナターシャに拾ってもらわなければ今こうしていないわけですよ」
サンポの言う会社は、シルバーメインではなく、有限会社地炎のことだろうとジェパードは察する。
カカリア社長が地炎を買収した結果が今だ。その時は事務員をしていたサンポは、彼女の見立てで営業マンとして活躍している。
彼曰く、数字に強いのが自分だけだったから事務員をしていたと言うことだったが。
「ま、昔の話はどうでも良いんですがね。さて、乾くまでどれくらいかかることやら……」
下着一枚で、サンポは椅子に座る。自身が引き起こした悲劇だが、どこか他人事のように言っていた。
「1時間もすれば乾くだろう」
「なら良いんですけどねぇ」
サンポと同じく下着一枚でいるジェパードは、冷静に今の状況を振り返る。シンプルに不審者だ。誰かが忘れ物を取りに来たと戻ってきたら、どうなることか分からない。そのことを考えて、どこか浮き足立つジェパードとは反対に、サンポは落ち着いていた。手に持つスマートフォンからは、誰かの声がしている。
「何を見ているんだ」
「巷で流行っている配信者の動画ですよ。うちの商品、いくつか宣伝してもらおうと思ってて」
座るサンポの背後に立って、スマートフォンを覗き見る。男性6人が、楽しそうに会話をしていた。
「あの水風船なんてどうだ」
「あれはパス。インクの匂いをどうにかしてもらわないと、子供に害悪ですよ。大人の僕ですら、匂いで頭痛くなったんですからね」
色水は使い方次第で目を引きますが、とサンポはメガネの位置を指で直す。ぼうっと二人で、その動画を眺め続けた。
赤いシークバーが、徐々に白を食い潰していく。その最中で、サンポが思い立ったように振り向いてジェパードを見た。
「海行きましょう、ジェパード」
「急に言うな。どうした」
「ちょうど盆が近いので。……あ、貴方はご実家のお墓参りがあるんでしたっけ」
「いや、今年は母さんの体調が良くないから行かないんだ」
「なら、ちょうど良いですね」
目を細めて、サンポは笑う。薄く開いた口から見える赤い舌が、ちろりと蠢いていた。
「計画を立てないとな」
そう言って、ジェパードはその唇に触れた。
「早く帰ろう。今日は車なんだ、送って行く」
「いやそれ、僕の家に来るつもりでしょう?良いですけど……珍しいですね、車なんて」
「家庭菜園の準備で車が必要だった」
ジェパードの言葉に、サンポは納得した。お疲れ様と労いの言葉をかけ、腕を伸ばして彼の頭を撫でる。
視線がかち合う。夜が訪れる薄暗いオフィスの中で、どちらともなくその口を重ね合った。