ナタンポ 随分と真剣な顔をしている。珍しい光景に、ナターシャは思わずその足を止めた。
ファイトクラブ付近の道、その一本横に細い道にサンポがいる。その視線は、手元の紙に向けられていた。
「サンポ、何をしているの」
そこから声をかけてみる。しかし、反応はない。随分と集中している様だった。
本来なら、放っておいてさっさと診療所に帰るところだが──なんとなく、今のサンポは放っておいてはいけない。そんな予感に駆られたナターシャは、足音と気配を殺して彼に近づいた。すぐ右横に立っても、サンポはナターシャには気がつかない。
彼の手元の紙に目を向けた。ファイトクラブの対戦表だ。空白が目立つ、まだ仮組みの段階らしい。
視線をサンポの横顔に向ける。垂れ目は伏せがちに、考える彼の手は顎に添えられていた。時折、その指が下唇に触れる。考え込む時のサンポの癖だ。
さて、どう声をかけようか──考え、目についたのはサンポの右耳だった。特殊な形のピアスが目立つそこは、無防備に晒されている。
ふと子供じみた悪戯を思い出した。背伸びをすれば、届くだろう。そう考えて、ナターシャはサンポの肩に軽く触れ──ふぅ、とその右耳に吐息を吹きかけた。
「ぁ、ひっ!?」
びくりと身体を震わせ、甲高い声を上げたサンポがその場に崩れ落ちる。混乱に視線を彷徨わせた彼は、やがてナターシャを捉えた。耳から顔まで、真っ赤に染まり顔をぱくぱくとさせている。
「な、ななナターシャ!?」
「……ごめんなさい、サンポ。そんなに耳が弱いとは思わなくて」
「え、あの、僕に何かご用……いや、なんで耳を……」
「呼び掛けたのに、君が気が付かないから。魔が刺してしまって」
その説明に納得したかしてないのか、困惑の表情を浮かべるサンポは立ち上がる。その手から、紙がひらりと落ちた。
「あっ」
それを拾い上げたのはナターシャだ。サンポに見せるように振り、問いかける。
「……それで、君は一体何の悪巧みをしていたの?」
「悪巧みなんてそんなぁ……ただ僕は、皆さんのご期待に応えたくて色々と……」
「ふぅん?」
「ああ、その顔は信用していませんね……? うう、悲しいです」
「その程度、私に通じないわ」
ナターシャの言葉に、サンポは困ったように笑った。赤面はとっくに引いている。ようやく、元の調子を取り戻した様だった。
「詳しい話は、診療所で聞きましょうか?」
「はは……いやぁ、お手柔らかに」
◉
「そうだ、サンポ。私がちょっかいを出すまで、全然反応しなかったわね」
「え? ああ……いやまぁ、警戒をしていなかった……いや、貴女だったから警戒をする必要もなかった、と言いますか」
「要領を得ないわね」
「はは。ま、ナターシャが僕に何かしらの危害を加えることはないだろうな、と」
診療所内に入り、裏部屋。扉を閉め、質問を投げかけたナターシャはサンポの解答に僅かに言葉を詰まらせた。
全幅の信頼まではいかないだろうが、それでも彼の懐に潜りこめている事実を受け止める。
「そう。……まぁ、この話は置いておきましょう」
「え、置いとくんですか? もう少し話しましょうよ」
「いいえ。私が気になっているのは、これのことよ」
そう言って、ナターシャはサンポに紙を見せる。ファイトクラブの対戦表だ。
「これと睨めっこして、何をしようとしていたの?」
「あー……ほら、まぁ。ちょっとした夢の対戦表を、ね?」
「夢の対戦表?」
サンポは曖昧に笑っていた。夢と聞いて、ナターシャは思考を回す。最近のファイトクラブの状況を思い出す。ルカの連勝で、盛り上がっているのをルカ自身から聞いていた。
(夢……。夢の対戦表……本来ならあり得ない……)
あり得ない──つまり、この下層部だけでは実現しない。
「まさかサンポ。君、ジェパード戌衛官とルカをぶつけようとしてるわね?」
「……えへ」
思わずため息が出た。確かに、それは夢の対戦表だろう。しかしそれを実現するということは、サンポがジェパードを騙してファイトクラブの土俵に立たせるということだ。まずその時点で……。
「どうかと思うわ」
「なんで、良いじゃないですか。夢の対戦表ですしルカも自分と同じ……いや、もしかしたらそれ以上に強い相手と戦えるかもしれないんですよ? それは、彼にとっては光栄なことでしょう。あれだけ強い相手を求めてるんですから!」
「そう考えるなら、ファイトクラブである必要はないでしょう」
「え〜……だって、そうしないと稼げないですし……」
「もう……」
「でも、ナターシャも見たくないですか? 裂界生物を砕く鋼の拳、下層部を守る鉄の拳の対決!」
「私、荒々しいことは嫌いなの。知っているでしょう?」
はっきりと言えば、サンポは困り顔になる。分かっていて言ったのだろう、ナターシャは2度目のため息を吐いた。
「やめておきなさい。そんなことをして、2人から痛いことをされても治療しないわよ」
「それは酷いです!」
「自業自得よ、サンポ。それに、ルカにあまり無茶をさせないで。彼自身、弁えているけど変に焚き付けたら大変よ。それこそ、また大怪我をして帰ってくるかもしれないし……」
「僕のことは治療しないのに、ルカさんのことは気にかけるんですね」
「それはそうよ。君と彼は違うもの」
ナターシャの言葉に、サンポは何も言わなかった。一瞬、彼から感じる気配が変わる。
「……拗ねた?」
「拗ねてませんよ。そんなことで拗ねるわけないですよ子供じゃないですし」
「あらそう?」
「そうです」
「……サンポ。君、嘘をつく時に矢継ぎ早に言葉を言う癖があるの、気がついているかしら」
そう言われ、サンポがその口を手で抑えた。その様子にナターシャはにこりと笑う。それを見て、彼はその表情から笑みを消した。嫌そうな顔で、騙しましたねと呟く。
「騙される方が悪いわ。君もそう思うでしょ?」
「……まぁ」
「でも、私は君にしかできない仕事を任せているのよ」
「信頼はしてないけど?」
「違う。信用はしてない。だけど、信頼はしているわ──心優しい、下層部の商人さん」
そう言って柔らかく笑うナターシャに、サンポはため息を吐いて頭を掻いた。その手が顔を覆い、それが外れた時にはいつも通りの表情のサンポがいた。
「あっははぁ、そう言っていただけて光栄ですよ。ナターシャ」
「ふふ。……そうだわ、耳掃除してあげましょうか?」
「今の会話の流れの何処でその発想が?」
「いえ、呼び掛けても気が付かないのなら、耳垢が溜まっているかもしれないから。耳鼻科も専門よ」
棚から耳かきとピンセットを取り出して、ナターシャが笑う。その表情に、サンポがその言葉が本気だと悟った。
いやまさか、そんなことを彼女にやらせるわけには。というか、されたところで自分が耐えられるかどうか。耳が弱いのを知っていて、言ってるのだろう。タチが悪いなんてレベルじゃない。
「え、いや……あはは……遠慮しておきます」
曖昧に笑って、サンポはナターシャの横をすり抜けて裏部屋から逃げ出した。その背中を見送って、ナターシャは息を吐く。
「まぁ……悪巧みはやめたでしょう。あの様子なら、別の方向で考えそうだけど……」
ファイトクラブで戌衛官とルカを戦わせるのなんて、シルバーメインがなんて言うか。しかし、それも一旦は阻止したのだ。これでいいだろう。
それはそれとして、サンポが耳が弱いのは初めて知った。これは今後、彼を抑制する上で有用な手札になるかもしれない。
あの時聞いたサンポの甲高い声を思い出したナターシャは、1人で笑っていた。