The apple of my eye*
ピロンッ
静かな室内に軽快な電子音が響いた。
病室のベッドの上で何の面白みもない真っ白な天井を退屈そうに見上げていた神々廻は、その音に反応して勢いよく立ち上がった大佛へと視線を移す。
ナイフ握ったまま立つのやめぇ。これから人刺しにでも行くんか。そんな言葉がつい喉元まで上がってきていたが、対象が「ちょっと待っててね」と小走りで病室を出て行ってしまったため発せられることはなかった。
ベッド備え付けの簡易テーブルには剥きかけのりんごが二切れほどと、きちんと鞘に収められたフルーツナイフ。もしナイフを持ったまま出て行かれたら這ってでも止めなければならないところだったと安堵の息を吐き出す。
いちいち失礼で、ぼーっとしていて何を考えているのか分からない部下の言動に振り回されるのは日常茶飯事だ。今だって「お見舞いといえばりんご」と言って剥いてくれたのはいいのだが剥きながら自分で食べていて四分の三は大佛の胃袋に収まったし、黙々とお菓子を食べていたかと思えば喉が渇いたと人の水を横取りする始末。一番厄介だったのは、病院に担ぎ込まれる際「おばけがいた」と青い顔で人の服を掴んだまま離さなかったことだ。処置の邪魔になるのはもちろんのこと、傷口に近い箇所を掴んで引っ張るものだから衣服が擦れ、その度に痛いからいい加減離せと叱ったのだった。
(思い出したら頭痛なってきたな…)
水でも飲んで落ち着こうと体を起こした瞬間、腹部に鋭い痛みが走って僅かな呻き声と共に表情を歪めた。ゆっくりと前に倒れ込んで膝に顔を埋めると筋肉が引きつる感覚を紛らわせるべく脇腹をさするが、思い出したかのように主張してくる痛みと、病衣越しでも感じていた傷口が帯びていた熱が全身を回り始めた気がして神々廻の表情はますます険しくなる。
「神々廻さん」
いつの間に戻って来たのか大佛の声が聞こえる。
「神々廻さん、まだお腹痛いの?死なないでね」
「…ハッ、こんなんで死ぬならORDERなんてやってられへんわ」
足音にも気配にも気付けなかった自分の情けなさに自嘲的な笑いを漏らしたものの、ようやく顔を上げた神々廻の表情は幾分晴れやかだった。
「…これは?」
「出前取ったの。あったかいおうどん」
いつの間にかテーブルに置かれていたどんぶりが目に入り尋ねてみれば、ぴったりとかかっていたラップを外しながら大佛が誇らしげに答えた。
(出前取ったの、じゃないねん。それ持って受付の前通ったんか?絶対目に入るやろ誰か止めろや)
「大きいおあげ乗ってて美味しそうだったから」
「おーおーよかったなァ…ほんで食うならそっちや」
ベッドから少し離れた所にある一人掛けのテーブルセットを指差すと大佛は不思議そうに首を傾げた。
「え…これ、神々廻さんのおうどんなのに…」
「いや…勝手に出前とか食うたら俺治療放棄されるやろ」
「神々廻さんこの前病院食飽きたって言ってた。ラーメン食べたいって」
「そー…れは言うたな…」
「だから、おうどん。食べて」
有無を言わさずといった様子で突き出された箸を神々廻はひとまず受け取った。
「ちゃんと神々廻さんにおうどんあげていいか聞いたから大丈夫」
「うどんは、はぁ…許可しましたけど…おあげは…ふぅ…ダメですからね…後でどんぶり…下げに、来ますね…」
大佛の後を追ってきたのだろう看護師が廊下から顔を覗かせ、息も絶え絶えに用件を告げるとすぐに去って行った。さすがに院内を走るといった行為はしていないはずだが、それでもあの様子から察するに大佛の後を着いて来るのは相当大変だったようだ。後でお詫びに行くべきだろうか…また頭が痛くなった。
「おあげは私が食べるね」
(こいつ、おあげあかんって言われるの分かってて頼んだな…)
「早く元気になってほしいから、最初はうなぎにしようと思った」
「うどんでよかったわ〜」
数日かけて負担の少ない病院食に慣らされた胃は突然の白米と蒲焼を迎えた瞬間に終わりも迎えるだろう。気を遣ったのか、ただの気分かは分からないが、うなぎにならなかったことに心の底から安堵した。
「元気になったら美味しいうなぎ食べに…連れてって」
「俺が連れてくんかい。そこはお前が連れてく流れやろ」
「?だって、神々廻さんの方がお店知ってる」
「別に知っとるわけやないねん。お前が連れてけ言うから毎度調べたってんねん」
「そうなんだ…ありがとう」
「…お礼言えて偉いで~大佛ィ」
正直なところ、全部に突っ込む元気はあまりない。褒めて伸ばそうというわけでもないが、素直に礼が言えるのはいいことだと自分に言い聞かせることにした。
ピロンッ
再び大佛のスマホが鳴った。今度は思い当たる節がないようで首を傾げつつ画面を確認するも、みるみるうちに表情を曇らせて画面を神々廻の目の前に突き出す。
「……あの人から…明日、四時に集まれだって…」
「はぁ〰〰…怪我人こき使いすぎやろ。ほんまブラックやわ」
大袈裟なくらいの長いため息を吐き出した神々廻は今度こそ頭を抱えた。人手不足は百も承知だが、せめてあと一日は休ませてくれ──と望んだところで無駄だということも百も承知。今は少しでも動けるようになっておかなければならない。神々廻は「うどん、おおきに」と大分ぬるくなってしまった器に手を伸ばす。
「りんご、もう一つ剥くからちゃんと食べてね」
ゆっくりと麺を啜る横顔をしばらく眺めていた大佛は再びナイフを握った。