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「おい。いつまで寝とんねん」
布団を剥がしても枕に顔を埋めたまま起きる気配のない南雲を見下ろし、神々廻は大きなため息を吐き出した。
昨夜日付が変わる頃、神々廻はソファにだらしなく座って数独をしている南雲に「いい加減切り上げてはよ寝ろ」と声を掛けた。「うん」と気のないなりに返事をするだけまだいい方だが、一度、返事もしないことに腹が立って放置した翌朝─寝る前とほとんど変わらない体勢で本と向き合っている南雲を見るやいなや思いきりぶっ飛ばし、更には首根っこを掴んでベッドへ投げ飛ばしたことがあった。後に「神々廻だ~って顔上げたら無表情でネイルハンマー振り翳しててさ…あれほんとに殺す気だったでしょ…?」と珍しく顔色を悪くする南雲と、ぶっ飛ばした記憶はあってもネイルハンマーを握った記憶のない神々廻が「そんなんで仕事道具使うわけないやろ」という会話をしていた。
そんな一悶着があったおかげか一言だけでも返事をするようになり、適当に切り上げて布団に入るようにもなった。ただ、人が寝ている隣にごそごそと潜り込んでくるくらいならそのままソファで寝ろ、と神々廻は常に思っている。
(今日はコイツのぐだぐだに付き合ってる場合とちゃうねん)
シーツの長辺二箇所しっかり掴んだ神々廻はテーブルクロス引きの要領で勢いよく手前に引っ張った。すると失敗してクロスに巻き込まれた食器が落ちるように南雲の体が床に転がり落ちていく。その様子を眺めながら、今の動画でも撮っといたらよかったわ…と残念そうに肩を落とした。
対する南雲は小さな呻き声をもらした後ブツブツと何か言っているように聞こえたが何一つ聞き取れなかったし、どうせ文句でも言っているのだろう。
「…俺が帰るまでにはちゃんと起きとけよ」
床に転がったまま微動だにしない塊を呆れたように見下ろしてから寝室を出て行く。剥がし取ったシーツはひとまず洗濯かごに投げ入れた。
起こすには起こしたし、置いていったことを問い詰められる筋合いはない。神々廻は玄関を出ると朝の空気を胸いっぱいに吸い込んだ。
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神々廻が出掛けてから少し経った頃、ようやく覚醒して身支度を整えた南雲が玄関に座り込んでから数時間。
(お腹空いた…お尻も痛いし早く帰って来ないかな。一緒に買い物行きたかったな〜。せっかく休み揃ったのに)
ぼんやりとそんなことを考えているうちに玄関の扉が開き、膝を抱えていた南雲は勢いよく立ち上がった。そして裸足のまま土間へ下りれば神々廻を自分と扉の間に閉じ込めて、じっ…と見下ろす。
「おかえり…どうして置いてったの…?」
「おかえりのテンションちゃうやろ、それ…ただいま。俺はちゃんと起こしたし、出遅れて売り切れたらお前責任取れるんか」
「あのブログの人の本でしょ?心配しなくてもそんなすぐに売り切れたりしないよ」
神々廻が「自分のドッペルゲンガーでは?」と思うほどに好みが合う食レポブロガー・豊受さん。彼?彼女?のブログがなんと書籍化され、しかも発売日が運良く休日と重なったこともあり張り切って書店の開店待ちをしたのだった。
早く読みたい気持ちを抑えきれない神々廻はスーパー袋を押し付け、南雲が反射的に受け取ったのを確認するとさっさと奥へ引っ込んでしまう。
「ねえ、僕置いてかれたことまだ怒ってるんだけど?」
素直に受け取ってしまった荷物を片手に神々廻の後を追いかける。
(別に怒ってないけどデートしたかったな~。ブログの人に負けたのかぁ…あれ、なんか悔しいかも…)
そんな南雲の心中など露知らず、ソファに座って購入したばかりの本を嬉しそうに眺める神々廻の姿を見ては流石にムッと唇を尖らせた。荷物をその場に下ろすと文句の一つでも言ってやろうと口を開きかけたのだが。
「パズル本のコーナーあったで。よう分からんからいくつか買うてきた」
ローテーブルには神々廻お目当ての本の他に数独本が数冊。「よう分からん」の言葉通り、分からないので目についたものを全部買ってきたのだろう。
たとえ置いていかれて拗ねることが分かっていたが故のご機嫌取りだったとしても、我ながら単純だなと思うほど先程までのモヤモヤが一気に消え去ってしまった南雲は緩んだ口元を隠すこともせず神々廻の隣に腰を下ろす。
「ありがと~。最後の一冊、もう終わっちゃいそうだったんだよね」
一緒にやろうよ。──どうせ断られるだろうと思いながら口にしてみたのだが、返事は意外にも「ええで」だった。
置いたままにしていた荷物を二人で片付け、飲み物と軽食を用意する。神々廻が持ち帰った荷物の中身はいくつかの食材の他に飲み物やパン、サンドイッチといった片手で食べられるものだった。それらをテーブルに並べれば準備は万全。肩を寄せ合って座ると一冊の本に視線を落とす。
「なんも分からん」
「今ページ開いたばっかりなんだけど」
数字と空白のマスが並ぶページを開いた瞬間に眉間に皺を寄せる神々廻を見て、南雲は楽しそうにころころと笑った。
「中退やから学ないねん」
「ジグソーパズルみたいなものだよ。あれは(学が)なくても出来るじゃん」
「学ない言うな」
「先に言ったの神々廻だよ?」
「自分で言うてもお前に言われると腹立つ」
「あはは、理不尽~。…ねぇ、サンドイッチちょうだい」
マスを埋めるのに忙しい南雲は隣で見ている神々廻に取ってもらおうと手を出した。
「いや自分で取れや。なんでそこまでしてやらなあかんねん」
文句を言いながらもちゃんと取ってくれるところが優しいんだよなぁと横目で盗み見ながら、渡されたハムレタスのサンドイッチを頬張る。
一切れ食べ終え、さて仕切り直しだと意識を再び本へ向けようとした時、突然胸倉を掴んで引っ張られたかと思えば口の端をぺろりと舐められた。
「マヨネーズ。子供じゃあるまいし、ちゃんと…っ」
理解が追いつかず暫し呆然としていた南雲だったが気付けば神々廻を押し倒していて、しまったと思ったがもう遅い。珍しく穏やかだった表情は一瞬で不機嫌を煮詰めて固めたような険しいものに変わってしまった。
投げ出した手のそばに落ちていた鉛筆を拾い上げた神々廻は指先でくるくると回してから逆手に握り締め、まだ少し鋭さの残る先端部を正確に南雲の頸動脈に突き付ける。
「坂さんやったらこの鉛筆一本でお前のこと殺すんやろなァ」
「どうかな~。まぁ、僕は死なないけどね」
臆する様子はなく寧ろ弧を描いている口元に、興が削がれたとばかりに長い溜息を吐き出して鉛筆を放った。「はよどけ」と肩を押して退かそうとする神々廻の手を取った南雲はその手首に何度も口付ける。
「昼間っから盛んなや」
「夜ならいいってこと?」
「アホか。そういうことちゃうねん」
「はぁ〜~~~」
「ため息クソデカすぎやろ」
「神々廻だってクソデカため息したじゃん…」
「与市」
「ん?」
(…あ、まただ)
真っ直ぐに南雲と視線を合わせ、ゆっくり瞬きをする神々廻。
猫がゆっくりまばたきをするのは愛情表現らしい。人と猫の行動が一致するとは限らないけれど、猫みたいに気紛れで素っ気なくて滅多に甘えることをしない神々廻が、愛情や信頼を示すための大切な表現方法の一つだと南雲は理解している。言葉はなくとも真っ直ぐ向けてくれる愛情に、南雲はとても満たされた気持ちになるのだ。
レースカーテン越しに注ぐ陽の光を受けて輝く神々廻の髪が眩しくて、南雲は僅かに目を細めた。純粋に愛おしく想うと同時に、他の誰にも渡しはしない。この複雑に渦巻く感情は決して悟られてはいけない。
優しく梳いた髪を一束すくい上げて唇を寄せれば、甘いジャスミンの香りがした。
【あなたは私のもの】