奴隷タル蛍 豪華な屋敷の地下にあるその空間は最低限の清潔感こそ保たれているものの、じとりと湿気を帯びて澱んだ空気に満ちていた。こんな場所に似つかわしくないであろう若い娘、蛍への訝しげな視線が左右の壁の中から注がれていて、なんとも居心地が悪い。
「お嬢さんの望むような奴隷っていったら……ここから先の男共くらいかね」
この屋敷の主、恰幅のいい中年男性が今まで通った牢には脇目も振らず、スタスタと歩いていく。この先と言われた牢の中に視線を向けてみれば、確かに今通ってきた中にいた痩せこけた男たちと打って変わって、そこらの冒険者と変わらない屈強な体躯を持つ男たちが数人、各々の独房の中に見える。
「ここの男共は維持費はかかるがいい仕事をしてね、お嬢さんの軍資金なら充分買えますよ。もちろんレンタルでもこちらとしては構わない」
男はニコニコと営業スマイルを浮かべている。蛍が牢を見渡すと、三人の男の視線が一斉に向けられた。
「おう、お前達、こちらのお嬢さんが旅のお供に護衛をご所望だ!」
主人が大声で怒鳴ると、ある男は蛍をじろりと見て値踏みをするような視線を向け、ある男はガハハッと大口を開けて「俺にしておけ」と言いながら筋肉を披露してくる。
「あの人は?」
蛍は四人目の男、独りだけこちらを気にする様子は無くベッドに寝転がったままの茶髪の男を指さした。
「あぁ、あいつはちょっと……実力はあるんだがレンタルされた先々で問題を起こして毎回期限前に返却されちまうんですよ」
「そうなんだ」
「やめとけやめとけお嬢さん、そんな柔な小僧より俺にしておけよ」
他の房からの声にも特に反応の無いその男は、寝ているわけでは無さそうだがこちらには見向きもしない。
「一番強い人にする。彼らを今日一日借りるから解放して」
「へ?」
主人は目をまん丸にして蛍と奴隷たちを交互に見回す。三人の男たちも驚いた顔で蛍を凝視していた。
その時、ずっと静かだった独房から高らかな声が響いた。
「アッハハハハハハ! 面白いねお嬢ちゃん。なぁ、別に問題ないだろ?」
ベッドから身体を起こして笑いながら蛍の方に歩み寄る男の青い双眸と目が合った。深海の様に深く、底の見えない深い青。
「う、まあ……金さえ払ってもらえればこちらとしては別に」
「じゃあそういうことで、お庭貸してもらえる? 彼らに模擬戦をやってもらって、勝った人を買うことにする」
蛍は青の瞳から目を逸らし、主人にそう言った。
結果はその男の圧勝だった。三対一でいいよと嘯いた男に三人は怒りを顕にして一斉に掴み掛かったが、見るも無惨に蹴散らされて勝負がつくのはあっという間だった。優男風の容貌からは想像もできない鋭い剣さばきと無駄の無い身体の動きに、蛍は彼から視線を逸らせず、勝負が終わった後も彼を見詰めていた。
男は模擬戦用の剣をクルクルと回して鞘に納めると、蛍の方へ歩いて来る。
「タルタリヤだ。よろしく、お嬢ちゃん」
「よろ……しく」
口元に笑顔を作って手を差し出してくる男の手をそっと握る。これほどの強さの彼と一緒なら、長年の希望が叶えられるかもしれない。淡い期待がほのかに心に灯った気がした。
地方豪族だった蛍の生家へと突如襲ってきた盗賊の手により、双子の兄が攫われてしまったのは今から五年ほど前のこと。恐れを成して一向に兄を探そうとしてくれない両親に痺れを切らして、その兄の分までとばかりに蝶よ花よと与えられてきた身の回りの品を少しずつ換金してはそれを元手に盗賊の情報を収集し、ついに兄の手がかりを突き止めるところまでたどり着いた。けれどその国は紛争のさなかで一般人がおいそれと近づける場所では無かった。国境には息をも凍りつかせるドラゴンスパインがそびえ立ち、警備も厳重だ。
「なるほどね、それで旅のお供が必要、と」
男、タルタリヤは丁寧なナイフ捌きで切り取った鳥の丸焼きを大きな口に放り込むとビールを流し込んで蛍に視線を向けた。
しばらくろくな食べ物を食べられなかったのだろう、奴隷商と契約を交わして彼を買い取った後、何か用意したい物や希望はあるかと聞いてみると、彼は真っ先に、美味しいものが食べられる場所に行きたいと言った。この辺りの店に馴染みの無かった蛍は場所を彼に任せて店に入ると、彼と共にテーブルについた。
次々と料理を注文しては平らげて行く男に少し呆れながらも、彼の仕草や食べ方に庶民らしからぬマナーの良さが垣間見えて、不思議に思っていた。
「タルタリヤ、以前は何をしてたの?」
生まれた時から親が無く奴隷の身に堕ちた可能性もあるけれど、その割には彼の所作には上流階級に通づる気品が見て取れるような気がして不思議に思う。
蛍の質問にタルタリヤは眉を上げて一瞬考える様な顔をした後、ニヤリと笑った。
「数年前に滅びた遙か冬国の第三皇子って言ったら?」
「え!?」
冬国というと……スネージナヤという国が3年ほど前に滅んだはずだが……
蛍が考え込んでいると、男は自身の手のひらに顎を乗せ、首を傾げて面白そうに目を細める。口元を緩ませて、今にも笑いだしそうだ。
「……からかったの?」
睨むと、彼は口端を上げた後、食事を再開した。彼のペースにまんまと乗せられそうになったことに軽い苛立ちを感じて蛍は目の前の鶏肉を思い切りフォークで刺すと、そのまま持ち上げてかぶりついた。
「ハハッ、豪快だねお嬢ちゃん」
「……ほひゃる」
「……ほひゃ?」
口いっぱいに頬張った肉を咀嚼して水を飲み、男の目を真っ直ぐに見返した。
「お嬢ちゃんじゃなく、蛍」
彼は吸い込まれそうな深い青の瞳に蛍の顔を映して微笑む。
「蛍ね、了解」
彼は美味しそうに喉を鳴らしてビールを飲むと、蛍に向かってニコニコと笑っている。
しまった。彼の事は蛍が買ったのだから名前ではなくご主人様と呼ぶ様に言うべきだったかもしれない。
明日にでも乗合馬車の予約を取らないとと思いながらこの街の滞在用に借入れている宿にたどり着いた。顔なじみになった女将からおかえりなさいと笑顔で言われ、応えてからそのままタルタリヤと共に階段を上って行くと、女将が戸惑いがちな視線を送ってきているのに気がつく。何だろう?
「おやすみなさい、女将さん」
いつものように女将からもお休みという言葉が返ってくるかと思ったのに、彼女から発せられたのは「ごゆっくり」という返事だった。何だかその笑顔がぎこちなくて不思議に思いながら、蛍は階段を進んだ。
部屋に入って上着を脱ぎ、とりあえず椅子の背にかけた。明日からとうとう空を探す旅に出られると思うと今日はさっさと寝てしまって明日に備えたい。ドアの方を見たら何故かタルタリヤが部屋に入らず廊下に立ったままでいることに気がつく。
「入らないの?」
「えーっと、同じ部屋?」
「そうだけど。え、別が良かった?」
部屋の空き、あっただろうか。この宿は周辺に飲み屋が集中していて勝手がいいので人気なのだ。
タルタリヤが部屋に入ってきて蛍をじーっと見詰めてくる。少し居心地の悪さを感じて彼から背を向け、椅子にかけた上着をハンガーにかけようと手に取った。
「俺は別に構わないよ」
「そう、良かった。あなた結構高かったから節約しないと……」
「そっちの方も、得意だからさ」
突然、背後から太い腕が伸びてきて身体を交差して肩を掴まれる。首筋に唇が添えられて息が当たった。
「初心な子かと思ってたけど、案外大胆なんだね」
そのまま唇が押し付けられてチクリとした痛みが走った。
「え……? なにして」
驚いて身体をひねって彼の方を向こうとすると、顎を掴んで上向かされ、唇が被さってきた。
「んー!?」
わけが分からない。これは一体何!?
「や、やめっ」
唇から逃れようとしたら、ぬるっと何かが口の中に入ってきて驚愕に彼の胸を思いきり押し返したけれど全然離れてくれなくて、その間にも口腔内に侵入したものがくちゅっと水音を響かせながら口の中を蹂躙してくる。
「んんっ、ん〜〜っ」
「あれ、そういうプレイが好み? いいよ、特にこだわりは無いからどんなのでも」
ちゅっと唇に口付けながら甘く囁く男の声に頭が真っ白になってしまって、どうしたらいいか分からない。けれどこれは絶対に良くないことだというのは、身体の奥から感じたことのない何かが湧き上がってくることへの恐怖で分かる。
タルタリヤの指が耳を触って首筋を伝い、服のボタンを外しかけた時、そういえば彼の主人であった奴隷商が隷属の証に彼の左耳のピアスに証文を刻んであると言っていなかったかと思い出す。問題児だから特別痛いやつにしておきましたよなんてニヤニヤと語られて、まだタルタリヤを知っているわけでは無いけれど、あの強さをまざまざと見せつけられた直後だったので、そんな拘束があるとはいえ、こんな場所から逃げようと思えば逃げられたのでは無いだろうかと思ったものだ。彼ほどの実力があれば、主人に隷属を解かせることも可能な気がする。
確か、文言は……
こんなもの果たして意味があるのだろうかと思いつつもこの状況をどうにかしなければと、蛍はその言葉を口にした。
途端、蛍の肩口に触れていた彼の唇が震え、苦しそうな呻き声を発しながらその場にくずおれた。
「ぐ、う……」
一気に開放された身体を自身の両手で抱きしめて蛍は後ずさる。苦痛に耐えているのだろう、彼の額からじわりと脂汗が流れ始めた。
大丈夫……だろうかと、呼吸を乱す男の様子が気になって肩に手を伸ばしたら、その手首が大きな手で掴まれた。
「やっ」
なおも苦しげな様子を見せながら上目遣いに向けられた眼差しは何故か少し喜色を含んでいて……
「やって……くれるね、お嬢ちゃん」
「っ! あな……たが、おかしなことするから」
離して、と乱暴に手を振り払う。意外とすぐにその手は解放されて、タルタリヤはため息を吐きながらゆっくりと身を起こした。
「わかったよ、俺の誤解だったみたいだ。悪かった」
案外と素直に謝る様子に拍子抜けしながらも、どんな誤解で初対面の男に口付けなどされなければいけないのかとモヤモヤとする思いで、蛍は彼からぷいっと顔を背けた。
「で、ベッドは一つみたいだけど、俺は床で寝ればいいのかな」
そういえば……深く考えていなかったのでどうしようか。先程の行いを思うと一緒のベッドで寝るなど絶対に避けなければいけない。
「悪いけど、そうしてくれる?」
そう言うと何故か彼はきょとんと目を瞬かせる。どうかしたのだろうか。
「君さ、いいとこのお嬢さんだろ? むしろそれが当然だと思わないの?」
「別に……、私は旅の護衛が欲しいだけであなたを服従させたいわけじゃ無いから……」
彼は少し首を傾げながらも口元を綻ばせて、りょーかい、と呟くと部屋の隅に向かった。
「手は出さないから、安心してくれ。じゃ、おやすみ」
「……おやすみなさい」
明日から、この男と国境を越える旅が始まるのだ。先程の行いを思うと胸にざわりとしたものが残っているけれど、一かバチかでこの男に賭けた自身の直感を信じてみよう。そう思い、蛍は早く休もうとベッドへ向かった。
(気が向いたら続く?)