純粋の花束をきみに ✦ ✦ ✦
手にした花束から強い花の芳香が漂ってくる。一歩オレが歩を進めるごとに、ふわん、ふわんって。大ぶりな花はそこにあるだけで強い存在を放っていると前から思っていたけど、匂いでまで存在を示してくるとは思っていなかった。
以前仕事でこの花を抱えたときに、存在感がすげえとこ、あのひとに似てるなって感想を抱いたのを覚えている。その感想は誰にも言わなかったから、オレの胸のなかにだけ留められていたものだけど。
星奏館の廊下を進んでいくオレを見る、すれ違うES所属アイドルの皆さんの表情はどういうことだか一様に微笑ましげな笑顔だった。にやにやしてるひとから、本当に穏やかに笑うひとまで笑顔の種類は様々ではあったけど、大体は微笑ましいものを見る目でオレを見ていた。
なんで皆さんその顔なんですかねぇ~
そう訊ねてやりたい思いは多々あれど、オレが口を開くよりはやく「あっちの方で待っていた」という旨の発言をされるものだから口を閉じざるを得ない。
そうっすね、待たせたらうるさいひとですからね。いやオレがどこに向かってんのか筒抜けなの恥ずかしすぎるでしょ。
恥ずかしさで眉間にシワが寄る。足早に廊下を抜けて、談話室のソファにいるであろうひとの元へ急いだ。
「おひいさん」
ソファの背もたれ越しに見えた、ふわふわのサニーブロンド。アップルグリーンにも似た髪がふわんと揺れて、オレに振り返る。
オレが待ち合わせていた相手はこのおひいさんで、今日は別々だった仕事が終わったら星奏館に来てくれるように頼み込んでいた。
おひいさんは成人してから星奏館を出たから、本来ならあまり入り浸らせるのもよくないんだろうけど。オレがおひいさんの住んでるところに行くのは、まだ少し勇気が出なかったから許してほしい。だってバカみてえに高そうなマンションに住んでんだもんな、おひいさん。
小走りでおひいさんの横に寄っていって、ひとりぶんの隙間を空けて座られていたソファの空間に収まる。
ひとりで待っていたわりには機嫌がいい。直前までナギ先輩辺りと話し込んでいたのか、それとも。
今日このひとは誕生日だから、いろんなひとにちやほやされて機嫌がいいのかもしれなかった。
「遅かったね、ジュンくん。ぼくを待たせるなんて、悪い子」
「仕事終わってから直で来たんで許してくださいよぉ~。はい、これあげるんで。機嫌直してください」
抱えていた花束。白くて華奢で大ぶりな、濃厚な甘い匂いを放つユリの花束をおひいさんに手渡す。おひいさんみたいだと思ったその花束はやっぱりおひいさんに似合った。
おひいさんは仕方がないね! とひとつ言葉を吐いてそっと花束を受け取ってくれた。言葉のわりに、ひどくやさしい仕草で。
素直じゃないひと、と思ったこころの裏側でひとのこと言えねえなと考えたのは、オレだけが知っていればいい。
ソファの背もたれに体重を掛けて身体を押し付けて、ふんにゃり笑う。おひいさんの誕生日に時間を作ってもらえる、それが嬉しかった。
「おひいさん、誕生日おめでとうございます」
「うん。ありがとう、ジュンくん」
おひいさんも嬉しそうに目を細めて微笑んで、ユリの花束に視線を向ける。ユリの花びらをそっと撫でて、おひいさんはそういえば、と口を開いた。
「ジュンくん、去年もぼくの誕生日にユリの花束をくれたよね?」
「あー、そっすね。おひいさんの誕生日の花だって聞いたんで、それで」
「そう。……ふふ、〝ぼくに似合うから〟くれているんだと思ったんだけどね。違う?」
束ねていたユリの花を一輪引き抜いて、花びらにキスするみたいに顔の前まで持っていくおひいさんの絵画じみた横顔を眺めながら、おひいさんの言葉を脳内で反芻する。
ぼくに似合うから。まあ、そう、ですね? 豪華で存在感がデケェとこ、すごい似てますよ。
そう返してやろうとして、花の香をすん、と吸い込んだおひいさんがくるんと上向きにカーブする真っ白な花びらの先に実際くちびるを付けたから、口をつぐむ。
デケェ目を長いまつげに飾られたまぶたに隠して、そうして花に口付けるおひいさん。絵画じみた、なんて感想を抱いたばっかりだけど、本当にそうして黙っていると画になるひとだと思う。
オレが思わず見惚れていると、おひいさんの長いまつげが羽化したての蝶々が羽を伸ばすみたいに震えて、まぶたごと持ち上がる。その下からオレを見つめてくるひとみが、人工灯の灯りの下なのにキラキラときらめいてきれいだった。
ジュンくん。呼んでくる声はいつもよりも少しだけ低められていて、吐息が多分に含まれていて。背筋と首の裏がぞわぞわと粟立つ感覚がする。
目元を細めて弧を描く視線が、オレを捕えて逃さない。息が詰まる。嫌な意味じゃなくて、どっちかっていうと──期待に震える、とか、そんな意味で。
「ユリの花言葉は知っているでしょう? 純粋、純潔。ジュンくんのお名前が入っているね。だから〝ぼくに似合う〟でしょうって手渡してくれていると思ったのだけど──違うの?」
「い、や……それは、」
そんなこと、考えたこともなかった。
そもそもオレの名前はカタカナだし、漢字じゃねえし。こじつけにも程がある。
うろたえてるオレの顔を見て楽しんでるだけでしょう、そう言ってやりてえのに。花びらにまたキスできそうな距離にあるおひいさんのくちびるを、花なんかじゃなくてオレにくっつけてくれればいいのにと思ってしまったら。もうダメだった。
華奢で存在感のデケェあんたみたいだと思ってた花にだって、オレは妬くみてぇで。あんたに似合うのは、そういう花だって知ってるけど。でも、花よりもなによりもあんたに似合うのは。オレがいい。
「……おひいさん、その花返してくれます?」
「えっ、なんで? 嫌だね、一度ぼくにくれたんだからこれはもうぼくのものだね!」
「そうかもですけどぉ……代わりにあげたいものが、あるんで。そっちにしてくれません?」
「……なにをくれるっていうの?」
オレがなにを言うのか、もう分かってんでしょ、あんた。
楽しげに、それでいてやわらかに微笑むおひいさんのひとみが答えだった。いつだってあんたは頭の回転が速いから、オレのことだってなんだってお見通しだ。
だからオレは精一杯にできる限りのことをやるしかない。恥ずかしいとか、外したらやだなあとか。思うこともあるけど、おひいさんは大体笑うだけで、オレを嫌うことはないから。
ユリの花束をおひいさんからかっ攫って、空いた手のひらをなぞるみたいにして指を滑らせて、おひいさんの指にオレの指を絡めて。きゅ、と一度指先に甘えてからお互いの手のひらをぴったりとくっつけて、手を握る。
捕われたままの視線は、逸らしたりなんかしない。むしろ、あんたもオレから逃げられなくなっちまえばいいとさえ思う。
オレがくちびるを開くのを、おひいさんはまばたきもしないでじっと見つめていた。
「花より、あんたに似合うもんです」
「……ふふ。そうだね。ユリの花はとってもぼくに似合うけれど。それよりも似合うものね、きみ」
握ったままの手を引かれて、オレが焦がれたくちびるがオレの指先に触れる。やわらかい。嬉しい。もっと欲しい。でもここじゃあ、もうもらえない。
くちびるをもごりと引き結んだオレに気付いたおひいさんが、一輪残したままだったユリをオレに押し付けて立ち上がる。手を繋いだオレごと。
そうして、オレにキスするみたいにおひいさんの顔の前まで手を引いてオレを近付けさせて。おひいさんの呼気が触れる距離で、おひいさんはうっそりと笑った。
「ぼくの部屋においで。ぜんぶもらってあげる」
オレと見つめ合うおひいさんは、きっと絵画にはなれない。やわらかで品のある紫はギラギラと輝いて、高貴さがかすんでいて。腹を空かせた肉食動物みたいで。
でも、オレはそんなおひいさんが、すきだった。
こくり。言葉も出せずに頷く。おひいさんはまたひとつ微笑んで、贈られた花束からリボンを解くために長い足を踏み出した。