土井半助が彼と最初に出会った時の第一印象は、深入りしてはいけない、だった。
悪意を持った訳ではない。むしろ逆だ。
目を奪われかけた。
有体に言えば、惹かれた。
どこに、と理屈では説明できない。大きな体躯も、ほぼ隠された顔から覗く鋭い目も、掴みどころのない言動も、単体で見たら強烈に惹かれるというものではない。
けれど、気をつけなければ、目で追ってしまいそうになる。
具体的に何かあった訳ではない。
ただ予感のようなものを感じて、心に壁を作った。
雑渡という男と土井との接点はないが、関わる機会はそれなりにある。
ただそれは学園を通しての話であり、個人的に近付く事はなかった。彼が寄っていくのは主に忍たまで、特に一年生と六年生にお気に入りがいる。
自分に寄ってくるのは彼の部下で、何かと目の敵にされている。
彼は、雑渡という人間は、土井にさほど興味がないように見えた。
それは土井にとって安心材料で、都合が良い。少しだけ、心を引っ掻かれたような微かな痛みがあるにはあるが、無視できる程度だった。
このまま日々が過ぎれば、何ともなくなる日は来る。土井はそう思っていた。
「……ん?」
それは、何でもない日の夜だった。
夜更けに人の気配を感じた土井は、採点が終わったばかりの答案を素早く仕舞い込んだ。
今日は同室の山田はおらず、土井は一人で自室にいる。人の気配が向かってくるのはよくある事だが、もうほとんどの人間は寝入っている頃だ。
緊急事態の可能性もあるかと思いながら立ち上がると、同時に前触れもなく戸が開いた。
「は?」
開いた先の人影を見て、土井は固まった。
「やあ。こんばんは」
呑気に片手を上げて挨拶したのは、雑渡だった。
「こ、こんばんは……」
衝撃が大きくて、また彼の様子がまるで普段と変わらないため、土井も気の抜けた挨拶を返す。
雑渡は止める間もなく、室内に入ってきた。
戸を閉めながら、雑渡は土井に話しかける。
「まだ仕事中だったかな?」
「いえ、やっとすべて終わりましたので、もう休もうと思っていた所です」
言外に、だから帰って欲しいと滲ませる。伝わったはずだが、彼は動かない。
仕方ないので、尋ねる事にした。
「それで、どうしてあなたが学園にいるんです?」
雑渡の答えは簡単だった。
「学園長先生宛の言伝を預かってね。もう終わったので、帰る所」
「……こちらは帰り道ではないはずですが」
雑渡の言葉の前半は、あえて疑うようなものではない。彼は堂々と、気配を殺し切ってはいない状態で廊下を歩いてきた。忍び込んだ訳ではない。
ただ、学園長の所に行って、そのまま真っ直ぐ帰るのなら、この場所は通らない。まして、戸を開ける必要性などない。
「ここは寄り道」
「山田先生でしたら、生憎不在ですよ」
警戒と好奇心が半分ずつ。
どちらも見せないように、できる限り自然に平静を装う。
「ああ、知っている。用事があったのは土井先生だ。
言いながら、雑渡は一歩、土井に近付く。その動作に物騒なものは感じなかったが、夜着の中にある武器に意識を向けつつ、尋ねた。
「私に、何の御用でしょうか」
雑渡は、じっと土井を見た。土井は視線を受け止める。
その目に、物騒な色はない。だが、観察されているような居心地の悪さを感じる。
彼が何も話さないのも、気まずさを加速させた。
雑渡の表情からは何も読み取れず、その口からは何の言葉も出なかった、
黙って見つめ合う。
気まずさに耐えきれなくなったのは、土井だった。
「あの」
「確認しようと思ってね」
我慢できなくなった土井が口を開いた瞬間に、遮るように言葉を投げられた。
同時になるよう測っていたとしか思えず、少々の苛立ちを覚える。
「何をですか」
刺々しさの滲む声に、雑渡は少し笑ったようだった。
「最近ね、土井先生から私への目線が気になって」
「……は?」
意味がわからない、と言外に滲ませる。内心で、どきりとしたのは隠して。
「私の何かが気に障りましたか?」
声音から棘を外して、心当たりがありませんという風に尋ねた。
彼へ目線を向けた事があるかと問われれば、勿論ある。だが、じっと見ていた訳ではないし、ましてや何らかの気持ちを乗せた事などない。
観察するような目になった事もあるにはあるが、それは忍者であればお互い様だ。
おかしく思われるような素振りはしていない。そのはずだ。
記憶をたぐりながら、鼓動を落ち着かせる。感情の動きを敵に知られるのは、忍者にとってはよろしくない。ましてや、本能に近い感情であればあるほど。
「いや、不愉快という訳ではなくてね」
「はぁ」
「ただ、確かめに来ただけだから」
少しずつ、良くない流れになってきている気がする。彼のただでさえ大柄な身体が、更に大きくなって迫ってくるようだ。
「何を、確かめたいのですか?」
「その目の色を」
見下ろされながら、じっと目を覗き込まれる。
ぞわ、と背筋に嫌なものが走った。彼を見る土井の目に、何の感情が乗っているか、彼はわかっているのだ。
動揺を、顔には出さずに済んだと思う。
ただ、身体には出てしまった。背中に湿った壁の感触を感じて、土井は失敗を悟った。
いつの間にか、壁際まで追い込まれている。これ以上後ろには逃げられない。雑渡を避けようにも、逃がさないというかのように、詰めて来られている。仮にも学園長の客人に、乱暴な手は使えない。
土井はなるべく軽い声で、情けない顔で、雑渡に話しかけた。
「あの、ちょっと近くありません? もう少し離れて頂けますか?」
「どうして?」
「いや……落ち着いて話ができる距離ではないですよね?」
「落ち着かないかな?」
「この距離では、誰が相手でも落ち着きませんよ」
言っている間にも、雑渡の顔が迫ってくる。会話には向いていないくらいの至近距離に。
何とか逃れたい。
今の土井には、目を逸らさないのがやっとだ。こちらを覗き込む瞳は暗くて、何の感情も読み取れない。
隠していたはずなのに。浮かんでしまっていたのだろうか。
彼を好きな訳ではない。まだそんな感情には至っていない。近付けばどうしようもなく惹かれるのではないかという、淡い予感があるというだけなのに。
まだ感情にさえなっていない色に、どうして彼は気付けるのか。
「とにかく離れて下さい。話なら、座って聞きますからーーー」
「いや、もう確かめたから」
「な、何を」
雑渡がぐい、と自分の頭巾の口元を引っ張る。包帯に囲まれた顔が、至近距離に現れた。
息がかかりそうなほど近付かれて、鼓動が止まりそうになる。
唇が触れそうになる寸前、雑渡が目を細めて、にぃと笑った。笑みの形のまま唇が動くのを、土井は見つめるしかできなかった。
「私だけでなくて、良かった」
囁くような声の後、一瞬、羽のような軽さで唇が触れる。
土井が何が起こったか理解する前に、すっと身体が離れる。
頭巾の口元を引き上げて、雑渡が土井を見た。
「それでは、また」
短い声は、何とはなしに、楽しげに聞こえた。
するりと戸を開けて、音もなく雑渡は出て行く。
その気配が完全に消えた時が、耐えられる限界だった。
膝から力が抜けて、土井はその場にうずくまった。
何が起こった?
彼は確かめに来たと言った。
土井の目に浮かんでいたのであろう、わずかな色を察知して。
確かめて、あれは、喜んでいたように見えた。
「私だけではなくて」?
雑渡だけではなくて。
それはつまり、土井と同じ感情、色が、彼にもあるという事。
「いや……いやいやいやいや」
頭を振る。
鼓動が早鐘のようだ。顔が熱い。頬も、耳も、首筋も、髪の中まで赤く熱を持っている。
同じ。同じ?
惹かれていた、だけではなく。惹かれ合っていた?
彼の姿を見るたびに感じていた、あの心の奥の焦燥感を、彼も持っていた?
そんな馬鹿な。
けれどそれ以外に、彼の言動に説明がつかない。しかも。
「また……って言ったか……?」
これで終わりではないと、彼は言い置いた。
本気なのか。
良くない。これは良くない。お互いにとって、本当に良くない。
理性は彼を否定する理屈を並べ立てる。
だが感情は、胸の奥底から、浮かび上がる。
土井は立ち上がった。そして、部屋に積んである本の中から、忍びの心得が記されている書を取る。
封じなければ。
まだ形になっていないこれを、何とか打ち消さなければ。
最後の囁きと唇の感触を打ち消しながら、土井はひたすら書にのめり込んだ。
翌朝。
一睡もできないまま授業に出た土井半助は、朝方戻ってきた山田に見咎められた。
「昨夜は何かあったので?」
「いーえ! 何ッにもありませんでした!!」
「そ、そうか…」
山田はそれ以上聞いて来なかったし、土井も誰にも何も言わなかった。
誰にも話さず、忘れようと必死になった、あの一夜。
それが、二人の始まりだった。