まあ、なんて美味しそうなチェリーパイ!騒がしい流水音をBGMにノースディンはゆったりと本を読み進める。目の前のスマートフォンの画面は白いままだ。時折ゆらりと湯気が揺れた。
キュッとカランを捻る音を最後に流水音が止まる。濡れた足音と布が擦れる音がして、カタカタと細かく画面の向こう側が揺れた。水を掻き分ける音がしてすぐに指が映り込み、向きが変わる。
「待たせてすまないノースディン」
最新式の優秀さでぼんやりとした肌色からすぐに焦点が合えば、濡れたままの重たい髪を掻き上げ、滴る水を瞬きで弾くクラージィが映り込んでいた。
ずっと聞き耳をたてていたが、声が聞こえてからたっぷりと間を取り、さも今気が付いたかのようにBluetoothイヤホンの電源を入れた。
「構わん。気にするなと言っているだろう」
「そうもいかないだろう。私の我が儘に付き合ってもらっているんだ。おかげで安心して湯船につかれている。ありがとう」
「律儀な奴だな」
「感謝は何度したって罪にならないだろう」
ならもっと頻度を上げて欲しいとは言えずにノースディンは仏頂面で言葉を飲み込んだ。
三日ぶりとなる会話は順調な滑り出しとはいかなかったが、いい加減ノースディンに慣れたクラージィが日本語で三日間あったことを話し出す。流石魔都話題に尽きないと、呆れながら相槌を打った。
切欠はトライ&エラーを繰り返し、いいかげんに新横浜の雪を止ませろとドラルクが大きなお世話を発揮したこと。アポを再三取れと言っていた癖にと小馬鹿にされながらやっとこさノースディンはクラージィとラインを交換した。
ポツポツと繋がる話の流れでクラージィが冷え性であること、吸血鬼の習い癖で風呂が苦手でシャワーはまだ頑張れるが湯に長くつかるのが怖いこと、しかし冷え性故に友人に奨められ有難いことによければ見守ろうかとまで言われてしまったことを知った。そこでノースディンは提案したのだ。
よければ自分が電話していてやろうかと。
勿論迷惑をかけられないと断るクラージィの意見を曲げさせるのは容易なことではない。だが、お断りされ続けたノースディンだからこそ分かることもある。
クラージィはお願いされると断れない。泣き落としなんてもっと効果的だ。プライド?タコパとその後の敗北続きでくだけ散っていた。
斯くしてノースディンはクラージィから今からお風呂に入るぞと連絡をもらい、ビデオ通話をする権利を得た。湯船につかってからでいいとか言われたが無視した。
ノースディンがビデオ通話を選択した理由は大きく三つある。一つは、安全性のため。もう一つは、クラージィが嬉しそうな顔をしたこと。未だに慣れないスマートフォン越しとは言え、知れた顔が見えるのは安心するらしい。残り一つは、ノースディンが嬉しいから。それこそ色々な意味で。一口で説明できるものではない感情はわざわざ買い込んだBluetoothイヤホンにも現れている。
本来、吸血鬼にイヤホン等必要ない。聴力が発達しているからだ。だが、スマートフォンのスピーカーには限界がある。ジャージャーと煩い水音は兎も角、湯船に浸かり気の抜けたクラージィの小さな吐息やパシャリとひそかに肌をうつ水音や身動ぎするキュッキュッという甲高い音。その音達。聴こえなくはないが、よくよく聞き取れるわけではない。ましてやビデオ通話中にかぶり付いて聞き逃さないようにするには上手い言い訳も思い付かない。
最初に電話に成功してからその日の内に通販サイトでBluetoothイヤホンを高い順に並び立てて上から性能を順繰り順繰り見比べて買い求めたイヤホンは、目立たず高音質でクラージィの小さな吐息も余さずノースディンの鼓膜に届けてくれ満足している。クラージィに送った防水用ケースも最初の袋越しのボヤボヤした景色からは考えられないぐらいに鮮明に映してくれている。顔が見たいからと押しきって揃いの最新式の吸血鬼が映るスマートフォンに切り替えさせた甲斐があった。こんな高いものは受け取れないと辞退されそうになったのを泣き落とし同然に押し付けたのだから喜びもひとしおと言える。ついでに友人のお古だというスマートフォンを返却させたかったのにお守り代わりと持たされたままなのは気に食わないが。
「毎回毎回窮屈そうじゃないか」
「そうでもないさ。狭さにも慣れてきたし、水量も少なくて済む。逆にフィットしていて居心地がよくなってきた」
「いいわけあるか、そんなみちみちに詰まっていて」
「ふふふ、本当に意外なぐらい居心地がいいんだ。ノースディンも入れば分かるさ」
「絶対にごめんだ」
一人で必要にかられて入っていた頃のクラージィは笑うなんてとんでもない、毎回毎回怖気と恐怖と戦っていた。だからこそ友人達は心配して見守ろうかとまで言ったのだから。
今はみちみちに狭い風呂に詰まってクラージィが力の抜けた笑顔を浮かべる。巨躯をもて余して足も伸ばせないどころか背を丸めて入らなければならないのに、毎度毎度何故か楽しそうで以前のクラージィを知らないノースディンは面白くない。
そもそも少ない水量で済むとは言えど、風呂は贅沢品だと頻度はそう高くない。ノースディンとしては毎日風呂に入って肩まで温まり、健やかな眠りについて欲しいと思っている。勿論、毎日クラージィとお電話したいわけではない。
小さいながらもちゃんとしたバスルームが完備されているなど、この格安家賃に対して破格の設備なのだが、その辺りの日本事情などノースディンは知らないし、興味もないし、早く引っ越せと思っている。主に自分の屋敷へ。
「仕事はどうだ。続けていけそうか」
「ネコカフェノオシゴトスルタノシイ」
「様々なコースがあるのだろう。覚えることも多そうだ」
「オキャクサマネコナル。ナカヨクスル」
「仲良く……?」
誰と誰が仲良くするのかと詰めたくなるのを堪える。返事如何によっては魔都は雪に包まれるだろう。
色付いた頬や眦や肩口、心地好さから険のとれたとろりとした眼差し、はふりと半開きになる口元と赤みが差した唇、案外長さのある張り付いた髪。そのどれにも劣情情欲、欲情を覚えないわけではないが、学び途中の日本語で一生懸命に最近あったことをノースディンになるべく分かりやすく伝えようとする様は、なけなしの父性をくすぐる。
画角がそもそも鎖骨より上、ほぼ顔面固定なのもあるのかもしれない。伏し目がちになられると中々流してやれない色香を漂わせるが、まだ余裕をもって聞いてやれた。
基本的に洗髪中や体を洗う際にはカメラは壁を向いているし、湯船に入る時は腰にタオルを巻いている。それでなくともなるべく映さないようにしている理由が腹を覆う古傷にあるのは明白だった。だからノースディンはそのことに触れない。タオルの中身をみたのは、温度調節を間違えてしこたまためられた熱湯に呑気に鼻歌交じりに足を浸け、聞いたこともない悲鳴を上げながら脛を強打し、剥がれ落ちる腰のタオルを押さえることもできずに痛みに文字通り踊り狂うクラージィをすっ飛んだスマートフォン越しに下からのアングルで見上げた際に目に入った時ぐらいだろう。
咄嗟のことにじろじろと眺めている暇があるはずもなく、ワンシーンとして目に焼き付いているだけだ。アングルの稀さも込みで。
ちなみにこの時クラージィは痛みを耐え涙目で文字通り飛んでこようとするノースディンを宥め、鍵を抉じ開けて部屋に飛び込もうとする三木と吉田に対応するために素っ裸に巻き直したタオル一枚でスマートフォンを握り締めて震えながら、喚くノースディンの声をBGMに腹の傷をどうこう思う間もなく玄関先で二人に自らの失態を説明する羽目になったのでその後温度の確認は念入りにしている。
「あ、すまないノースディン、少し待っていてくれ」
「……おい、クラージィ。クラージィ?」
突然身を乗り出したクラージィのどアップが画面後方へ外れ、代わりに視界いっぱいに広がるのは形の良い鎖骨となだらかな胸板と鮮やかな桃色をした頂。温まり血の色が戻った肌と同じく、血の巡りがよくなり瑞々しい色付きを取り戻し更に色濃い桃色をしていた。見るからに柔らかそうな小粒はちんまりとしている。すりすりと刺激してやればどれだけ成長するのだろうか。
体内の熱をまとめて吐き出すような重苦し溜め息を吐きながら、ふるふると震える頂を見守る。クラージィの笑顔はまだ画面に戻らない。
血圧が天元突破して一切帰ってくる様子がないのを感じながら、ノースディンは諦めの境地で行儀悪く頬杖をついた。
まあ、なんて美味しそうなチェリーパイ!