近くて遠い距離「あの、池田さん…!」
咲子が給湯室でマグカップを洗い終わった瞬間、後ろから声をかけられた。
咲子が振り返ると、彼女より少し年上と思われる男性社員が立っている。だが名前は知らず、何度か見たことあるような気がする、くらいの関係性だ。
「はい。どうしましたか?」
お茶の場所がわからないのかな、と咲子が首を傾げて微笑むと、男性社員の頬が少し赤くなる。
「えっと…その…実は前から池田さんのことが気になってて!良かったら一緒に食事でもどうかな!?」
思ってみなかった言葉に、咲子は少し目を見開いた後、困った表情を浮かべた。
「あ、いきなりでびっくりしたよね、ごめん!!もし2人がダメなら他の人を誘ってはどうかな!?」
咲子の表情を見て戸惑いと感じたのか、男性社員は食い下がる。
そんな彼に咲子は頭を丁寧に下げて、キッパリと遠慮の言葉を告げた。
「えっと…すみません。貴方とお食事にはいけません」
「……そっか。もう付き合っている人がいるとかかな?」
咲子は磯貝の顔が浮かんで、どう答えるべきか少し悩んだ。
隠すことでもないのだが、社内で噂になって磯貝に迷惑がかかるのは困る。
だが目の前の相手の表情は真剣そのもので、こちらも真摯に答えるべきだという思いもある。
咲子は言葉を選びつつ、自分の想いを告げる。
「はい。でも、付き合ってる人がいるから、とか…嫌がるからとかではなく…その人のことがとても好きで、尊敬していて、大切なんです。だから…」
「そっか…急にごめん。ありがとう」
男性社員は力なく微笑み、そのまま項垂れて給湯室を出て行った。
嵐のようだった、と咲子は少し呆気に取られつつ、ふと磯貝に初めてご飯を誘われた時のことを思い出した。
あの頃は例の感染症が特に猛威を奮っていて外食自粛モードな状況だった。そのことを始め、食べられるものなど気を遣ってくれた優しい磯貝のことを思い浮かべて笑みを浮かべた時。
――2人で行くと困る人はいない?
「…………あ!」
その時はその意味に気づかなかった言葉。
(そっか…もうあの頃から…)
今、咲子はようやく理解した。
磯貝にとって精一杯の勇気を込めただろう言葉の意味も、そしてその気持ちも。
咲子は自分の頬が赤くなるのを感じた。
嬉しいという気持ち。
愛おしいという気持ち。
それが更に強くなる。
(磯貝さんに会いたいなぁ…)
会おうと思えばすぐに会える距離にいるのに、今はもう気軽には会えない。
付き合う前なら、その気持ちに気づく前なら、気楽に行っていた企画部の部屋の距離が、なんだかとても遠く感じる咲子だった。