素敵な靴食事をした後、少し離れ難く感じてカフェに寄ることにした二人。
注文したのはホットコーヒーとウィンナーコーヒーで、初めて2人で食事をした時のことを咲子は思い出す。
それは磯貝も同じだったようで。
「そういえば、あの靴はもう履かないの?」
「あの靴?」
「ほら、前に靴擦れしてた…」
「ああ、あれですか!――その節はありがとうございました」
咲子が丁寧に頭を下げる。
磯貝から初めて食事に誘われた日。
それは咲子が靴擦れを起こして磯貝に助けてもらったことがきっかけだった。
「あれからあの靴を見てなかったから、どうしたのかなって思って」
「まずは慣れなきゃと思って近所周りを歩くようにしまして、ようやく慣れてきました」
「それは良かった。あの靴可愛かったよね」
磯貝の言葉に咲子が嬉しそうに笑った。
「えへへ。実はあの靴、一目惚れして自分の誕生日プレゼントに買ったものだったんです」
「そうだったんだ」
「ただヒールが高いのが慣れなくてまだ長時間は歩けなくて…なので近場に行く時くらいしか履けなかったりするんですけど」
「そっか」
相槌を打ちながらコーヒーを一口啜った後、磯貝は何かを思いついた顔を咲子に向けた。
「じゃあ、次遊びに行く時はどこか駅近のお店にする?」
思っても見なかった提案に、咲子はパッと目を輝かせる。
「良いんですか?」
「うん、全然良いよ。あまり歩かなくても大丈夫そうなところを探してみようか」
「ありがとうございます!」
咲子が嬉しそうにクリームを口に運ぶ。
花が咲くような笑顔を浮かべる彼女に、磯貝は愛おしいそうに小さく微笑みかけるのだった。
「えへへ〜」
デート当日。今日は磯貝が見つけてくれた、駅からすぐそばのお店にご飯を食べに行くことになっていた。
咲子はハイヒールを履くと、その場をくるりと回った。
「あの店員さんの言った通りだったな〜」
――素敵な靴はあなたを素敵な場所に連れて行ってくれる。そして、その素敵な場所で素敵な出会いを与えてくれる。
磯貝と仲良くなるきっかけをくれた靴を見下ろしながら、咲子は頭を下げた。
「この前はありがとう。今日もよろしくお願いします」
任せて、と靴がにっこりと同意するが如く、玄関を出ていく咲子の足取りはとても軽かった。
「良かった、間に合った」
待ち合わせ場所に到着した磯貝が腕時計を見ると、針は待ち合わせ3分前を指していた。
今日行く店は磯貝と咲子が利用する路線を乗り換えないといけなかったため、乗り換え駅で待ち合わせをしたのだ。
磯貝が電光掲示板を見ると、咲子が乗ってくる路線の電車がちょうど到着したことを知らせていた。
おそらくこれに乗っているはずだ、と咲子が降りてくると思われる階段の方を見る。
少しすると乗客たちが一気に降りてきた。たくさんの人が磯貝の前を通り過ぎていくが、そこに咲子の姿はない。
次の電車だろうかと、首を捻っていると人が少なくなった階段から咲子が降りてくる姿が見えた。
高さのあるヒールのため普段よりも足元に気をつけなければならないのだろう。手すりを使ってゆっくりと降りてくる咲子。その様子に磯貝は少しハラハラした。
そして階段の最終段まで降りると、達成感に満ちて一人笑顔を浮かべた咲子に、磯貝も安心した表情を浮かべる。
そこで咲子はようやく磯貝が見ていたことに気がついた。
「磯貝さん!」
咲子が小走りでやってこようとしたので、磯貝も咲子の方へと歩みを進める。
「すみません、お待たせしちゃいましたか?」
「ううん。今来たばかり」
「良かったです。階段を降りるのが思ったより怖くてちょっと時間かかっちゃいました」
「まだ予約時間まで余裕があるし大丈夫だよ」
磯貝は咲子に小さく頷いて、次に乗る電車のホームへと続く階段を指差した。
「少し向こうに行ったらエスカレーターがあるから、そっちで行こうか」
「ありがとうございます!」
咲子が嬉しそうに磯貝の指差した方向へ歩き出す。
その歩みは先ほどと打って変わってしっかりしていた。
平坦な道は問題なさそうだと、その後ろ姿を見て磯貝は安心する。
そんな立ち止まったままの磯貝に、咲子は不思議に思って振り返った。
ワンピースのスカートの裾と咲子の長い髪が回転に合わせてふんわりと広がる。
なんだかいつもの咲子より大人びていて――大人の彼女にそう言うのはおかしいかもしれないが――あまりに可憐で磯貝は見惚れてしまった。
「磯貝さん?」
首を傾げて声をかけてくる咲子に磯貝は我に返った。
「あ、ごめんごめん。…何でもない」
磯貝は首を振って咲子の後を追いかけるのだった。
磯貝が見つけた店は料理も美味しく、内装も少し変わっていてとても楽しめた。ただ一つだけ問題が…
「ごめん、ここまで調べれてなくて…」
「いえいえ、気にしないでください!」
磯貝が来た時と同じように謝るのを咲子は顔を横に振って否定した。
店を出てすぐの二人の前には急勾配の階段が。そう、店はエレベーターもない古い建物の2階にあったのだ。建物の古さ故か、手すりはあるが段差が通常の階段よりも心なしか大きく、幅も二人並んで通るには狭すぎた。
咲子は高所恐怖症のため、ちょっと下を覗くだけで足がすくみそうになる。行きはまだ良かった。上りだから下を見なくて済んだのだ。しかも今日はハイヒールを履いてきている。果たしてこの靴で手すりをしっかりと掴むとはいえ、あまり下を見ないようにして降りれるだろうか。
足がすくんでしまった咲子に、磯貝は何かを思いついた顔をして先にニ段ほど階段を降りた。
そしてクルリと咲子を振り返る。咲子を見上げる形で磯貝は咲子に左手を差し出した。
「これならどう?両手だったらちょっとは降りやすくなるかな?」
咲子の視界は磯貝だけになった。
確かにこの状態なら、段差の高さも手すりと磯貝が支えてくれればきっと大丈夫だろう。
「…ありがとうございます」
咲子は安心した表情を浮かべて礼を言い、右手を磯貝の左手に重ね、左手で手すりを掴んで1歩足を踏み出した。
「イチ、ニ、サン、シ…イチ、ニ、サン、シ…」
イチの合図で磯貝が右足を一つ下の段へと降ろし、次の二とサンで咲子が一段下へ両足を順に下ろす。そして最後のシの部分で磯貝が左足を右足に揃える形で下りていく。
それはまるでダンスのステップを踏んでいるかのようで。それをスローペースで繰り返していくうちに、咲子は何だか磯貝と踊っているような心地になってきた。
咲子の中で恐怖心は全く無くなり、階段の後半にはもうすっかり表情に笑顔が戻る。
それに磯貝はこっそりと安心した表情を浮かべつつ、咲子の手を優しく支えながら、右手では手すりをしっかりと握って足を進めていく。
「……イチ…二、サン!」
最後の段を降り終わった咲子は笑顔で磯貝を見上げた。
「ありがとうございました。全然怖くなかったです」
「それは良かった」
「……」
「……」
磯貝が頷いた後、二人の間で沈黙が流れる。
咲子の右手と磯貝の左手はお互いを握りしめたまま、手を離すタイミングを逃してしまっていた。いや、正確に言えば、手を離すのが惜しくなってしまっていたのだ。
「あの…」
沈黙を破ったのは咲子の方だった。
「もう少しだけ…手を繋いでても良いですか…?」
咲子の言葉に磯貝が困ったような表情を浮かべる。
「あ…いきなりすみません…」
ダメだったか、と咲子が手を離す。
するとすぐに磯貝が手を伸ばして、咲子が引っ込めようとした手を再度握りしめた。
「いや、その…そうじゃなくて…」
磯貝はいつもより眉間の皺を深くして、少し言葉を紡ぐ。
「こういうの、慣れてなくて…苦手というか…もちろん嫌って意味じゃなくてなんだけど…」
みるみる顔を赤くなる磯貝に、咲子もつられて赤くなった。
「だから、その……駅まででも、良い?」
「…はい!」
咲子がとても嬉しそうに微笑んで頷く。
磯貝はそれを見て照れくさそうに少しだけ口端を上げた。
駅までの短い道のりを二人は手を繋いだままゆっくりと歩いていく。
「…足は大丈夫?」
気恥ずかしさからか、磯貝は前を向いたまま咲子に問いかける。
いつもより歩調がゆっくりなのは咲子の靴を気遣ってのことなのだと気づいて、咲子は磯貝の横顔を少し見上げて笑みを浮かべる。
「はい、大丈夫です」
咲子はそのまま言葉を続けた。
「今日はありがとうございました。お陰様で久しぶりにこの靴が履けました。ご迷惑もおかけしちゃいましたが…」
「いや、気にしなくて良いよ」
磯貝は繋いでいた手の力を少しだけ強める。
「だから…また履いてきなよ。これくらいどうってことないし。その…よく似合ってて……可愛いし…」
最後は消え入りそうな声だったが、隣にいた咲子には問題なく伝わった。
思ってもみなかった磯貝からの褒め言葉に咲子は顔が熱くなるのを感じた。
咲子は俯いて磯貝の手を少し強く握り返す。そして小さな声で呟いた。
「…ありがとうございます」
咲子の視界にハイヒールが目に入った。
(また助けてくれたね。ありがとう)
磯貝とまた少し距離が縮まった気がして、咲子は心の中で礼を告げる。
そんな咲子に応えるように、シューズアクセサリーが照明灯の光に反射してキラリと光った気がした。