現実はフィクションを上回る「壁ティーの最新刊、本当に本当に最高でしたね!」
「うんうん!今回も凄くドキドキしたよね!」
会社の近くのカフェで咲子と公保は漫画を手に盛り上がっていた。
飲み物が温くなるまで話をしていた2人。
ようやく一息ついて飲み物を喉に通す。
「すみません、今回もめちゃくちゃ語っちゃって」
「ううん。私も楽しかったよ〜」
社会人になると、共通の趣味の人に会えることが少なくなってくる。
2人の好きな漫画の最新刊が出る度にこうして感想を語り合うのが咲子にとっても公保にとっても楽しみの一つになっていた。
「あ、そうだ!…池田さん、ちょっと手を出してもらっても良いですか?」
「手を?はい、どうぞ」
手のひらを上にして差し出す咲子。
「あ、すみません。説明下手で…こう手を重ねる感じで…」
公保がテーブルと垂直になるように咲子に手のひらを向けて差し出す。
咲子は言われた通りに腕を伸ばして公保の手のひらに自身の手を重ねた。
「わ〜!池田さんの手、華奢で可愛いですね!」
「え〜?そんなことないよ〜!公保さんの手こそ小さくて可愛いよ〜」
咲子が照れながら言う。
「では失礼して…」
公保はニッコリと笑いながらエイッと掛け声と共に咲子の指と絡ますように手を握り締めた。
「わっ!」
咲子が驚きで声を上げると公保は悪戯っぽく首を傾げて笑った。
「えへへ〜!ドキッとしました?」
「うん!凄く!」
咲子がコクコクと頷く。
公保はそれに満足したように咲子の手を解放した。
「壁ティーじゃない他の漫画でなんですが、両片思いの二人が悪ふざけで手をこうやって重ねてたら、ヒロインが手をいきなり握って『ドキッとした?』って悪戯するシーンがあったんです。それを見て、いつか素敵な人と出会えた時にやってみたいな〜って思っていたんです。それを思い出したのでつい…あ!もちろん、一番憧れているのは壁ドンですよ!?でもそれって自分がやりたいというよりされたいことじゃないですか?」
「あ、確かに!それはちょっとわかるかも〜」
「わ〜!池田さんならそうおっしゃってくれると思いました!」
でもいきなりすみませんでした、と公保はもう一度謝ってからカップに口を付ける。
そんな公保の可愛らしさに、咲子は自然と笑みが浮かぶ。
「いつかできると良いね〜」
「はい!」
咲子が微笑むと、公保がコクコクと嬉しそうに頷いたのだった。
咲子が好きな漫画の最新刊が出た日。
いつかの公保とのやり取りをふと思い出しながら、咲子は読み終わった本を開けたまま、こっそりと目の前の磯貝を見た。
テーブルを挟んだ真向かいに座り、タブレットで推理小説を読んでいた磯貝は集中しているのか、咲子が見ているのを気づいた様子はない。
風呂上がりで前髪を下ろして眼鏡をしている磯貝は、いつもと違い少し幼く見え、年下の咲子が言うのも何だが可愛らしい。
過去に一度、それを伝えた時は複雑そうな表情を浮かべていたことを思い出して、咲子は堪えきれずフフッと小さく笑う。
「ん?」
磯貝がその声に反応してタブレットから顔を上げる。
「あ、すみません。邪魔しちゃいましたか?」
「いや、ちょうど区切り良いところまできてたから大丈夫」
磯貝はタブレットをテーブルに置いて、グッと腕を上に伸ばす。
「池田さんは読み終わったの?」
「はい!」
咲子は本を閉じて軽く頭を下げた。
「すみません、せっかく遊びに来てもらったのに」
今日が漫画の新刊の発売日だったため、磯貝が気を利かせて今晩は読書タイムとしてくれたのだった。
交代で風呂に入り、テーブルには咲子のいつもの読書セット――今日は磯貝がいるのでアルコール版だ――をセッティングして、2人はそれぞれ読書を楽しんでいたのだった。
「全然気にしないで。新刊は買うとすぐ読みたくなるよな」
磯貝はそう笑って、テーブルの上のロックグラスの中の焼酎を数口飲んだ。
咲子はそのグラスを持つ手を見て、公保とのやり取りを再度思い出した。
ちょっとした悪戯心を起こして咲子は磯貝に手のひらを向ける。
「磯貝さん。ちょっと手を出してもらって良いですか?」
「ん?良いけど…」
漫画でまた心理テストでも出たのだろうか、と以前に公保に心理テストを試されたことがある磯貝は内心で首を傾げながらも、グラスを置いて咲子に言われるまま手を差し出した。
2人が手のひらを重ねる。大きさは咲子のものよりもひと回り大きく、骨張っていて少しゴツゴツとした男らしい手。先ほどまでグラスを持っていたそんな磯貝の手はほんのり冷たかった。
咲子は自分の胸の動悸が早くなったのを感じる。それは悪戯を仕掛けることによるものかそれとも…
「さっきの漫画で何かあったの?」
「えーと、まあそんなところです」
「??」
磯貝が首を再度傾げたタイミング。
咲子は勇気を出してエイッと磯貝の指に絡めるように手を握り締めた。
磯貝は驚いたように指を少し震わせ、目を見開いた。
「えっ、何!?」
「…あれ?」
もっと恥ずかしそうな反応を期待していたのだが、思っていたのとは少し違う磯貝の反応に、今度は咲子は首を傾げた。
そして公保が話していた言葉を思い出す。
――両片想いの二人が悪ふざけで…
そう、公保が話していたのは『両片想いの二人』。
前提がそもそも違ったのだ。
咲子と磯貝はもう両思いな上に、こうやって家に遊びに来る――それどころか相手の家で風呂まで入る――仲であるのだから。
咲子の顔がみるみると赤く染まっていった。
自分の行動を振り返ってみて、あまりに幼いものに感じてとても恥ずかしくなったのだ。
「池田さん?」
「……えーと、その…」
どうしようか、と咲子は手を握ったまま一生懸命考える。
だが良い言い訳も思い浮かばず、咲子は観念するしかなかった。
「……こうしたら、ドキッとするかなって…思った…んですが…」
最後は消え入るような声で呟く咲子。
すると咲子の手に応えるように、磯貝が繋いでいる手を握り締めた。
「……今のがドキッとした」
小さな声で照れ臭そうに言う磯貝に、咲子の鼓動が更に速くなった。
「……こっち来る?」
そう言いながらも磯貝は咲子の側に積まれている漫画をチラッと見た。
咲子が新刊を読む時はいつも過去の巻も読み直すことを磯貝は知っていたので、無理にとは言わないと言外に伝えているのだろう。
だが咲子は迷わず握り締める手の力を強めた。
「そっち、に行きます…」
咲子の言葉に磯貝は隠すようにもう片方の手で顔の下半分を覆って俯いた。
その耳はとても赤い。きっと頬も真っ赤に染まっていることだろう。
思惑とは少し外れたが、咲子は今度こそ磯貝をドキッとさせることに成功したのだった。