優しい人とある金曜日――
磯貝は会社から少し離れたところにある焼き鳥屋のチェーン店のカウンター席で焼酎を飲みながら、タブレットで推理小説を読んでいた。
カウンターの上は、食べ終わった焼き鳥の串が数本だけ竹筒に入っており、あとはキュウリや皮ポン酢といったツマミが数皿食べかけの状態でおいてあるだけ。
そして読み進めていた小説が中盤に入った頃、ようやく磯貝のスマートフォンが震えた。
『お待たせしてすみません!今終わったのですぐに向かいます!』
そのメッセージのすぐ後には謝罪ポーズを取った犬のスタンプが表示されていて、磯貝は笑みを小さく浮かべながら焼酎を飲みながら返信を打つ。
『お疲れ様。こっちはもう始めてるから気にしないで。ゆっくりで大丈夫』
送信して数秒後、すぐに犬がお礼を言っているスタンプが送られてきた。
磯貝はまた小さく笑みを浮かべて、スマートフォンをポケットの中にしまい、メニュー表を手に取る。
ああは言ったものの咲子のことだ。できる限りの全速力で来るに違いない。
「すみません、注文お願いします」
磯貝は咲子が店に到着する時間を計算しながら、カウンターごしに店員に声をかけるのだった。
「5番様、お連れ様お越しでーす!」
「「「いらっしゃいませー!!」」」
店員の元気な掛け声に磯貝が顔を上げる。
案内してくれた店員やカウンターの中に居る店員に頭を下げながらやってくる咲子と目があった。
「すみません、遅くなりました!」
「お疲れ様」
少し息を切らした様子の咲子に磯貝は小さく噴き出す。
「やっぱり走ってきたね。急がなくて良かったのに」
「えへへ、これ以上お待たせするのは申し訳無くて」
「最初は生ビールで良い?」
「はい!」
咲子が上着を脱いでる間に磯貝はカウンターの店員に注文をし、それと同時に差し出されたお冷とおしぼりタオルを受け取って咲子の前においた。
咲子は再度礼を言って、タオルで手を拭き水を数口飲む。そうしているとすぐに、
「生ビールです!あとお通しもどうぞ!」
「あ、ありがとうございます!」
カウンターごしに差し出されたビールと小皿を咲子が慌てて受け取る。
「じゃあ、池田さん、残業お疲れ様」
「ありがとうございます。磯貝さんもお仕事お疲れ様です」
磯貝が飲んでいた焼酎のグラスと咲子の生ビールのグラスが重なり軽快な音が鳴る。
数口飲んでから咲子はホッとした息を吐く。やっと体の力を抜けるのを感じた。
「大変だったね、急にトラブルなんて」
「はい。納品されてないと聞いた時は冷や汗かきましたが、ちゃんと納品されてました」
「お、無事見つかったんだ」
「新しく入られた方が荷物を受け取ったらしく、指定の位置とは違うところに保管されてたそうです」
「じゃあ原因は向こうじゃん!」
磯貝の呆れたような顔に咲子は苦笑する。
「でもでも誰でもミスはしますし、最終的にはちゃんと納品されてるのがわかったので。本当に本当に良かったです。これで明日から新商品が店頭に並びます。楽しみですね」
急に残業になった上に、こちらが全く悪くない原因であるにも関わらず、咲子は嫌な顔ひとつせずに嬉しそうに話す。
そんな咲子に、磯貝は目を柔らかく細めた。
「…池田さんは本当に凄いよな」
「え?」
「普通、急なトラブルが発生したら愚痴の一つも出るものだろ?今回みたいに相手が原因だったら特に。でも池田さんは嫌な顔せずに相手のことを一番に考えて、良かったって安心しただろ?本当に凄いよ」
「そ、そうでしょうか…」
「うん。そういうのってなかなかできる人いないよ。だから池田さんのそういうところ、本当に……尊敬してる」
スムーズに話していたのに最後の部分のみ言い淀んだ磯貝のその言葉に含まれた意味。
それに気づかないほど、今の咲子は鈍感ではない。
咲子は頬を少し赤らめる。
「お待たせしましたー!唐揚げももと手羽先でーす!!」
そんな甘い空気を断ち切るが如く――もちろん店員はそのつもりは全くないのだが――カウンターの中から大きな皿を2つ差し出された。
磯貝は慌てて店員に礼を言ってそれを受け取り、咲子の目の前に置く。
衣に付いた油が照明に反射し、それが揚がったばかりのものだとわかり、咲子は目を輝かせた。
「わあ〜!美味しそうですね!注文して下さってたんですか?」
「うん、連絡もらった時にね。池田さんのことだから走ってくるだろうから、そのタイミングで頼んどいたら揚げたてが食べられると思って」
「…ありがとうございます!」
咲子はさっそく唐揚げを口に運ぶ。サクッとした衣を齧ると肉汁がジュワッと口の中に広がる。醤油をベースに味付けされているもも肉は柔らかく、咲子は幸せそうな表情を浮かべる。
「これ、凄く美味しいですね!」
「それは良かった」
本当に幸せそうに食べるな、と磯貝は吹き出しそうになりつつ、グラスに入っている残り少なくなった焼酎を飲み干した。
「飲み物注文するけど、池田さんも何か頼む?ここ、焼き鳥も美味しいよ」
「良いんですか?」
「うん。俺もまだ食べられるから好きなの頼みなよ」
咲子は席に着いた時の串と皿の数を思い出す。
小柄の彼からはなかなかイメージができないが、磯貝は案外食べるのだ。
そんな彼が食べたにしては少ない串と皿の数に、咲子はじんわりと胸の奥が温かくなるのを感じた。
小腹を多少満たしただけの状態で待っていてくれたことに気づいたのだ。
咲子が好きなものを色々食べられるように、と。そして咲子が着いた時に慌てなくて良かったと言えるように、と。
咲子はふと思いつき、少しイタズラっぽく首を傾げて微笑んだ。
「私も磯貝さんのこういうさりげなくて優しいところが好きです」
先ほどの磯貝の言葉をストレートに直したその言葉。
それを瞬時に理解した磯貝は、咲子に差し出そうとしていたメニュー表を床に落とした。
「…これは一本取られた」
磯貝はそう呟きながらメニューを拾う。
そして少し困ったように、照れ臭そうに。
磯貝は咲子に向かって微笑んだのだった。