ハニームーンにレタスサラダ 徹郎さんハワイ行きましょハワイ!
朝7時、いつもの「ただいま戻りました」とか「今帰りました」の挨拶もなしにクエイド財団所属医師、ドクターJOEこと和久井譲介は元気いっぱいそう言った。
別に、これがいつもの和久井譲介なら真田徹郎も別に何も思わない。否、大前提として、昨晩は夜勤ではなかったはずだ。
「どうせ一睡もしてねぇんだろうが」
ため息をついた真田徹郎がコーヒーカップを机に置いて「とりあえず寝ろ」と声をかけると、同居人はある種の習性としてきちんと洗面所に向かいながらも大笑いして「嫌です!」と言った。
「明日は朝からハワイに行くんですから荷物積めないと!」
「いやあきらかに疲労と徹夜でテンションがおかしくなってんだろが」
元保護者で現伴侶が言ったって聞きやしない。次から次にやってくる急患に対応しっぱなしだった若い医師は「ハワイ~ハワイ~」なんて即席の歌を歌いながら徹郎のいたリビングにやってきて、彼を抱きしめて胸に頭を預けてしまう。人肌の温みか安心感からか、譲介はゆっくりと瞼を閉ざし始める。
「おい、ここで寝るな。年寄りに重労働させる気か」
頭を小突いたが目を開ける様子はない。しかし完全に寝てしまったというわけでもなく、もにゃもにゃと返事がある。
「……重労働?」
「お前をベッドまで運びきる自信はねぇぞ」
「うっそだぁ」
いつものタンクトップの胸元で譲介が子供のような顔をして笑う。これじゃあ子供そのもの、と内心で苦笑しながら寝室まで引きずろうとしたら、すぐそばにあったソファに体が沈み込む。
なぜ?
顔を上げて……譲介と目が合った。自分を押し倒して目を細めて、薄いくちびるの合間からかすかに白い歯をのぞかせて、差し込む朝の陽ざしを受けて髪をきらめかせながら蕩けるようにほほ笑む年下の恋人。
触れ合った手が握りこまれる。眠気からかほとんど力はこもっていないが、徹郎はろくな抵抗もできずに固まってしまう。何せ、恋人があまりに美しかったので。
「できるでしょ、いつもこんなすごいことしてくれるんだから」
眠気のせいで言ってることはめちゃくちゃだが。
譲介が身をかがめ、中途半端にソファに乗っていた脚の膝裏に手が差し込まれてわずかに持ち上げられる。確かに昨夜は譲介が予定通りに帰ってきていたら「そう」しようと思っていたが、何もかもあまりに急で。
「おい譲介、お前」
だが、抗議の言葉が最後まで口にされることはなかった。
膝裏を支える力が抜けて、身をかがめていた徹夜明けの医師はめちゃくちゃな体勢のまま徹郎に体重を預けて寝息を立てている。
「あー、くそ……運ばねぇからな」
頭をひっぱたいてやろうかと思ったが出来なかった。
本当に子供、安心しきった子供の顔をしているのを見て、徹郎は大きくため息をつくとなんとか譲介の下から這い出し、隣の部屋のベッドの上で丸くなっていたブランケットをかけてやる。起きたら着替えさせてコーヒーでも飲ませて食事を取らせて仕事は……。
(ああ、そうか、全然休んでなかったからまとめて5日間休み貰ったって言ってたか)
新婚なんだし旅行でも行ってきなよ、と朝倉省吾が笑っていたのを思い出す。ちなみに彼は譲介から徹郎との関係を聞かされた時、二人の年齢差については「ハリウッドセレブみたいだね!」とコメントしたし、関係性については「ロマンス映画みたいでいいね!」とコメントした。
(それにしてもハワイ……ハワイ? 新婚旅行のつもりか?)
そもそも新婚旅行はハワイ!なんてのが流行ったのはそれこそ徹郎が20代だったころの話だ。今でも海外ウエディングは人気があるがハワイにはとどまらないだろう。
そんなことを思っていると、ゴトン、と重いものが落ちた音がする。何事かと思って音の下あたりに目をやってブランケットを持ち上げると譲介のスマートフォンと青い小さなベルベット地の箱が床の上にあった。
拾い上げれば、どちらも壊れてはいないらしい。スマートフォンの方は落ちた衝撃でスリープモードが解除されて最後に持ち主が見ていたページが表示される。何とはなしにそれを見て、徹郎は喉を震わせて笑った。
「ま、熱海って言い出すよか今風か」
画面には、ホテルと飛行機の予約完了ページ。なるほど確かに明日朝のフライト、昼頃にホノルル空港着。
「……俺も荷物詰めたら少し寝ないとな」
落ちたものはテーブルの上にきちんと乗せて、和久井譲介の伴侶は自分の部屋に向かった。
譲介が目を覚ましたのは昼も過ぎた頃だった。時計に目をやってから反射的にローテーブルの上のスマホでフライトの予約完了画面と日付を確認してほっと下のもつかの間、ソファから体を起こすと、部屋の隅に持ち主にそっくりのゴツいキャリーケースが出ていてすわ家出の準備かと心臓が跳ね上がる。深呼吸をして自分を落ち着かせ、そういうのは同居開始した時に3回くらいやって連れ戻して一緒にいると言ってくれたのだから、と自分に言い聞かせる。
「徹郎さん?」
リビングを見渡すと、傍の机の上にはコーヒーカップと論文のコピーが乗っていた。彼がそこにいた痕。ついでにその隣には昨日の夕方受け取った青い箱。その中身を確認してほっと息をつく。揃いの環の一つを自分の左手薬指に飾り、もう一つを持って譲介が徹郎の部屋の扉をそっと開くと彼はきちんとベッドの上で眠っていて、ああそうか彼も寝ずに自分が帰ってくるのを待っていたのかと分かる。ベッドの傍に屈みこんで、随分年上の手にそっと触れてから譲介は左手の薬指に銀の環をそっとはめる。別にずっとつけてほしいとかではなくて、それが指に光っているのを一度見られたら良いなぁ、くらいの気持ちだったのだが。
「首輪みてぇだなぁ」
寝起きのかすれた声が笑いを滲ませて囁いた。
「あ、いえ、そういうつもりはなくて」
そりゃあ起きるか、と驚きながらも弁明しようとするが、ゆっくりと体を起こした徹郎の指先が遊ぶようにくちびるにふれて譲介はすっかり口を閉ざす。昼下がりの光がカーテンから滲むベッドの上で、伴侶が笑う。
「良いぜ、ああ、おめぇにそうされるなら、存外悪くねぇ」
ほほ笑んでいるように見えて、挑発のにじむ顔。
昨日の朝、譲介は出がけに行ったのだ。「今晩抱きますから」なんて。
ついでに、恋人の最後の家出の後も思い出す。なんとか徹郎を家に連れ戻した後の話し合いは譲介の泣き落としが決め手になった。泣き落としというか本当に泣いたのだが。どこぞで入手した手錠やらなにやら片手に大泣きした。
「僕を犯罪者にするつもりですか?!」
なんて言って。
ついでにそのあとしばらくしてからのセックスでその手の道具を使ったのを思い出して、譲介はさらに頬を熱くする。あのときはめちゃくちゃ盛り上がった。
「……とりあえずキャリーにゴムとローション入れときまね」
図らずとも声は唸るような響きだった。
しかし、旅行を目前にそんな色っぽい言い合いをしていたのも一時的に記憶のかなたに。久々のまとまった休み、しかも新婚旅行ということで譲介はめずらしく、そして分かりやすくテンション高く、ニコニコしながら「まさかいつもの格好で行くつもりじゃないですよね」と言って徹郎にラフな服を着せ、空港までの道すがらでは「コナコーヒー買って帰りましょうね」なんて言った。いざ飛行機に乗ると、おおむね問題なかったものの着陸間際になって急病人が出て、揺れる飛行機の中応急処置に追われてそれはもう大変だったのだが。無事ホノルル空港に着いたら着いたであちこちから事情を聞かせてくれ応急処置について教えてくれと熱心な人に囲まれ、それを大真面目に答えて解放されたときにはさすがに2人ともため息をついた。病院まで付き添おうとした2人をとどめたのは救急隊員たちだった。遊びにいらしたんでしょう、お2人の処置が完璧でしたので後はこちらにお任せを、と力強く言った人々は2人の名前を尋ねると握手して早々に病院に向かった。
良かった、と呟いた譲介はそのあと分かりやすくずっと上機嫌で、空港内のショップでアロハシャツを2枚購入すると片方を問答無用で伴侶に押し付ける。
「ね、この色絶対似合いますから! あ、あの売店、レモネード売ってるみたいです。喉乾いてませんか? それとも他に何か飲みたいものあります?」
とはいえこれはちょっと良くないな、と年上の医師は飛行機内でのことを思い出す。元重病人ということを鑑みてか、着陸態勢に入った機内で一番よく動いたのはドクターJOEだった。揺れる機内で少しでも手元がブレれば患者の命を奪いかねない状態でも少ない応急処置道具を用いて凄まじい集中力を発揮して救命にあたった。
その緊張の反動が、医者の顔をやめたとたんに妙な方向になって出てきている。
「譲介」
名前を呼ぶと、ハイ、と元気の良い返事。
「どこか行きたいとこありますか?」
苦笑した徹郎は彼の背をポンポンと叩いて抱き寄せ、背をかがめて耳元で言ってやる。
「せっかくの新婚旅行だろ? 二人っきりになれる静かなとこがいい」
返事は一言、蚊の鳴くような「ハイ」だった。
後日、和久井譲介の同期と言うべき黒須一也や宮坂詩織、二人目の師匠のKこと神代一人、あるいは現在の上司である朝倉省吾の元には譲介とその31年上の伴侶がワイキキビーチ背景にアロハシャツで指輪を見せびらかす写真が送られてきたり、朝倉経由で彼らのことを知った件の救急隊員たちから新婚祝いの品が送られてきたりするのだが、それはまた別の話。