星光る 富永研太は泣きながら家を飛び出した。夜10時、小学生ならそろそろ寝る時間だった。
きっかけは通っている学習塾の総合テストの結果だった。極めて悪い成績、というわけではなかったが、苦手だった項目が前回と同じように点数が取れないままでいたのだ。ようやく病院から戻ってきた父親はそれを見て叱った。小学生とはいえ富永研太は年齢に似合わず聡い子供だったので「まあおやじが叱るのも当然だよな」と思っていたのだが、元より厳しい父親にあれこれと言われ、それで「そんなことじゃ医者になるなんて到底無理だぞ」と言われたときに少年の感情は激しく表出した。
「何だよ! なんだよ、医者になるのが無理なんて!」
「当然だ! これから中学に上がって高校、大学とずっと勉強が」
「そうじゃない!」
勢いよく顔を上げた息子の丸い目が涙に滲んでいた。怒鳴りすぎた、と父親の顔が青くなるが、それに構わず研太は怒鳴った。
「僕、医者になるなんて言ってない! それ最後に言ったのいつだよ、いつ僕が医者になりたいなんて父さんに言ったんだよ! 医者になんてなりたくない!」
そう言われて、ふと父は自問自答する。息子が医者になりたいといったのはいつだったか? 幼稚園の卒園式? 小学校1年生の作文? それ以外に、息子が将来の夢を語ったことはあったか? もしかせずとも、自分はたった一度、まだ水色のスモッグを着て黄色い帽子をかぶってチューリップの名札を付けていた息子を幼稚園まで送ったときに保育士に「パパみたいなお医者さんになるの」と笑顔で言っていたことをずっと引きずっているのではないか?
「絶対になるもんか! どれだけ頑張っても結局人は死ぬんだぞ、医者の言うことを聞かないで死ぬ患者だっているんだったら、医者になったって意味ないじゃん」
11歳の我が子の言葉に富永医院院長は言葉を失った。自分の知らない間にこの子供は大人の言葉を理解し、何よりも医という営みに永遠に付きまとうものの本質を正確に理解している。
富永医師はぎゅ、と拳を握る。大学時代の知り合いの中には医者をやめた者もいる。それぞれの信念の元で研究に専念したり、あるいは単純に体が言うことを聞かなくなった者。あるいはかの魯迅や手塚治虫のように医療以外で人を救おうとする者。医者になる以外の道もある、それを分かっていながら彼は思わずにはいられない。
(研太、お前は医師に向いているかもしれん……)
息子の肩に手を伸ばすと、それをどう理解したのか彼はぱっと身をひるがえし、泣きながら家を飛び出した。研太!と名を呼ぶ両親の声を振り切って駆けだしていく。目的地などなく、足は慣れた方向へと向かっていく。覚えのある道を走り、そこからいつもは使わない道を選び、ふと立ち止まった。どれだけ走ったろうか、目に留まったのは公園だった。
小さな公園は白い街灯が静かに光り、2つ並んだブランコ、周囲には木々が植わるばかりでお世辞にも子供が遊びたいと思うような場所ではなかった。けれど今ばかりは健太にとってその裏寂しさが妙になじみ、ぼんやりとブランコに腰かけた。
月下、静まり返る住宅街にキイキイとか細い音が響く。月の傍では白く大きな星が輝いている。
じわり、と視界が滲む。僕は悪くないんだからと自身に言い聞かせて目をぬぐう。
「……あれ、君もお父さんとけんかしたの?」
ふと気が付くと、目の前に少年が立っていた。研太と同じ年頃だろうか、にも関わらずドラマで見るような、否、父たちが着るような手術着を纏った彼は、研太の問いに黙って首を縦に振る。
「あのね、僕も父さんとけんかして家出てきちゃったんだよ。今日は絶対帰らないんだ」
本当はその恰好のこととか、どこから来たのかとか、名前とか、色々聞かなくてはならないことがあったのだけれど、研太はそれを言わなかった。ただ今、こんな夜に家を飛び出した子供が自分だけでないことにホッとしていた。
「ここ座りなよ」
横のブランコをポンポンと叩くと、手術着の少年は大人しくそこに腰かけた。
「……君はどうしてお父さんと喧嘩したの?」
左右の鎖を握る手に力を込めて、彼はようやく口を開いた。
「それがさぁ」
言いながら研太はトトト……と後ろに下がり、つま先で地面を蹴って勢いよく足を振り上げる。大きく前に揺れ、はじかれるように後ろに戻る。
「うちの父さんさぁ、僕が医者になりたがってるって勝手に思いこんで頼んでもないのに色々言ってくるんだぜ」
ありえないよなぁ、と耳元でヒュウヒュウいう風を聞きながら研太が笑って言うと、隣の少年は彼を唖然と見つめてポロリと一粒涙をこぼした。ぎょっとしたのは研太である。つんのめりながらブランコを止め、彼の傍に身を寄せてわたわたと手を動かし、そして思い出したとばかりにその背をさすりながらパジャマの袖で濡れた目元をぬぐってやる。泣いている人の慰め方のサンプルは富永医院にいる大人たちばかりだった。父親に会おうと駆けて行った病院のエントランスでこけた時、あるいは患者やその親しい者たちが隊員の際泣いたときにその周りの者がしてやる仕草を再現する。
それを目の前の見知らぬ少年がどう思ったのかは分からない。彼は大人しくされるがままになってぽつりと言った。
「……俺も、医者になれって言われるんだ」
また涙がこぼれる。
「俊介が宿題終わったら遊ぼうって言ってくれるのに、医者になる勉強があるから断らないといけないんだ。俺もみんなとサッカーとかしたいのに」
「僕もだよ。ほんと父さんたちって何考えてんだろうな。治らなかったら文句言われてさ、治ったってその後患者さんがずっと病気しないでいられるわけでもないのにさ、医者になったって少しも良いことないよ」
親の稼業をけちょんけちょんに言った研太に、隣の少年が困ったように笑う。批判したいのではなく、それがあまりに真実を突いていたので。
「家族旅行とかもすぐドタキャンされてさぁ」
そこまで言って、富永院長の息子は一度唇をきゅっと結んだ。眉間にしわが刻まれる。
「……一緒に行きたかったのに」
沈黙のあと、絞り出すような声がこぼれた。
「俺も、一緒に旅行なんて行ったことない」
手術着の少年はそう言ってまた涙をこぼす。その横顔を見て、富永研太の胸がうずうずし始める。それは昔からの彼の癖のようなものだった。
「……もう、じゃあ、アレだな!」
明るい声に少年が顔を上げて研太をポカンと見つめる。
「いっそ僕ら2人で旅行にでも行くか!」
おどけたような声に少年がフ、と笑う。肩を揺らし目を細める姿に研太は内心でホッとする。
「良いなぁ、どこに行こうか」
「やっぱ旅行と言えばハワイでしょ!」
「北海道も楽しいだろうな」
「……温泉」
研太が呟く。一昨年の連休、家族旅行で九州に行こうと計画していた。それがキャンセルになったのは富永医院の近くで起きた大規模な事故が原因だった。
遠くから研太、と呼ぶ声が聞こえる。
「……温泉ならうちの近くにあるよ」
傍で囁く少年の声に富永研太はうつむいて首を縦に振る。向こうから一人、と呼ぶ大人たちの声が聞こえていた。手術着に包まれた肩を抱きしめて噛みしめるように声を出す。
「絶対、一緒に行こうな」
「うん、約束だ」
研太の肩にもまた腕が回って、力がこもる。そうして2人の体はゆっくりと離れて、ひらりと手を振って背を向けた。
この日のことを富永研太は忘れていた。何せ、自分を探しに来た父親に謝られたり怒られたりして、家に帰ったら母親に盛大に泣かれて大変だったのだ。翌朝にはいつも通り学校に通う。そうして月日が流れ、もう一度研太が彼に出会ったのは大学入学の直前だった。
小さな寂れた公園、白く光る1等星の夜空の月下、手術着に身を包んだあの日の子供はひどくうち沈んだ顔、濡れたまつげをゆっくりと上下させながら立ち尽くしている。
「……俺」
研太が何か問うより前に彼は呟き、けれど視線が合うと首を横に振ってうつむきながら後ずさる。
「駄目、駄目だ、見ないでくれ」
けれど研太は大きく踏み出し、どこでもないところに逃げ出そうとする彼の手を取る。そして言った。
「僕、医学部に行くことにした。医者なんてならないって何度も思ったけど……でもやっぱりそうしたい気持ちがずっとあるから」
泣き笑いする研太の顔に、あの日の子供は目を見開く。同い年だろう彼の顔から子供らしさは削げ落ちて、悲壮さばかりが目立つ。何かを失ったのだろうと、それだけを研太は直感的に理解するがそれについては何も言わなかった。その瞬間の彼らに必要な言葉はそんなものではなかった。
「最近おやじの話を聞いてて思うんだよ。分かんないけど……もうこの先ずっと会えなくても、何か同じものを志してそこを目指してたどり着こうとするときに……本当の意味で出会えるんじゃないかって」
名前も知らない青年の晴れ渡った夜空の目が滲む。
「また会おう」
術着姿の青年はそう言い残して、術着をひるがえして寂れた公園の木々の中に消えていく。富永研太はその背中を黙って見送った。
「オレねぇ、アンタに会えたなぁってちゃんと思ったの、実家に戻ってからなんですよ」
その背にもう一度腕を回せるようになるなど、20年前の自分なら思いもしなかった。現富永医院院長は戦友の胸のあたりでくぐもった声で喋る。
「ずいぶん時間がかかっちゃいました」
「……そうか?」
「ええ。ま、そもそもあの雪山で突然出てきたKとかいう大男があの時の子だなんて思ってもみませんでしたけど!」
「……フ、そうだな」
「そういえばあの公園、取りつぶされましたよ。今はマンションが建ってます」
そうか、と呟く声は少し寂しげな響きだった。けれど気遣いは絶えることなく、神代一人は戦友の背をあやすように軽くたたく。それを合図に富永は少し身体を離して元の位置に座り込んだ。傍には日本酒「山の風」が置かれている。
「……西海大の後輩が連絡をくれましてね」
しばしの沈黙ののちに富永は唐突に語りだした。
「医者をやめるんだそうです。元々絵が上手で、SNSでも結構人気があったみたいなんですけどね、大手紙で連載が決まったみたいで。オレも第1話読みました。面白かったです、面白くって、寝ないといけないのに全部忘れてドキドキしながら何度も読み返して、ろくに仮眠もできませんでした」
富永が眉をハの字にする。
「あるですよね、ああいうのを読んでいると怖いことや不安なことを全部忘れる瞬間が」
神代は首を縦に振る。同級生の氷室がこっそり貸してくれた漫画を夜中に必死になって読んだことがある。その時だけは毎晩のシャドーのことや勉強のことを忘れていられた。それは間違いなくあの時の彼の救いだった。
沈黙があった。窓から吹き込んできた春の風が温泉で火照った頬をそっと撫でていく。富永はグイとおちょこを傾ける。
「人工透析に通ってたうちの患者さんがね、亡くなったんです」
富永院長が顔を伏せる。
平素なら事前にメールや電話でT村来訪の連絡を入れる彼が、今回は唐突に診療所に顔を出した。お久しぶりです、の声が明るすぎて違和感を覚えたのは神代だけでなく麻上もまたそうであった。
「治療が辛かったんでしょうね、元々ある日ぱったりいらっしゃらなくて」
「日常生活に支障が出る場合もあるな」
ようやく神代は相槌を打つ。別段気の利いた言葉ではなかったが、富永はまた首を縦に振って話を続ける。
「何度か患者さんの家を訪ねてお話などもしたのですが、新興宗教のようなものに傾倒していらっしゃってもう病院には行かないと。ご家族も病院に行かせようとしたのですが、もう本人の望むようにしてやろうと結論を出したようで」
そう語る富永は立てた膝の間に顔をうずめて、すねた子供のような姿だった。
「何度も通って何度も話をして……最期に倒れて運ばれたのはうちのベッドの上だったけど」
ふるふると首を横に振る。それから、とぼんやりした声で彼は言う。
「ちょっと前に先輩が一線を退くことになって節目だから、と同期と一緒に食事をしてきました。手術をしてそれで完全復帰、とはいかないみたいです。紺屋の白袴だと本人は笑っていましたけど」
長い沈黙があった。窓の外は月がこうこうと輝いている。
「無力ですねぇ、医者ってのは」
「……後悔しているか?」
問われて、あの日の少年は勢いよく顔を上げて首を横に振った。
「していません」
春の青空のような目が潤んでいた。
「どれだけこの営みが報われなかろうが、アンタに出会えたこの道を進んだことを後悔することはありません」
その目の中に1等星の光が宿っている。白く何ものにも濁ることのないその輝きの名を、あるいは誇りと呼ぶのかもしれない。
「絶対、絶対です」
かみしめるように言って、富永は戦友の背にもう一度腕を回す。応えて彼の背にも熱が添えられ、あの日のように、あるいはあの日よりも強く力がこもる。
空には白く1等星が輝いている。