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    SakuraK_0414

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    SakuraK_0414

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    アンソロ没原稿その2です。パンの袋留めてる針金を指輪代わりにするのかわいくていいかもしれん、とか思って書いた。
    サンディエゴに行きたい!

    #譲テツ

    薬指に予約「徹郎さん、は……また家出?」
     妙に静かな家をぐるりと一巡して、起き抜けの和久井譲介は仕方ないなぁと肩をすくめた。最近ちょっと朝倉先生に似てきたよね、というこの間の通話での一也と宮坂の言葉を思い出しながら譲介は身支度をする。Tシャツに首を突っ込みつつ、棚の上の食パンの袋を手に取る。どうやら最後の一枚らしい。袋の口をとめていた針金をひとまずジーンズのポケットに突っ込み、食パンはトースターにセット。熱したフライパンに卵と落としてベーコンを添える。コーヒーを注いだマグカップを持って家の表に出た。
    夏を目前に控えた眩しい朝の光にきつく目を伏せ、瞬きを繰り返して譲介はガレージに向かう。一人暮らしには広すぎるけれどファミリー向けでもないこの家のサイズには似合わない大きなガレージには、これまた大きくて黒い車がデデンと鎮座していた。
    「なあハマー、お前、徹郎さんから何か聞いてないか?」
     同居人が明朝に淹れられたらしい冷えたコーヒーをすすりながら、譲介は付き合いも長くなった車にオーナーの行方を問うてみた。もちろんハマーはただの車だから、返事をすることはない。
    何やってんだか、と自嘲気味に笑った譲介が家に入ると丁度パンが焼きあがり、目玉焼きが出来上がっていた。
     何度かコールしても音沙汰ひとつないスマートフォンを傍に置きつつ、ひとまず朝食にする。飯くらい食って出かけろ、とはあのマンションの二十七階で暮らし始めた頃に強面の身元引受人に言われたことだった。以来、譲介はその言いつけを二十年近く律儀に守っていることになる。
    (……いや、律儀というより)
     同居人で想い人である真田徹郎がいなくなったというのに、矢も楯もたまらず家を飛び出すようなこともせずに優雅に朝食を取っているのも。
     親子ほど年の離れた真田徹郎に向けている、憧憬をこじらせた熱情を十年単位で抱え続けているのも。
    (どっちかというと馬鹿の一つ覚えか)
     けれど馬鹿でも何でも、和久井譲介はかつての養い親で師匠である真田徹郎への湿っぽい、執着と劣情込みの愛情を手放せないままでいる。
    そしてその愛情の結果がこれだ。
     譲介の座るダイニングテーブルの端には彼が今使っているのと色違いのマグカップ。彼の向かい置かれた椅子には同居人(譲介は時に彼を同棲相手と表現する)である真田徹郎愛用のクッションが置かれている。日当たりの良い窓辺のソファの上には彼の老眼鏡といつも論文を読むのに使っている最新のデバイス。壁にかかったカレンダーには年末までの二人の予定が書き込まれ、その下にはふたりのツーショット写真(クエイドの同僚たちが撮ってくれたものだ)が懐かしい村からの写真と一緒に並んでいる。
     和久井譲介と真田徹郎がどんな形で、どんな関係性で、どんな気持ちで、どんな理由を抱えていても、ここは正真正銘、双方が納得づくで暮らしている二人の家だった。
    なぜあの孤高の、闇医者の、偽悪的にふるまってみせることすらある、一度は離れていったドクターテツこと真田徹郎が同居の誘いを存外素直に受け入れたのか、提案者である譲介本人にもよく分かっていない。
    数年前にダメで元々、当たって砕けろの精神で二番目の師である当代Kこと神代一人から聞いていた徹郎の番号に電話をかけて「医師免許を取得しました」と報告したその口で、ロサンゼルスで一緒に暮らしてほしいと願い出た。長い沈黙に耐えきれなかったのは譲介の方で、そのまま上擦った声で、そういう提案に至った経緯を早口に並べ立てた。一緒に住んでいたあの頃から今日まで変わらずあなたが好きで、そういうつもりで誘っている。気づいていなくても読んでなくてもいいけどあなたの最期には傍にいる。大学で何人かと付き合ってみたけどあなたのことが忘れられなくて結局別れた。あの二十七階をあなたが勝手に引き払ったのはショックだったけどそのおかげで色んな場所で色んな人に出会って、今はきちんと自分自身やあなたに向き合えている。そのうえで、もう一度あなたといたいと思っている。
    そんなことを、息切れしながら口走った。
    その一部始終を黙って聞いた真田徹郎は何でもないことのように「ガレージか駐車場はあるのか?」と尋ねた。馬鹿みたいにデカい声で「はい!」と返事したものだから、周囲にいた人々がぎょっとして彼の方を見ていたのは忘れられない。
    「俺のことを性愛込みで好きでいるのは別にいいが、応えてやれる保証はねぇぞ」
     電話を切る間際に言われた言葉には、できるだけしっかりした声で「構いません」と返事した。
     そうして徹郎との同居生活が始まり、数年が経っていた。長らく彼を苦しめていたスキルス性胃がんがクエイドの研究を兼ねた治療により寛解し、杖なしであちこちを歩き、時折暴漢を相手に戦うようなこともある。
    三十一歳年上の想い人がそんな状態になった現在でも譲介が、例えば恋人じみたエスコートや気遣いといったアプローチを絶やすことは無い。それに対して徹郎はいたって平坦で、かといって邪険にもせず、元養い子のやりたいようにさせていた。
    「こりゃあどっちかというと介護だろ」
     時折そう言って茶化してみせて、そんなつもりはないですと譲介が笑ったり、少しすねてみたりする。そんな具合だ。
     けれど、そういうこととは別に、かつては特定の居場所を持たずハマーと身一つであちこちを行き来していた闇医者のドクターTETSU(クエイドに特別に椅子を用意された今、もうこの肩書は彼に相応しくはないのだけれど)は、時折譲介の知らない間に家を抜け出す悪癖、もとい習慣があった。
     今朝のこの状況もそれだ。
     ピーナッツバターを塗ったトーストの最後の一口を飲み込みながら譲介はスマートフォンのメールアイコンやコミュニケーションアプリをタップし、「徹郎さん」の欄を開く。
    (そりゃあ十代半ばの頃を知ってる、仮にも、おこがましいかもしれないけど、息子みたいだった子供に好かれてるってのも気まずいよな)
     まあそんなこと言っても止まれないのがひとの心というやつで、などとを思いながら、譲介は最近のやり取りを見返す。そのどこかに、同居相手であり師であり養父であり想い人でもある人の居場所のヒントがあるはずだ。
     今でこそ朝食を食べながらマグカップ片手に落ち着いて対応しているが、この家で暮らし始めて初めてドクターTETSUの家出癖が発露したときの譲介の混乱ぶりといったらなかった。
    半泣きになりながら近所を駆けずり回り、何度も徹郎の番号に電話をし、行きつけの店にあの人を見なかったかと聞いて回り、職場と朝倉にも電話をし、それでも芳しい情報が得られず、苦肉の策として日本にいる一也と宮坂に対面で通話をした。もちろん日本にいる彼らがドクターTETSUの居場所を知っているはずはなかったが、同期たちは焦りを滲ませながらも譲介を励ますようにして言った。
    「和久井君、落ち着いて思い出して。最近ドクターTETSUがどこかに行きたいとか言ってなかった? 具体的に言ってなくても、最近何が気になっているとか、何が見たいとか……それから、ここ数日の会話に何か関連性のあるものの話をしてなかった?」
    「譲介、ハマーには往診道具のスペアが置いてあるんだよな? ドクターTETSUがそのハマーを家に置いて行ったなら、帰ってくるつもりだと思う」
     実際彼らの指摘は正しく、譲介は、細い糸を手繰るようにハマーのハンドルを握って、街はずれのコーヒーショップに向かった。
    (あの時はホッとするやら怒りが沸くやらで大変だったけど、でも楽しかったな)
     ようやく見つけ出したドクターTETSUは、元養い子で同居人の顔を見ると目を細めて存外穏やかに笑い、せっかくだからあれを見ていくぞ、これが美味いから食っていくぞ、などと言ってそのまま譲介を連れ回した。
    懐かしい診療所の同期達がこの件について、いまだにK先生に対して黙っていてくれていることにも大いに感謝している。
    そして、失踪・発見・観光の一連の流れで構成されるこのイベントが片手では収まりきらない回数になってしまった最近では、譲介が同期達にあそこに行って来た、ここに行っていたと報告し、物見遊山がてらぶらついたその土地土地のことを彼らに聞かせてやることもあるくらいだ。
     譲介は三十路になった今でもクセでつけている、日記替わりになりつつあるノートも自室から持ってきて開いて家を抜け出した人のことを考える。
    (……でも、ドクターTETSUはこの家を出ていこうとはしないんだよな。そりゃあ、今から新しい住処を探すのが手間ってのはあるかもしれないけど)
     かつて己の痕跡一つ残さない「完璧な失踪」をして見せた男が、中地半端に荷物を残し、時には分かりやすく行先のヒントを置いて家を出る。
    そのあたりの、あの闇医者ドクターTETSUらしからぬ中途半端さが、もう彼との付き合いも長くなったはずの譲介にはよく分からなかった。
    けれど中途半端な関係と温度感で良いと言ったのは譲介だったし、想い人に嫌われておらず、自分の思いを否定されないのはやはり嬉しかった。だからもう、徹郎の側にどんな事情があろうとも構わなかったし、別に自分の慕情が報われなくても構わなかった。
    メッセージアプリの会話を見返し、ノートの内容と照らし合わせて譲介は首をひねった。
    (んん……なんかメキシコ近くの街の話をしてるな?)
     会話をさかのぼると、有名なアクション映画の話をしている。それを見て思い出した。
    (そうだ、この前の休みに徹郎さんとこの映画を見たんだよな。夜更かしして映画鑑賞とか、なんかそういうのがやりたくって)
     その映画の舞台となっているのが、今いるロサンゼルスに近く、メキシコとの国境付近の街だ。
    (とはいえ、確定にはまだ情報が足りないな)
     立ち上がって、ソファの隣に置いてある小物入れと兼用のマガジンラックをあさった。
    「えーっと……」
     かつては日本でヤクザや芸能人など、とにかく普通の病院に行くとトラブルが起きがちな稼業の者たちを相手にしていたのがドクターTETSUである。存外に顔も広く、彼がアメリカに移住したと知るや否や、どこからか居場所、つまりこの家の住所を特定したかつての患者や知り合いたちが引っ越し祝いと称して手紙や贈り物を送りつけてきた。筆まめな者や熱心な者は今でも近況報告を兼ねた手紙を添えてお歳暮やお中元のようなものを送ってきている。譲介としては、なんだかんだと面倒見の良いドクターTETSUにこういったファンが付いているのは面白くないのだが、どうしようもないと半ばあきらめの境地に達しつつあった。
    「お、あった」
     マガジンラックに突っ込まれていた絵葉書をひらひらさせる。ついこの間、お中元として届いたワインに添えられていたこの葉書は、差出人が観光に行ったらしいロサンゼルスからほど近いサンディエゴという街の植物園で買ったものだった。表には街の名前と施設名、園内で咲いている花の写真があしらわれている。ワインの入った木箱を開けた日の晩、ドクターTETSUはこの絵ハガキ片手に、元弟子に生薬や薬用植物について講義をしてくれた。
     そして、その最後に言ったのだ。
    「ここから車で行けば二時間程度で着くから、ハマーで行ってみるのもいいかもな」
     そう言われてにわかに浮足立ったのを、譲介はよく覚えている。そのあとに「久々にコイツにも会っておくか」などと差出人名を見ながら言ったので気分は急転直下するオマケ付きだったが。
    さすがに譲介も他人の手紙の中身を読むような無作法はしないが、チラリと見えた文面からは差出人が主治医を強く慕っているのが良く分かった。
    義理堅く、誇り高く、何者にもひるまず、いつもピンと背筋を伸ばしてあのギラギラと滾る瞳のドクターTETSUはその実、闇医者時代の患者のみならず、ほうぼうに人気があった。それも、性別に関係なくモテる。この間だって道端で助けてやった青年が妙にぎこちないしぐさと声色でドクターTETSUに礼がしたいと、電話番号を聞きだそうとしていた。
    「あの人、年取ってますます妙な色気が出てきたもんな。気持ちはまあ、分かるけど……」
     譲介だって、真田徹郎の色気にあてられることがある。無理に彼と恋人にならなくて良いというだけで、もしもそういう関係になれるのなら願ったり叶ったりで、だからこそそれなりに顔の見えないライバルたちの存在は譲介には面白くない。この状況で、当のドクターTETSU本人は色恋にほとんど興味を示さないのが幸と不幸のどちらであるのか。
    「老いらくの恋なんて笑えねぇだろ」
     などと言っていたこともあった。
     思い返せば、最初に一緒に住んでいた頃からドクターTETSUには愛人や恋人の陰などみじんもなかった。もちろんそれは思春期真っ盛りの養い子への配慮もあったのだろうけれど、金だけは持っていそうな患者たちが医者に女をあてがおうとすると、彼は必要以上に嫌そうな顔をしていた。
    「潔癖というか無欲なんだよなァ、そのあたり」
     つぶやきはため息交じりだった。
     二十七階のソファに腰かけて、先代Kとの思い出話をする今よりも若い頃のドクターTETSUの横顔を、譲介は今でも思い出せる。大人のくせに、わざと悪ぶって語るくせに、節々に滲む、子供の譲介よりもよほど分かりやすい無邪気さ。
    多分、結局のところ、あの闇医者は色恋よりも、先代Kとハリウッド映画まがいの騒ぎを起こして休む間もなく駆けずり回って研鑽を積むことの方がずっと楽しかったのだろう。
    譲介は眉間にしわができるほど強く目をつぶる。Kの一族の一也や当代Kである神代一人のことは結構、かなり、相当の親愛の情を抱いているが、先代Kへの感情は複雑だ。死んだ人には勝てないから、とはいつか見た映画のヒロインの言葉だ。 
    「いや、でもいま一緒に住んで最期まで傍にいるのは僕だからな」
     自分に言い聞かせながら、譲介は最低限の荷物を持つと玄関に放置されていたハマーのカギを取って、ガレージに入った。
    「ハマー、徹郎さんの迎えに行くぞ」
    車に乗り込み、ダッシュボードを開いて地図を取り出した。以前そこに入れていたあのたった一文の手紙は、今はドクターテツのメインの診療鞄の内ポケットに仕舞われている。譲介はそこを撫でて、エンジンをかけた。目的地はサンディエゴ、ロサンゼルスにほど近い観光地である。
    巨大な車は意気揚々と青空の下を走り出した。
    (……でも本当に、どうして徹郎さんは僕と一緒に暮らしてくれてるんだろう。こうやってたまに家出するくせに)
    車の窓を開けると涼しい風が入り込んで、譲介の髪を持ち上げ額を撫でて通り過ぎていく。
    (ま、家出と言ってもあの人、毎回結構楽しそうだけど)
    前回など、こちらが声をかけると「来たか」と慣れた様子でひらりと手を振って、あたりで評判のシーフードの店に譲介を引っ張っていった。けれどこのイベントを楽しんでしまっているのは譲介も同じで、彼からすればこれはデートのようなものだった。ドクターTETSUがあの長い前髪を風に遊ばせて、陽に照らされながら小高い丘から黙って海を眺めている、そんな穏やかな姿も眺められる。そうして二人でハマーに乗り込んで帰路につきながら、彼は毎回尋ねるのだ。
    「楽しかったか?」
     譲介の答えはいつも「はい」だ。途中でどんなトラブルに巻き込まれても心から、嘘偽りなく。
     そうすると、ドクターTETSUはは目を細め、口の端もわずかに持ち上げながら「そうか」と返事する。その深々とした声の響きが好きだった。
    (まるで僕が楽しんだことに満足しているみたいな、あの声)
     ふと、譲介は元養い親との昔の共同生活を思い出す。まだ彼が十代だった頃、身元引受人は時折思い出したように譲介をあちこちに連れて行った。大抵は闇医者の仕事の付き添いだったが、ざっくりとどこに行くのかだけを伝えて譲介をハマーの助手席に座らせていた。
    (でも、今は違う)
     あの頃はただ隣から眺めるだけだった運転席に座ってハンドルを握りながら、譲介は海沿いの道を走っていく。
    (あの頃、徹郎さんは僕に「楽しかったか?」なんて一言も聞かなかった。せいぜい疲れたかとか、腹は空いていないかとか、その程度だ)
     その違いが何を意味するのか、譲介はいまだに判じかねている。
     ……ただ。
    (ただ、あの人は家を抜け出すときには必ずハマーを置いて行く。僕が勝手に運転して迎えに行っても、嫌な顔ひとつしない)
     それどころか、ハマーと譲介を見つける真田徹郎は笑ってみせる。
     こだわりが強いはずのハマーのオーナーが。
     黙って家を抜け出して。
     そのくせわざとらしく玄関にカギを置いて行って。
     迎えに行くたびに愉快そうにして、そしてそのまま譲介を連れ回し、帰りには「楽しかったか?」と聞く。
    (……それって)
     アクセルを踏みながら首をひねる。道のわきにはサンディエゴとロサンゼルスの方向を示す青い白抜き看板が立っている。遠くでは海が陽の光を乱反射しながら白いレースのような波を立てていた。
    右胸の拍動を、全身で感じている。
    (それってもしかして、僕と一緒にいるが気まずいから家出してる、とかじゃなくて)
     ハンドルを握る手に力がこもる。
    (そうじゃなくて、徹郎さんは僕と、ただ)
     体温が上がる。
    (ただ、一緒に出かけて楽しい思いをしたかった、とか?)
     まさか!
     突如自分の中に浮かび上がってきた都合の良い解釈を、譲介は必死に否定する。
     否、「突如」ではない。
     ぬか喜びはすまいと、欲をかくなと、譲介がこれまで必死にその可能性を否定していただけのことだ。
    (でももし、もしも、徹郎さんがそういう気持ちでいてくれるのなら、そんなに嬉しいことは無い)
     譲介は深呼吸を繰り返して自分に言い聞かせる。
    (もしそうなら、それ以上に望むことなんてないだろう。もともと色恋には興味のない人なんだから)
     でも、もしかしたら。もしかするかもしれない。
     考えを振り切るように譲介がハンドルを切る。ハマーは既に目的地、サンディエゴの街を走っていた。
     植物園の駐車場にハマーを止めて、車を降りる。アスファルトに触れたとたん、スニーカーは走り出して見慣れた背中に向かっていく。
    「徹郎さん!」
     たまらず名前を呼ぶ。
    「徹郎さん、あの……」
     そしてなんと声をかけようか僅かに戸惑ってから譲介は衝動的に見慣れた白いコートを握って言った。
    「待ちましたよね。すみません、家でのんびりしすぎて」
     言葉の末尾はわずかに震えていた。デートに遅刻した人のような物言いをしてしまい、ばつが悪かった。けれどいつもの白いコートの同居人はそれらを咎めず、くるりと振り返るとくしゃりと笑った。
    「なんだよ、もう見つかっちまった」
     喜びにまぎれた僅かな驚きと戸惑い。穏やかな諦念と新鮮な面映ゆさ。そんなものが混ざり合った、ドクターTETSUらしからぬ顔だった。
     あるいはそれもまた、真田徹郎の顔だった。
     その顔を見たとたん譲介の右胸が強く脈打った。
    こころとからだの二つ、自分の存在全てに何かが染み渡るような、言葉では表しがたい感覚がある。その感覚は右胸で生まれた熱と互いに作用して、衝動という名の熱に生まれ変わる。その強烈なちからに操られて、譲介は真田徹郎の手を握った。
    「徹郎さん、僕と結婚してください」
     周囲に南国風の木の生い茂った、季節柄か曜日の関係か、無人の駐車場のど真ん中。譲介の口はプロポーズを繰り出した。三十一歳年上の世慣れた男はポカンとしていた。
    「ええっと、何か、指輪の代わりになるような……」 
     譲介がわたわたと手回り品を漁り、ポケットに手を突っ込む。そこに入っていたのはあの食パンの袋を止めていた針金だけだった。
     計画もへったくれもないプロポーズを受けた男がク、と悪ぶって笑い、元養い子をからかった。
    「ずいぶん急だなァ」
    「そう、かもしれません」
    「オレみてぇなくたばりぞこないに構いすぎるな……とはもう言わねぇが」
     徹郎が唸る。同居をしてすぐの頃に一度だけ、彼がそんな風に言ったことがある。そのとき譲介は彼の手を握ってその隣に座り、自分がどれだけ彼を慕っているか一晩中言い聞かせ、説き伏せた。日が昇るころには想い人が顔を真っ赤にしていたのを譲介は大事な思い出として記憶に刻み込んでいる。思えば、同居人の最初の中途半端な失踪はその数日後のことだった。
    「オレが老い先短いのは変わらねぇぞ」
    「主治医として、あなたには最低でもあと三十年は生きてもらうつもりです。それに、一緒にいられる時間の長さとその価値は別々に語るべきだ。そうでしょう」
     元養い子の確固たる口調で、自嘲気味に笑っていたドクターTETSUは目を伏せた。先代Kのことを考えているのが手に取るように譲介にはわかったが、言わなかった。先代Kとの経験を経た今のドクターTETSUを、譲介は得難く思っていた。それに、彼の過去にどんな人がいようと、「最後の男」は自分なのだ。
     沈黙があった。
    「毎回こんな面倒なことしてりゃ、どこかでおめぇが飽きるかと思ったんだがなぁ」 
     ドクターTETSUが目を細めてため息をついた。
    「どこがデート先でも飽きませんよ。あなたが誘ってくれて、一緒にいてくれるから」
     堂々とした譲介の物言いに、さしもの闇医者もやや鼻白んだようだった。
     また沈黙があった。今度は長い沈黙だった。
    「……結局、こうと決めたらおめぇは譲らねぇからな」
     元保護者が懐かしむ顔をする。
    不良グループを抜ける時に散々殴られ、それで反撃のひとつもせずに耐えきった男のことだ。あるいは、慣れない土地と母語以外の言語での学習というハンデを負いながらも最短で医師免許を取得した男のことだ。譲介が一度こうと決めて行動するときにはもう何を言っても無駄なのを一番よく知っているのはその実、真田徹郎だった。
    「……オレの負けだよ。まったく、老いらくの恋とは笑えねぇ。みっともねぇかと思って蓋をするつもりだったんだが」
     真田徹郎が自嘲気味に言った。
     文字通り一晩かけて口説き落とそうとする譲介の声と手の熱には湿っぽい愛情と執念を、暗闇の中でわずかに光放つ瞳の奥には確かな情欲を見つけ出した時から、真田徹郎の結論は出ていたのだ。
     アイツのことも笑えねぇなぁと同棲相手があの絵ハガキの差出人の名前を出したので、譲介は徹郎の手を強く握った。
    「もしあの人に会いに行くなら絶対僕を連れて行ってください」
     頑是の無い子供のような仕草に徹郎が意地悪く笑う。
    「婚約指輪でもつけてりゃ牽制になるだろ」
     は、と譲介のくちびるが間の抜けた声を漏らした。
    「くれるんだろ? 指輪」
     徹郎の節くれた指が、譲介がさっきからずっと握りっぱなしにしている金色の針金をつまんだ。
    「……じゃ、今はひとまずこれで。植物園は今度にして、今から指輪買いに行きましょう」
     長く器用な人を救い出す名医の指に、譲介は何の変哲もない、ゴミ箱行きになるはずだった針金をひどく丁寧に巻き付けた。それを陽にかざして、徹郎が笑う。
    「こりゃあ一生もんだな」
     譲介は右胸で生まれた熱に浮かされて、伴侶の手を握って口づけした。          

     (終)
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    SakuraK_0414

    DOODLE365日いつでもバニーを書いてよろしい、と神は仰せになった。なってない。でも今年はウサギ年だし9月はお月見だしそうじゃなくてもバニーを書いて良い。ということで、以前書いたバニーの譲テツ也宮添えの続きです。バニー衣装着るのが恥ずかしくてへにゃへにゃになってる自分の魅力に無自覚な闇医者。
    ちなみにバニースーツ餅つき、というのも二次イラスト的には可愛らしさと色気とポップさがあって良いなと思う。
    You're Bunny.「いや……これは、キツいだろ」
     さすがに、とドクターTETSUこと真田徹郎は独り言ちてそこらへんに置いていたカーディガンを羽織った。誰も見てないとはいえ、さすがにいたたまれない。特注品のバカみたいに大きな衣装一式が自分の体にぴったり沿うように作られているのもいたたまれない。衣装一式の入っていた箱に同封されたパンフレットの中で凄艶に笑うバニースーツを纏った美青年の姿が目に入って、もっといたたまれなくなる。
    (今より30若ければ、とは思いはしねぇが……)
     海千山千、天下の闇医者ドクターテツは危ない橋を渡りもしたし、死にかけたこともある。人生における大概の苦難と規格外の苦難を大方乗り越え、もう並大抵のことでは動じることも無い。
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    SakuraK_0414

    DOODLE譲→テツで、譲介くんがクエイドに行くぞ!となる話。細かいところはもう色々捏造してます。時間とか季節のこととかめちゃくちゃです。朝倉先生が診療所に来た頃のイメージで、遅れてきた七夕ネタでもあります。
    コンビニ店内でかかってる曲はモー娘。22の「Chu Chu Chu 僕らの未来」、譲介君がこの歌詞僕のことだ…ってなってるのはモー娘。19の「青春Night」です。参考しながら読むと楽しいかもしれない
    青春Nightに僕らの未来「……モー娘の新曲だな」
     コンビニの店内、隣に立つ譲介が、あの和久井譲介が呟いたので黒須一也はぎょっとして彼を見つめた。店内には確かに女子グループアイドルの楽曲が流れているが、こんな難しそうな曲、しかもワンフレーズを聞いただけでそれが分かったのか、と一也はますます目を見開く。
    「……なんだよ」
     じろりと譲介が睨んだ。あのハマー乗りの闇医者そっくりの長い前髪の合間から覗く左目の迫力に気圧されて一也は黙り込む。
    「お前だってモー娘。くらい知ってるだろ、僕らは世代だし、どこ行ったって流れてたし、ラブマシーンとか」
    「あ、いや、その、譲介はアイドルとか興味ない、というか好きじゃないと思ってたから」
    「別に興味はないし好きでもないぞ」
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    SakuraK_0414

    DONE譲テツのなんかポエミーな話です。
    譲テツと芸術と27階時代からアメリカ寛解同居ラブラブ時空の話になりました。
    最初のジャズは You’d Be Nice to Come Home Toです。裸婦画はルネサンス期の任意の裸婦画、文学は遠藤周作「海と毒薬」のイメージです。引き取ったなりの責任として旅行とか連れて行ってたテツセンセの話です。
    ムーサ、あるいは裸のマハ。副題:神の不在と実在について。ムーサ:音楽、韻律の女神。ブルーノート東京にて。

     いつだったかの夏。
     学校から帰ってくるなり来週の診察は譲介、お前も付いて来い、と言われた。家を出るのは夕方からだと聞かされてちょっと安心したものの熱帯夜の続く8月の上旬のこと、内心うんざりしたが拒否権は無かった。この間の期末テストで学年1位だったご褒美だ、と言われたからだ。
     成績トップのご褒美が患者の診察についていく権利って何だよ、と思いはしたがこのドクターTETSUという様々な武勇伝を引っ提げた色々とんでもない身元引受人が医学を教えるという約束を反故にしないでいてくれたのが嬉しかったのもある。
     当日の夕方の移動中ドクターTETSUは僕に患者の状態などを説明してくれたが、内心落ち着かず、どこに連れていかれるのか気になって話はあまり聞けていなかった。これを着ていけ、と上から下まで真新しい服一式を渡されたからだ。サックスブルーと白のボーダーシャツにネイビーの麻のサマージャケットをメインに、靴は通学に使うのとは違うウィングチップの革靴まで差し出されたのだ。普段は政界・財界に影響力を持つ患者の対応をいつもの制服で対応させるこの人がこんな服を持ってくるなんてよっぽどの患者なのか、と身構えてしまった。多分それは横にいる大人にはバレていたのだけれど、彼は指摘して叱るようなことはしなかった。
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