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その日は朝から嫌な予感がしていた。
いつもは屋敷にいるはずのクレオがマリーに呼ばれ外出し、ならば家事手伝いでもと汚れ物を探せば今日に限って洗濯はセイラが全て済ませてしまっていた。料理の腕はからっきしである自覚があるだけに台所だけは立つ気が起きず、かといって外出するには本日は祭日で、人通りが多い場へ向かうのも気が引けた。
結果的に屋敷に留まらざるを得なかった暇を持て余していたティアにとって、玄関のベルが鳴らされた瞬間の喜びとは裏腹に、半ば本能に近い部分で嫌な感覚が湧いて出た。
後輩の、普段と変わらぬ元気な姿に絆されて、いつものように家の中へと招き入れた。これくらいならできると紅茶を淹れて差し出して。共に話をしながら渋い茶を飲み。それから──
「マクドールさんのことが好きです」
瞬間、部屋に耳を劈く音が響き渡る。中身を飲み干していて良かった、などと悠長なことを考える間もなく、ティアは床の上で無残な姿になってしまったカップに移していた視線を上げた。
同盟軍軍主であり後輩でもあるリアンは真一文字に口を閉ざし、真っ直ぐにこちらを見詰めている。その顔には微塵の迷いも感じられない。
まさかリアンが。いやそんなはずはないだろう。内なる自問が続く。
「…………ええと?」
「マクドールさんは尊敬してるし憧れてもいます。でも、それだけじゃない」
「……それは」
「マクドールさん。僕の言った好きの意味、分かってますよね?」
予想外の事態に狼狽してしまったが、どうにか言葉を掻き集めて絞り出した。
「リアン。僕は──」
「言わなくても分かります。僕のことをどう思っているかは関係なく、マクドールさんは応えられない」
リアンが被せるように言葉を続ける。
「……なら何故、こんなことを?」
「だからこそ、です」
ただひたすら真摯でひたむきな視線に、体の内で発生した熱が身を焦がしていくような心地がした。
「僕だって戸惑いました。なんでマクドールさんをって、何度も思って。悩んで悩んで悩み続けて……でも、諦められなかった」
気が付くと、リアンは笑っていた。
それは太陽のように晴れやかで眩しい笑顔だった。ずっと見詰められると焼かれてしまいそうなくらいに。
──リアンは、僕のことが好きだという。
打って変わって、ティアの心は陰る。好かれれば好かれるほど、内面が冷えついていく。
「ねえ、マクドールさん。僕のこと、どう思ってますか?」
「その問いも、君の恋も、不毛なことには変わりない。その感情は捨て去ることを勧めるよ」
「……僕のこと、嫌ですか?」
「嫌とか嫌じゃないとか、そういうことではなくて」
「じゃあどうして、そんなこと言うんですか?」
ティアは目を伏せる。その脳裏には一人の少年の姿が浮かんでいた。共に過ごしてきたをした親友の後背が過る。ティアが宿したソウルイーターの、かつての継承者。
敵に操られた状態でティアの前に現れ、お前と戦いたくないからと自らの命をティアに宿した紋章に食わせた。意思とは裏腹に目の前で親友を食らい尽くしていく様が脳裏に焼き付いて、今でも忘れることができない。望まぬこととはいえ、己がテッドの命を奪ってしまったという事実は変わらない。
「僕には誰かを好きになる権利も、誰かに好かれる権利もない」
テッドはいつも傍にいてくれた。共に笑い、共に怒られたあの日々は、かけがえのないものだった。二度と手に入らないからこそ、今はより煌めいている。
しかし、幸福な思い出を覆うように、テッドの命を奪ってしまった罪悪感が拭えない。
多くの者を助けたのだと人々は口にするが、それと同時に多くの者を不幸にしてしまった事実を知っている。
そんな己に、幸せになる権利などあるはずがない。
脳裏に浮かぶのは親友の姿だけではない。他にも想ってくれていたであろうグレミオや父親、かつての解放軍リーダーであるオデッサ、戦時中支えてくれたマッシュ。全て、この身に宿る紋章が喰らってしまった。何者にも代え難い人達だったのに。
大切な者の命を好物とする紋章を宿す限り、これ以上人を好きになれるはずがなかった。好きになった瞬間、それは人から甘露へと変貌する。
「マクドールさん」
不意にリアンの手がティアの頬に触れた。顔を上げると、リアンがこちらの瞳を覗き込んでいる。
「たとえあなたが権利がないと思っていても、僕にはある。僕は、あなたが好きです。嘘でも気の迷いでもない。受け入れてもらおうとは思ってません。でも、分かってもらうまで言い続けます。あなたが好きだから。マクドールさん、大好きです!」
リアンは勢いのまま言い切ると、照れ臭そうに微笑んだ。相変わらず、太陽のように眩い笑顔だった。
ただ、先程とは違い、リアンに見詰められていても焼け付くような痛みはなくなっていた。ぽかぽかと内から温かくなってくる。その笑顔を見ているだけで自然とこちらも表情が崩れてしまうほどの、清々しささえ感じられるもので。
──この笑顔を曇らせたくない。
ティアは思う。同時に、テッドの笑顔が過った。
──テッドも、こんな気持ちだったのかな。
ティアは自嘲気味に笑う。テッドを笑わせてやりたいとばかり思っていたが、テッドもまた、己と同じようなことを考えていたのかもしれない。
「リアン」
ティアはそっとリアンの手を取る。そして、それを自らの右手に導いた。
「僕が誰かを好きになるなんて、もう二度とない」
「マクドールさん……」
「でも……君が僕を変えるかもしれないね」
瞬間、リアンは目を見開いたが、すぐに表情を引き締める。
「変えてみせます」
リアンはそう言い切ると、触れていた手をぎゅっと握り締めてきた。
──ああ、そうか。
ティアは思う。いつの間にか、誰かを好きになりたいと思い始めていたのだと。それがテッドが背中を押してくれたおかげなのか、リアンの告白に押し負けたのかは分からない。少なくとも今までのように諦念を抱いたままでいたくはないと思ったのは確かだった。
己が変わる時、それが今すぐに訪れないことは分かっている。それでも、そうなるといいと願い始めているなんて。
「あの……マクドールさん、今日って空いてますか?」
「空いてるよ」
「なら、一緒に出かけましょう!」
「分かった。仲間探し? 近辺の魔物の掃討? 住民の依頼? まあ、何でも付き合うけれど」
「違います! いつもみたいに戦ってほしいんじゃなくて……その、本拠地近くの村でお祭りをやるらしくて。今日はマクドールさんと一緒に行きたくて誘いに来たんです。好きって言っちゃったのは、その、勢いで………あの、駄目ですか?」
リアンの提案に、ティアは今度こそ笑いを堪えきれなかった。その用事自体が恋人同士の逢瀬のようだと感じてしまったからだった。
あんなに真面目な顔をして、勢いで放った言葉だったとは。しかも勢いのままに口にした言葉に、胸を打つなんて。
「いいよ」
ティアがそう答えると、先程までの威勢の良さはどこへやら、リアンはみるみるうちに顔を赤らめてテーブルに突っ伏してしまった。
いつか。
この笑顔が曇る時が来るのだろうか。
それとも、互いが幸せになる日がやって来るのだろうか。
ティアには分からない。分かるはずもない。未来がどうなるかなど、誰にも分からない。
「マクドールさん、行きましょう!」
そう言って差し出された手を、握り返す。
いつか訪れるであろう未来を憂い、しかし楽しみに待ちながら。