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先に、石畳を踏み込んだのはティアだった。
棒術において機敏な動きは利点である。成長を止めてしまった体は腕力はそこそこに大人にはない靭やかさを維持しており、ティアのトリッキーな戦い方に活かされている。敵はおろか味方まで翻弄するような動きは独りで戦い慣れた証でもあった。
逆を言えば、敵を前に背を向けるなど、継承戦争が終わってからというもの実行していなかった。天牙棍を握る手に力が入る。
このまま城内を走り抜けるのは得策ではない。デュナン城を案内はされたものの、宿星として滞在しているわけではないティアは、城の構造を隅々まで理解していない。闇雲に駆け回り袋小路に辿り着いてしまえば、為す術が無くなってしまう。
ティアは躊躇いなく開け放たれていた窓の縁に足を掛け、空へと駆出した。棍で背後の壁を勢い良く突き、飛翔の距離を伸ばす。そのまま向かいの建物の屋根に体を転がして受け身を取り、また駆けていた。
何があっても足を止めてはいけない。
柄にもなく息が乱れている。相変わらず体は軽いままだというのに。
遠くで誰かの声が聞こえたが、ティアには振り返るほどの余裕がなかった。そのまま屋根から身を翻し、城壁へと飛び移る。駆ける足をそのままに、視界に写った城に沿って生えている巨木を目指す。眼下では、複数の人物が己を指差し追いかけているようだった。
軍主は当人が思っている以上に宿星から慕われている。理由が定かではなくても、今頃情報はいとも簡単に伝達され、城の入口は固く閉ざされているだろう。
城壁と木は僅かに距離がある。この手が届くかは五分五分だった。しかしこうでもしなければ、ここを抜け出せる気がしなかった。
早く、去らなければ──
踏み込んだ矢先に、ティアの頬のわずか横を何かが通り過ぎた。地面である城壁に無残なひびを入れ、辺りに欠片が飛び散る。顔を覆い庇った両腕の隙間から、その場に突き刺さっていた見覚えのある旋棍が見えた。
この馬鹿力、と恨み節を呟く前に、ティアの肩に手が伸びた。
「捕まえましたよ」
勢いをそのままに地面へと叩きつけられる。背中に受けた衝撃でティアの胸から無理やり息が吐き出された。続けざまにあっただろう頭部への損傷は、後頭部に掌を入れられることで阻止される。不意に手から離れてしまった天牙棍は、襲い掛かってきた相手の足で後方へと蹴り飛ばされた。
「マクドールさん?」
押し倒してきた張本人──リアンは殊更悪ぶろうともせずティアの体を跨いだまま見下ろしていた。その瞳にははっきりと歓喜の色が見える。
「なんで逃げたんですか?」
「逃げてなんか──」
いない、と紡ぐはずの言葉が途切れる。愉悦の滲むリアンのねぶるような視線に、ティアは息を飲んだ。
心臓の音が煩い。息は相変わらず乱れたままだ。こんな姿、見たことがない。
「ねえ、マクドールさん。僕は──」
「止めろ。その先は、聞きたくない」
「どうして?」
「さっきも言った通り、君は城主で、僕は死神。それ以上でもそれ以下でもない」
「なに大人ぶってるんですか?」
「大人ぶってるだなんて、そんな」
「正直になってください」
リアンの言葉はいつだってひたむきさに溢れたものだった。とっくの昔に擦り切れて無くなってしまったものが、綺麗な形をして残っている。そう思わせる響きを持っていた。
だからこそ、ティアは逃げねばならなかった。リアンが言葉を紡ぐ前に、姿を消さねばならなかった。
ぐわんぐわんと警鐘が頭の中に鳴り響く。酷く、喉が渇いていた。
この先に続く言葉を、聞いてはいけない。
その感情を、形にしてはいけない。
「あなたが、好きなんです……ずっと、ずっと前から」
馬乗りになっていたリアンがティアの頬を包み込む。
「あなたも、でしょう?」
否定しようと開いた唇が呆気なく塞がれる。ティアの視界が滲んでいく。
──死神は、とうの昔にリアンの首筋に刃を当てていた。