100日後にくっつくいちじろ56日目
「お、兄貴。おかえり」
今日は今年一番の冷え込みだった。
最近ではすっかり、ダウンコートを着ている人が多い。一郎もお気に入りの真っ赤なダウンコートを着て出掛けたが、顔はどうしても防寒できず、その高い鼻の頭を赤くしながら帰宅した。暖かいリビングに入ると、テーブルの上は既にホカホカの夕食が並んでいる。今日は鍋らしい。二郎がカセットコンロの上で鍋を火にかけながら、兄へ顔を向けた。
「ただいま。うわー、美味そう。すげえ腹減った」
「三郎いねえし、簡単に鍋にしちゃった。具材は余りもんとか特売の野菜とか適当だけど」
「悪いな、夕食当番」
とりあえずコートを脱ぎ、洗面所で手を洗って一郎も水をグラスに注いだり、米を茶碗によそったりして漸く二人は食卓へ着席。手を合わせて「いただきます」と箸を手にした。
「この肉団子、作ったのか?」
「いや、なんか既に出来たパックが安かったからそれそのまま入れただけ」
「鶏肉も入っててうめえ~」
「それ冷凍してたやつ使っちゃった」
山田家の冬の食卓は鍋が頻出する。特に平日は、とにかく具材を突っ込み、美味いスープで煮るだけで腹に溜まって温まるので最高なのだ。
「さぶちゃん、うまくやってっかな」
「鍋の写真送ってやるか」
おもむろに末っ子に思いを馳せる一郎に、二郎はスマホを起動させ、写真を撮るとスムーズな動作で家族のグループチャットへ写真を送信した。
「うわ、速攻で既読ついた」
「まじか」
数秒して『こっちは大学内の学食でオムライスを食べた』と返信が届く。
「大学の学食だって。すげえ」
「おー、なんか憧れるよな」
「食う機会ないしね」
スマホは常に傍にあるようだが、どうやら上手くやっているらしい。兄二人はどこかホッとしながら食事を続けた。
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それから鍋を残さず平らげて、二郎が洗い物をしている間に一郎が風呂を済ませ、気付けば20時。風呂から上がり、髪をタオルで拭きながらホカホカ状態の一郎がリビングへ戻ってきた。
「風呂あいたぞー」
「おっけー、入ってくるわ。あ、アイス入ってるよ」
「サンキュー」
夕飯の買い出しのときに買ってきた徳用パックのアイスがある。自分も上がったら食べようと二郎はエプロンを脱いで風呂へ向かった。
「ふうー」
冬の間は、暖房のついていない脱衣所だと寒いので、リビングでドライヤーをかけている。コンセントに繋げてスイッチを入れ、髪を乾かしながら細く息を吐いた。
“一兄、ちゃんと二郎と話して”
朝の玄関で、三郎が家を出る直前に言った言葉が一郎の脳裏にあった。
二郎は既に朝練で家を出ていて、二人きり。兄は目を二回、瞬かせたが三郎は至極落ち着いた表情を見せていた。そのときの会話を思い出す。
「僕は別に後押しとかをするつもりないけど、でもあの馬鹿(二郎)には、はっきり言わないと伝わらないままで、一兄が苦しいだけだと思います」
「え……と」
「僕は、一兄がモヤモヤ苦しそうなのが辛いので、スッキリしたらいいんですよ」
じゃあ行ってきます。そう言って三郎は固まる兄を残して学校へ向かって行った。
そんな今朝のやり取りを思い出しながら一郎は髪を乾かし続けた。
「ういーっ、あちい、あちい」
気付けば結構経っていたらしい。髪もすっかり乾いていて、慌ててドライヤーを止めて振り向くと風呂上がりの二郎が髪を拭きながら冷凍庫を漁っていた。
「兄貴、アイス食った?」
「いや、これから」
「バニラとチョコどっちにする?」
「チョコ」
「じゃあ俺バニラー」
「つかお前、先に髪乾かせよ。風邪ひくぞ」
「ええー、じゃあ兄貴乾かしてよ」
そう言うと二郎はアイスを2つ手に持って、一郎が座っているソファーの前で背中を向けて腰をおろした。このまま乾かしてくれ、と言うのか。
「甘ったれんな」
「ちえ」
ほい、とアイスを渡されて、とりあえず二人でその態勢のまま噛り付く。
一郎の視点だと、自分の座っている真下、近い距離に二郎がいて、つむじが見える。部屋着のスウェットを着ているが、襟が伸びていて、濡れたうなじが丸見えだ。
「ああ、もう。仕方ねえ」
「え!やった!ラッキー」
このままじゃまた風邪でも引きそうだし、何より濡れて首筋に張り付く髪を凝視し続けてしまう。煩悩を払拭するように一郎は、口に棒アイスを咥えると、ドライヤーのスイッチを入れて二郎の髪をかき回しはじめた。
「あー、極楽」
「兄貴になにさせてんだ、生意気な弟だな」
「へへ」
まあるい頭を満遍なく指先でかき混ぜて、温風を当てていく。時たまアイスの棒を掴んで齧って、また咥えて髪を撫でる。あー、三郎に言われたこともあって変に意識してしまう。いつも同じ家に住んでいるし、三郎が自室にいて、二郎と二人きりでリビングで過ごしたり、むしろ自分の部屋でアニメを見たりすることだってこれまで何度も、数え切れないくらいあるのに。完全に振り回されている自覚があった。
「おっし、これでいいだろ」
「ありがとー」
アイスを食べ終え、ドライヤーも終えた。テレビを点けたらちょうど簓が出ているバラエティー番組で「あ、白膠木簓」と二郎が反応を見せながらソファーをよじ登り、一郎の隣に腰を落ち着けた。番組は恋愛トークで盛り上がっているらしく「簓は全く熱愛関連の話題を聞かないが実際どうなんだ」と詰め寄られていた。すると、それをぼんやり眺めていた二郎が、どこか少し低いテンションで、テレビに視線を向けたまま尋ねた。
「そういえばさあ」
「ん?」
「前に会った女の人」
「……?」
「ほら、ひったくりから助けてあげて連絡取り合ってるって言ってた人いたじゃん」
一郎は本気で今の今まで忘れていた。酷い話ではあるが二郎に言われて「そういえば」と思い出して漸く頷く。
「ああ、あの人がどうした?」
「えと……」
「?」
急に二郎がどもる。どうした、と顔を見ると、どこか気まずそうな表情で口を開閉させてから漸く話を続ける。
「あれから、どんな感じなのかなって」
「どんなって……」
「兄貴が連絡先教えたり、メシの約束するのって珍しいからさ。その、付き合ったりしたのかなって……思って」
最後のほうは尻すぼみ気味だった。元からこういうテの話題が苦手な二郎であるが、それにしてもどこか「あまり聞きたくないけど聞いてます」という苦虫を嚙み潰したような表情を浮かべている。一郎は慌てて否定をした。
「いや、付き合ってねえよ。結局メシ行ってねえし、今は連絡取り合ってもない」
「え、そうなんの?どうして?」
「どうしてって、そりゃ……」
お前が好きだから。その言葉が喉仏のあたりまで出かかって、引っ込んだ。三郎にはもう言ってしまえと言われたが、そう簡単にもいかないのだ。二郎は「そりゃ」の続きを待ったが、なかなか続けない兄に首を傾げる。
「そりゃあ、なに?」
「あー……まあ、色々あってな」
「なにそれ……なんか隠すとかいやらしいな」
不健全だ、と眉間に皺を寄せ、唇を「へ」の字に曲げた二郎。そんな顔をされると期待するだろうが、と一郎は思ったが、面白くなさそうな反応が素直に嬉しくて、でもチャラついて遊んでいると思われるのも困るので慌てて訂正を入れる。
「別に俺は彼女に対してそういう気がなかったから。あんまり接点持つのもアレだろ?」
「……そんな気なかったの?なんかデレデレしてた気ィするけど」
「はあ?してねえよ」
「そうかなー、綺麗な人だったし、兄貴も鼻の下伸ばしてた気がするけど」
「おーまーえーなあ」
「ウワッ!」
適当言うな、と脇腹を擽れば身をくねらせて声を上げる二郎。そして反射もあるが嬉しそうに笑って「ごめん!嘘!盛った!」と降参した。
一郎は内心で、三郎に謝った。
悪い、三郎。やっぱそう簡単に自分の気持ちひとつでこんなこと言えねえよ。二郎はきっと本当に、まあ当然ながら自分のことを兄としてしか見ていないだろう。にも関わらず、急に実兄から愛の告白をされてみろ。恐怖だろう。今まで、いつからそんな目で見ていたのかと憎悪や嫌悪すら覚えるだろうし、それが当然だ。それにキッパリと断られて自分はすっきりと気持ちの整理がつくかもしれないが、二郎からしてみれば自分を邪な目で見ている兄と今後もずっとひとつ屋根の下で生活を余儀なくされるのだ。こんな可哀想なことはないだろう。そりゃあ何もかも告白してしまって、すっきりしたいし、あわよくば意識もしてほしい。しかし普通の恋愛じゃないのだ。自分だけの気持ちで動くことはやはり俺には出来ない。
無邪気に笑う二郎を見て、一郎はそう思った。そしてそれでいいとも思った。
「さーて、俺はちょっと今日やっつけちまいたいPC作業やっちまうわ」
「ええーっ?何か手伝おうか?」
「いや、経費の入力だけだから大丈夫だ。ありがとな」
二郎の頭を撫でて立ち上がると一郎は事務所へノートPCを取りにリビングを出た。
暖房のきいた暖かいリビングを出て寒い廊下を進み、暗い事務所でPCを回収してリビングへと戻る。ああ寒い。温かいココアでも入れるか。そう思いながらリビングへと戻った。テレビからは簓が有名店のチーズケーキを食べて食レポしている声が賑やかにしこえている。一郎は、二郎の少し丸まった背中に声をかける。
「なあ二郎、ココア飲むか?」
「……」
「二郎?」
「……兄貴」
キッチンから声をかけたが、何故か二郎の反応が鈍い。
どうした?と顔を覗き込もうとすると、二郎はゆっくりと振り向いた。
「二郎……?」
一郎を見上げた二郎は、まるで何かに驚いているように表情を強張らせ、兄と視線を合わせた。マジでどうしたんだ。一郎がそう尋ねようとしたとき。二郎の手に、一郎のスマホが握られているのが見えた。そして二郎は震える手でそれを持ち上げると、一郎本人へ画面を見せた。
「これ、どういう意味……?」
画面に表示された三郎からのメッセージのポップアップ。
短い文章が、待機画面に出ている。その文章を目の当たりにして、一郎は頭のてっぺんから足のつま先まで、血の気が一気に引くのを感じた。
『一兄、ちゃんと二郎に好きだと伝えてくださいね』
2024.12.18