ホラー 台葬 ウルフウッドが入学したのは都心部に近い大学だった。同学年の新入生は一万人を超え、学部数は十三にものぼる。大学院まで含めると、その在学生数は五万五千人と日本屈指の在学者を誇る。
そんな途方もない生徒の中でウルフウッドはヴァッシュと出会った。出会ったと言うより、一方的に見つけたと言うのが正しい。
眉目秀麗、容姿端麗。
その容姿を褒め讃えるには、言葉が足りないが、とにかくヴァッシュは美しかった。人目を惹く容姿で、彼の周りには人が絶えない。
男女、同級生先輩問わず、彼に夢中になる。ウルフウッドの数少ない友人の間でも「モデルみたいな奴がいるらしい」と噂が流れてくるほどだ。
これだけ人の多い大学だ。中には、そりゃイケメンぐらい居るだろうと、その言葉を信用していなかったウルフウッドだったが、姿を一目見てその考えを即座に撤回した。
今まで出会った、誰よりもヴァッシュはウルフウッドを夢中にさせた。
外見が良いだけの人間ならきっと他にも居るだろう。
でも、彼はそうじゃなかった。端的に言うと、ヴァッシュはウルフウッドの“好み”ど真ん中だった。
これまで特に好きなタイプはなく、好きになった人が好みなのだろうと思っていた。
ところがどうだ。
太陽に当たると透けるほど輝く金髪、真っ白な肌には一点の曇りもない。やや太く意志の強うそうな眉、それにたいし驚くほど柔らかでとろけそうに甘い瞳。
鼻筋がすらりと通り引き締まった小鼻に、薄い唇は笑うと花が咲いたようだった。並びの良い歯は白く輝いている。
それら全てが卵形の美しい輪郭の中に、完璧な位置におさまっている。それは計算し尽くされた、黄金比に基づいた絵画の様でもあった。
身長、体型、服装。あげつらえれば、きりが無いほど全てがウルフウッドの心を掴んで話さない。
「好みのタイプは?」
そう尋ねられたらウルフウッドは迷わずに「ヴァッシュ」と、間髪入れずに答えるだろう。
そう思わせるほどに、ヴァッシュはウルフウッドの心臓を射貫いて離さない。
そこまでドタイプの人間が、同じ大学の同じ学部にいるのだ。大学生活は一気に華やかになる。
会話などできずとも、同じ空間に居られれば、姿を観察できる。気味悪がられないように、教室の後ろの方から、背中をこっそりと見つめる日々が始まった。
ヴァッシュは目立つ。ウルフウッドには輝いて見えるのはもちろんだが、いつも人だかりの中心に彼がいたからだ。探す必要さえ無かった。
大学の大講義室はすり鉢状になっており、最も低い中心部に教卓がある。そこから放射線状に、固定式の机と椅子が広がっていた。
ヴァッシュは、その華やかな見た目とは裏腹に至極真面目な生徒だった。授業を欠席したり、取り巻きに代返を頼んでいるのをウルフウッドは見たことがない。
同じ学科の一年生となると、専門課程に分かれる前で授業もほとんど同じだ。ウルフウッドが授業を受ける時は、決まって人だかりの斜め後方の席を確保した。そこなら、ヴァッシュに気づかれることなくその姿をじっくりと眺められるからだ。
授業中は、壁の様な取り巻き達も着席しているのでヴァッシュの顔がよく見えた。
特に顔が見える席が確保できた時や屋外で彼を見つけた時には、こっそりとスマホカメラのズーム機能を使って横顔を堪能する。
誰にも言えない、背徳的な秘密の愉しみを続けていた。
一般教養のこの授業は、教授が緩く単位が取りやすいことで人気がある。
「はい、それでは今日から二ヶ月間、ふたり一組でチームを組み課題に取り組んでください。最終的にレポートを提出して、レジュメを作成、発表までしてもらうからね。ゆくゆく、卒論を書く練習だと思ってしっかり取り組むように。じゃ、相手見つけて組んで~」
噂通りの穏やかな調子で言うと、授業時間をたっぷり残して教授は速くも退出していった。
まさか、大学生にもなってふたり一組を作れと言われると思わず、教室内に大きな動揺が広がる。
「うわ、……こう言うの苦手」
教室の後方で、他者と距離を置きひとり座る生徒達が慌てたように周囲を見渡す。入学早々、賑やかな輪に入りそびれた者たちだ。
「えっと、あの……一緒に?」
「とりあえず、組み……ます?」
相手を掴み損ねるとまずいと、ひとまず手近な者たちでペアを作り始める。ウルフウッドも当然そちら側なので、人ごとではない。
教室後方の静かな動揺と対照的なのは前方、ヴァッシュを中心とした華やかで明るい集団だった。誰がヴァッシュと組むのか。男女問わずにその隣を笑顔で奪い合い、牽制し合う。
誰でも選び放題のヴァッシュなのに、特定の誰かと付き合っている噂は聞こえてこない。
だからこそ、ここでヴァッシュに選ばれる事は、この集団から一歩抜け出す事になる。
ヴァッシュが誰の手を取るのか。クラス中が息を呑んで、彼が誰を誘うのか見守っていた。
そんな中、渦中のど真ん中に居るヴァッシュが突然動く。
「ちょっとどいて、ごめんね」
その何層にも積み重なった、人の輪をヴァッシュはざくざくと割って通路に出る。遠巻きに見ている生徒達も、彼の一挙一動に興味津々だ。後方に陣取るウルフウッドには教室の様子がよく見えた。
テキストに顔を埋めるふりをして、ウルフウッドもヴァッシュの行く末を見守る。教室の注目を一身に受ける男は全く気にとめない様子で、すり鉢状の教室の後方まで一気に駆け上る。
タタタと軽快な足音が近づいてくるのが聞こえて、ウルフウッドは、息を呑む。こんなに彼に近づいたことがあっただろうか。
気配を間近に感じながら、彼はどこへ手を伸ばしたのだろうと、そっと教科書から顔を上げる。
信じられないことに、目の前に、ずっと遠くから見つめ続けたヴァッシュの顔があった。
驚きのあまり、ウルフウッドは椅子から転げ落ち尻もちをつく。
「ッッッ!」
「あ、ごめん。驚かせるつもり無くて。……えっと、ねぇ、ウルフウッド。君もう誰かと組んだ? 相手決まってないなら、僕と一緒に組もうよ」
「はぁ……え、なんで」
どうして自分なんかと、と言う思いが溢れて言葉が続かない。赤面しつつ急いで立ち上がって、尻についた埃を払う。
それに、ヴァッシュの取り巻き達がどんな顔をして自分を見ているのかと思うと、ウルフウッドは怖かった。
喜びを通り越して、動揺しているウルフウッドの気持ちを察してか、ヴァッシュはこっそりと耳打ちをする。
「あの中から誰かを選ぶと、……ほら、揉めそうだし。ね、人助けだと思って」
ふわりとウルフウッドの鼻腔に、形容しがたい良い香りが届く。
それが、ヴァッシュから漂う香りだと気がついた時にはウルフウッドはあらがうことなどできず、ただただ静かに頷いていた。
「わぁ、ありがとう。それじゃ、これから必要になると思うから。これが僕の連絡先、君のスマホ貸してくれる? はい、君の連絡先も登録させてもらうね」
あれよあれよという間に、ヴァッシュはウルフウッドのスマートフォンに自分の連絡先とかすかな香りを残して、嵐のように去って行った。
教室中から刺さる、お前は一体誰なんだ。どうしてお前が、と言わんばかりの視線が痛くてウルフウッドは、大きな体を小さく縮こめて逃げるように教室を後にした。
それからウルフウッドの元には、二日と空けずにヴァッシュからの連絡が入った。
『テーマの相談したいから、ふたりで会おう。学校だと邪魔が入るから、駅前のカフェで待ち合わせね』
『資料探してるんだけど、見つからなくてさ。一緒に探しに行こうと思ってて、次の休みどう?』
昔からの友達のように、スクールカースト最下層の自分にまで優しく接してくれるヴァッシュにますます虜になった。
その日もふたりは、カフェで発表に必要な資料を広げて話し込んでいた。専門科目ですらない、一般教養科目さえも真剣にレポートを作成するヴァッシュの熱意にウルフウッドは心打たれていた。
自分ひとりだったら、過去の文献を適当に拾い集めて、それなりに作って終わらせただろう。時折考え込んだりしながら、パソコンの液晶画面を見つめるヴァッシュの横顔を盗み見ていると、スマートフォンのアラームが鳴る。
「あ、あかん。そろそろバイトの時間や」
「もうそんな時間かぁ。それじゃ、ここは僕が片付けておくよ。それじゃ、また明日ね」
机の上にはコーヒーの紙カップや、ケーキを食べた後の皿やらフォークやらが残されている。
「いや、悪いって。せめて、自分の分くらいは」
「机の上が空っぽになったら、残りにくいから。ほら、遅刻しちゃうよ」
そこまで言ってくれているのに、無理矢理にトレイを奪うわけにもいかない。優しいヴァッシュに甘えて、ウルフウッドは何度も礼を言ってバイト先に急いだ。
ウルフウッドのバイト先は、自宅近くで見つけたコンビニエンスストアだ。夜間の時給はそれなりに良いし、なにより時間の都合が付けやすい。
「なに、にこにこして。良いことあったの?」
日用品の棚は、動きがあまりないため補充作業と言うよりはほこりを払ったり、配置を整えたりするぐらいだ。
電池、爪切り、懐中電灯、モバイルバッテリー、イヤフォン、線香。ほとんど売れているのが見たことがないような物ばかりの棚に積もったほこりを、綺麗に払う。
バイト先の先輩が、鼻歌交じりに掃除をしているウルフウッドに気がついて肘でつついた。
「あーー、はい。ちょっとええことあって」
「えぇなになに? 恋愛ごと?」
「あ、そういうんやないんで」
相変わらず学校内では、取り巻きに囲まれたヴァッシュとウルフウッドが会話をすることは少なかった。一部の同級生からの視線は痛かったが、レポートを仕上げるためだと大義名分を振りかざせるウルフウッドに怖い物はない。
「よし、……これで完成かな」
楽しい時間はあっという間だ。
ヴァッシュが印刷されたレポートとレジュメを頭から読み直して、満足そうに言う。
これから、最終的な発表の準備もしなければならないがほぼ、ふたりで行う作業はこれで終わりだ。
遂に完成した。してしまった。
大好きでたまらない顔を、誰にも邪魔されず堪能できる機会がぐっと減るかと思うと、ウルフウッドは落ち込みそうになる。
「ウルフウッド?」
「あ、あぁ……終わりやな、お疲れさん」
ははははと、から笑いをしてやましい気持ちを抱いていることを悟られまいとする。
「ねぇ、今日君バイトない日だよね?」
「お、おん。せやで、今日はもうなんもない」
「それならさ、ご飯食べに行こうよ。打ち上げ! レポートお疲れ様会」
「え、ええの?」
「君が良いなら」
「もちろん、でもふたりで飯とか、……あいつらに知れたらちいと怖いな」
「怖くなんてないよ、それに今更でしょ?」
何度もふたりでレポート作成の名目で会ってきたが、ただ友人として食事をするのは初めての事だ。
友達が多い方ではない上に、バイトに忙しくサークルにも入っていないウルフウッドは、友人と学食意外で食事に行く機会もほぼない。
「い、いく!」
ウルフウッドが返事をすれば、決まりだとヴァッシュが気に入っている飲食店に向かった。
「ここだよ。すごく美味しいんだ」
ヴァッシュに連れてこられたのは、繁華街のど真ん中。ひとりでは来られないようなおしゃれな店構えに、ウルフウッドはにわかに緊張する。
咄嗟に、財布の中にあまり現金が無いことを思い出して、青ざめる。食べ終わった後に、支払いできませんでは話にならない。
「あ、ちょっとコンビニ行ってもええ? 財布んなかちいと心許ない……かも」
格好悪いなと、言いにくそうに言葉を濁すとヴァッシュは、柔らかな瞳を大きな丸にした。
「何言ってるの、僕が誘ったんだよ? ここは僕のおごりに決まってるでしょ」
有無を言わせず、ヴァッシュはウルフウッドの背中を押して店に入ってしまう。そんなわけにはと、ウルフウッドは引き返そうとするが、常連の姿を見つけた店員によって、断る間もなく個室に通されてしまった。
「お任せでお願いして言い? 飲み物もノンアルコールで、料理に合わせて」
ヴァッシュが慣れた様子で注文すると、店員は一つ返事で部屋を後にした。
「足りひんかったら、後でちゃんと返すわ」
「いいってば。それじゃ、次はウルフウッドの行きつけのお店に僕を招待してね」
次があるのかと、ウルフウッドがドキドキしているうちに、店員がヴァッシュの好物を中心に料理が運ばれる。
目の前には、大きなお皿にちょこっとだけ盛られた、名前も分からないような料理が並んで、ウルフウッドはどこから手を付ければ良いのか分からない。
「これが美味しいから、食べて」
その様子を見てヴァッシュは微笑んでウルフウッドに料理を取り分けてやった。
次いで届いた、ノンアルコールカクテルををそれぞれに手にして、軽くグラスを当てる。
「それじゃ、お疲れ様~」
「乾杯」
小ぶりなグラスにたっぷりとロックアイスが入れられており、そこに琥珀色の液体が注がれている。グラスの端には真っ赤なシロップ漬けのチェリーが添えられていた。
普段のウルフウッドなら、一口であっさりと飲みきってしまう程の量しか入っていない。ノンアルコールのはずなのに、雰囲気に飲まれて酔ってしまいそうだった。
「ヴァッシュくん、友達?」
「あ、……えっと、まぁ」
店のサービスだという、デザートを運んできた店員が親しげに声をかけてきた。ヴァッシュは、らしくなく歯切れの悪い様子で応えると、視線を泳がせる。
「初めまして~、えっと……」
「ウルフウッド……です」
「ウルフウッドくんね、おっけ。今後ともよろしくねぇ」
名前を名乗ると、昔ながらの友人かのように親しげに声をかけてくる。こういったタイプの知り合いがいないウルフウッドは、どう返答して良いか分からずに硬直する。
一目で自分とは違うタイプの人種だと分かって、ウルフウッドは緊張した面持ちで頭を下げた。
「可愛いねぇ、ちょっと俺にも紹介してよ」
先ほどまで笑顔だったヴァッシュの顔が、あからさまに曇る。
「あ、ホール忙しそうですけど大丈夫です?」
ヴァッシュの言葉通り、予約客が訪れたようでフロアが賑やかになった声が個室にまで届いていた。
「うっわ、最悪だ。じゃまた遊びに来て。ひとりでもいいよ、サービスするわ」
ヴァッシュが大きなため息をつくのと同時に、慌ただしく店員は去って行った。
店を出る頃には、すでに二十二時を回りそうだった。アルバイトのシフトが入っている日以外で、こんなに遅くなったのは初めてだ。
「ほんま、ごっつ腹一杯。ごちそうさまでした」
少しだけでも支払うとウルフウッドは財布を握りしめていたが、頑としてヴァッシュは受け取らなかった。
「それはよかった。また一緒に食事に行こうね、別の店」
「ほんま?」
食事を共にしたおかげか、ほんの少しだけ打ち解けられたような気がしていたウルフウッドは、嬉しそうに応える。ふたりは並んで、夜の街を歩く。
「えっと、わいこっちやねんけど」
「僕も一緒だよ」
大学の周辺は、学生向けの単身者マンションが多く建ち並んでいる。方向が同じでも全く不思議はない。
「一人暮らし……しとるん?」
「そうだよ、そんなに実家が遠いわけじゃないんだけど。やっぱり、してみたいじゃん。一人暮らし。このコンビニの向かいなんだけど」
ヴァッシュがさしたコンビニは、ウルフウッドがアルバイトをしている店舗だった。
「ほんまに? わい、ここでバイトしてんで」
ちょうど向かいに確かに、うちの学校の生徒も住んでいるマンションがあるのは知っていた。実際に、学校の先輩や同級生が買い物に来ることも多い。
なるべく生活圏の中でアルバイト先も見つけたかったので、ここを選んだ。ヴァッシュが近くで住んでいるなんて、思いもよらずテンションが上がる。
「そうだよね、知ってた」
「へぇ?」
驚きのあまり変な声が上がる。ヴァッシュは一度だって、ウルフウッドが勤務をしている時に、来店したことがなかったからだ。
前の通りを歩いている時にでも、勤務している自分の姿を見たのかもしれない。
「そうだ。借りっぱなしになってた資料を返したいんだけど、ちょっと家に寄ってもらってもいい?」
「え、ええの?」
アルバイト先をヴァッシュに知られていた驚きに耐えているのに、より強い衝撃を与えられ反射的に食いついてしまう。
部屋に誘われたわけではない。借りていた本を返すと言うだけだ。本性を悟られまいと、慌てて咳払いをしてウルフウッドは気を落ち着かせる。
「ついでみたいで申し訳ないんだけど、すぐそこだから」
ヴァッシュはそう言うと、ウルフウッドの手を取るとぐんぐんとマンションに向かって進む。自分の手を取るヴァッシュの手に心臓が跳ねる。こんな機会はもう二度と無いだろう。
そう思うと居ても立っても居られず、ウルフウッドはスマホの無音カメラをそっと起動させ繋いだ手を写真に収めた。
ヴァッシュが住んでいるのは、マンションの二階で、ウルフウッドの働くコンビニのある通りに面した部屋だ。
「ちょっと、ごちゃごちゃしてるから……少し待っててくれる?」
玄関を空けると、短い廊下と左右に部屋があり、突き当たりに奥にもう一室あるようだ。ごちゃごちゃしていると言う割には、玄関には靴が一足あるだけで、すっきりと片づいていた。
「おん、もちろん」
「えっと、……リビングかな」
靴を脱いだヴァッシュは、まっすぐに正面の扉を開く。壁に備え付けの電気のスイッチを入れる音がすると観葉植物が見えた。
ドアは開きっぱなしになっていて、リビングの様子がウルフウッドが立っている玄関からもよく見えた。
黒い革張りのソファーとセンスの良いローテーブルが置かれている。机の上に、マグカップが置きっぱなしになっているが、別に散らかっている様子はなかった。
それどころか、ルームフレグランスののようなふんわりとした自然な香りが漂ってくる。ペア決めの時に嗅いだ香りだと瞬間に分かった。
この部屋の玄関を跨ぐことは、二度と無いだろうと思うと猛烈にただただ玄関に立っているだけなのが、ウルフウッドは惜しく思えてくる。
人はどこまでも貪欲で、次第に歯止めがきかなくなることを自分自身が痛感してる。
親しくなれば、もっと仲良く、そして特別になりたい。それも、このレポート作成期間が終われば、ただの遠い顔見知りに戻ってしまうのだろう。
そう思うと居ても立っても居られず、咄嗟にウルフウッドの唇から言葉が飛び出す。
「あ、あの……お手洗い、借りたりしても……ええ?」
ウルフウッドの声に、ごそごそと聞こえていたヴァッシュが部屋を探しているらしい音が止まる。初めて来た部屋で、トイレを借りるのはマナー違反なのだろうか。
友人が少ないウルフウッドは、失敗してしまったのかもしれないと青ざめるが一度発した言葉を撤回することはできない。
「あ、目の前がバイト先のコンビニやから、そこで」
コンビニで済ませて、そこで待っていると続けようとした言葉に、ヴァッシュの言葉が重なる。
「右だよ、右の扉」
リビングからひょいと顔だけ出して、ウルフウッドの顔をしっかりと見つめて笑顔を作る。よかった、気分を害していないようだと、ウルフウッドは安堵して靴を脱ぐ。
トイレを借りるだけとはいえ、ヴァッシュの部屋に上がり込むのだ。高揚しないはずがない。緊張を抑えるように、深呼吸をして、ウルフウッドは右側にある扉のドアノブに手を伸ばす。
ヴァッシュはまだ入り口から、ウルフウッドが部屋に入る様子をじっと見つめている。
「し、失礼ししま……」
かちりとドアノブを回してゆっくり開いたその部屋は、明らかにトイレや水回りではなかった。電気は消され、遮光カーテンも閉められているせいで中の様子がはっきり見えない。
廊下の明かりが差し込んで、足下から左右の壁が少し見える程度だ。ヴァッシュに教えられたとおり、右の扉を開いたはずなのにと、ウルフウッドは固まってしまう。
プライベートな空間に勝手に立ち入ってしまったと、咄嗟に詫びの言葉と言い訳を考えていると、いつの間にか背後のヴァッシュが立っていた。
「す、すまん……、右って、おどれから見て、ってことやんな、えっと」
半泣きでしどろもどろになるウルフウッドの背中を両手でヴァッシュは押して部屋に押し込める。続けてヴァッシュもその部屋に入ると、後ろ手で扉を閉めた。
唯一の光源だった、廊下の照明が一切入らない部屋は、真っ暗で何も見えない。電気のスイッチを探そうにも、ウルフウッドにはそれがどこにあるのか分からない。
すぐ背後にヴァッシュが居るのは、首元にかかる吐息と体温で分かった。
「いいんだよ、僕がこの部屋君に見て欲しくて」
今まで一緒に過ごしてきて聞いた、どの声音よりも優しい響きで、ウルフウッドの耳元へヴァッシュは囁くと、照明のスイッチに手を伸ばした。
パチリ
音と共に天井から燦々と眩い光が注いで、暗闇に馴染んだウルフウッドの瞳が眩む。咄嗟に目を閉じて、瞼越しに光を感じゆっくりゆっくりと慣らしながら両目を開いた。
「……ッ」
視界を取り戻したウルフウッドの喉が声にならない悲鳴を上げた。部屋中の壁びっしりと少しの隙間もなくウルフウッドの写真が貼られていた。
学校で授業受ける姿、中庭のベンチでひとりサンドイッチにかじりつく姿、眠たそうにあくびをしている姿、バイトをしている姿、自宅で洗濯物を干している姿。
ありとあらゆるウルフウッドの生活の場面が、切り取られ壁一面に貼られている。しかし、どの写真も視線は反れているものばかりで、隠し撮りであることは明白だった。
「見てよ、このときの君。すっごく可愛かった。あとね、この日は君と初めてしゃべった日。覚えてるかな、挨拶したんだけど」
ヴァッシュは、ウルフウッドの様子を気にとめる積もりがないのか、そもそも気がついていないのか。写真一枚一枚について説明し、うっとりと語り始める。
ウルフウッドは、激しい動悸を抑えるように胸を掴んで、よろけそうになる体を支えきれず隣に置かれた棚にしがみつく。
カタンと音がして、その棚から何かが落ちる。ふたりでレポート作成をするために、通ったカフェの紙カップだった。
「ご、ごめ……」
一瞬コーヒーを零してしまったかと思ったウルフウッドだったが、そのカップの飲み口を見て、はたと気がつく。
カップに付いたプラスチック製の蓋の飲み口が噛み跡だらけだ。同じように、無数に歯形の付いたプラスチックのフォーク、アイスの棒、割り箸などがジップロックの透明の袋に入れられて綺麗に飾られている。
口に入れたものを無意識で噛んでしまうウルフウッドが使った物は、たいていこんな風にガジガジの跡が付いている。
そのうえ鋭い犬歯があるため、歯形が特徴的で自分の物ならばすぐに分かった。
目の前の棚に恭しく飾られているそれらは、紛れもなくウルフウッドの物に間違い無かった。
「僕の宝物だよ」
ヴァッシュは綺麗な顔で、それらを愛おしそうに見つめ、床に転がった紙カップを拾い上げて丁寧に棚にしまう。
「今日の食事も、せっかく君と二人っきりでいい雰囲気だったのに、あいつがしゃしゃり出てくるからさぁ。もう二度とあの店には行けないや。食事は気に入ってたのに残念だなぁ。この部屋に連れてくるのも、もう少し後にしたかったんだよ。もっと、僕のこと知ってもらって……」
ヴァッシュの言葉が止まらない。ウルフウッドのキャパシティーはすでに限界で、これ以上を受け入れることができない。
「ちょ、……今日はもう、帰る」
掠れて消えそうな声でそれだけなんとか絞り出すと、ウルフウッドはもつれそうな足をなんとか前に動かしてヴァッシュの部屋を飛び出す。
「あれ、トイレはいいの?」
玄関まで転がり出た、ウルフウッドにも聞こえるはずだが高揚している彼に、ヴァッシュの声は届かない。
マンションの入り口を出たところで、一瞬ヴァッシュの部屋を見上げると、遮光カーテンが僅かに開いている。その隙間からヴァッシュの姿があり、目が合ったような気がした。
バイトしてる時も、彼はこの窓から観察をしていたのかもしれない。そう思うと、ウルフウッドの心臓は破裂しそうなほど脈打ち、壊れてしまいそうだった。
ここからウルフウッドの家は近い。つまりヴァッシュの家とも目と鼻の先だ。急ぎ足でも、十分もかからない。
アパート前にたどり着く。自分の手が震えていることに気がついた
鍵穴に玄関の鍵を誘うとしても、カタカタと震えていて上手く刺さらない。もう片方の手を添えて、なんとか鍵穴に差し込んで回し、扉を強引に開いて部屋に倒れ込む。
靴を履いたまま、玄関に足を投げ出し上半身だけを冷たい床に投げ出す。さっき見た光景が信じられず、夢だったのではないかとさえ思う。
まさか、あのヴァッシュが自分と同じだったなんて。
ウルフウッドは大声を出して、喜んで叫び出したくなる気持ちを、奥歯を噛みしめて必死に耐える。靴を蹴飛ばす勢いで、脱ぎ捨て立ち上がると、まだ興奮で震えている指で部屋の明かりを付けた。
壁一面にびっしりと、少しの隙間もなくヴァッシュの写真が貼られている。そのどれもが、ヴァッシュの部屋に貼られていた写真と同じように、目線がこちらを向いている写真は一枚もない。
授業を真剣に受ける横顔、カフェで資料を読み込む姿、大学構内のベンチに腰掛けている後ろ姿、友人と談笑する笑顔、取り巻きの隙間から覗く少し退屈そうに見える顔。
恍惚の表情でそれらを見つめていたウルフウッドは、自分のポケットの中でスマホが震えていることに気がつく。
興奮状態が続いていたせいで、全く着信に気がついていなかった。
慌ててスマホを開くと、ヴァッシュからだった。留守番電話に切り替わると、着信は切れた。
そのまま着信履歴を開くと、ヴァッシュの名前のみで三十件は超えていた。
埋め尽くされた履歴をウルフウッドは悦に入った様子で見つめると、間を置かずにまたヴァッシュから着信が入る。
ウルフウッドは、一呼吸を置いてから通話ボタンを押すとヴァッシュが何か言い出す前に、ウルフウッドはうっとりとした様子で口を開いた。
「なぁ、トンガリ。わいの部屋、……来るか?」