春宵一刻「疲れた……」
葉擦れの音と共にホトトギスやらアオバズクやら、鳥の鳴き声は聞こえるものの、誰もいないのをいい事に、葉山は溜息を漏らす。
街路灯に照らされた自分の影はくっきりと濃く存在感があり、先にゼミへと走って行ってしまいそうだった。木々の合間を抜けた丘の上、汐見ゼミは学園の敷地内でも辺鄙な場所にある。
汐見の恩師であり葉山の身元を引き受けてくれた葉山教授が、「周りに香りの事でやかましく言われない場所で研究と後進育成に励みたい」と望んだが故の立地らしいが、真偽の程は定かではない。
もし本当なら、余計な事をしてくれたと言ってやりたい。ゼミ室と講義棟との往復だけで、汐見と共にいる時間が減るのだから。
放課後、挑まれた食戟をこなし、十傑の仕事を(人の尻拭いまで含め)終えるとどっと疲れを覚えた。
だが今日は、汐見に頼まれている実験の補佐をしなければならない。葉山にとっては助手の仕事こそ本分なのだが、汐見は「もし時間があって、葉山くんが疲れてなかったら手伝って貰えると助かるよ」という姿勢だった。弟子の成長を温かく見守る保護者のポジション。
ーー助手以外は、代わりのきく仕事じゃねぇか。
基本、何事にも責任を持って最後まであたる葉山だったが、学園関係の事など他の誰でも出来る作業だと思う。そこに必ずしも自分がいる必要は無い。
だが、汐見の研究にはこの鼻が必要だ。葉山はそこに自分の存在価値を置きたかった。彼女にとって唯一無二の、代替不可能な存在でありたい。
こぎみよい足音の前に、まず花びらの砂糖漬けのような匂いがした。
「葉山くーん」
四月とはいえ外はまだ肌寒いのに、手を振り駆け寄ってきた汐見は、いつもの着古したSPICEとプリントされたTシャツにハーフパンツ姿だった。
「潤、何かあったのか」
汐見は小さく円い膝に手を当てて息を整えてから、葉山を見上げた。
「ん 二階の窓から葉山くんが見えたから、来ただけだよ」
「鍵は閉めてきたのかよ」と、意識して意地悪く葉山は聞く。
「あ」
汐見は上に視線をずらし一瞬考えた。
「だ、大丈夫。ちゃんと戸締りしてから来たよ」
「疑わしい」
「閉めたよ。鍵もここにあるでしょ」
ポケットから、インド土産の象のキーホルダーが付いた鍵を取り出し葉山に見せる。
「それ、物置の鍵じゃねぇか」
「え 嘘」
「嘘だよ」
「もうっ どうしてからかうの」
汐見は涙目になったり頬を膨らませて怒ったり、忙しい。
自分の姿を見つけて、待ちきれなくて迎えに来た。その事実だけで幸せなのに、我慢がきかなくなる。
思い切り抱きしめたい。体中口付けたい。痛いほどの衝動を必死に抑える。
自分の短絡的な行動で汐見の居場所を奪うような真似は、二度としないと誓った。
直接触れない代わりに、彼女の止まらない講釈を聞き、幾晩も共に実験に携わればいい。
「お腹空いてるかなあと思ってパニプリたくさん揚げたけど、先生をからかうような弟子にはあげません」
「一人で食うと太るぞ」
「頭脳労働するからいいの」
舗装されていない道に、汐見の小さな影と自分の影が重なっている。ゼミに近づくにつれ、葉山の鼻に確かにパニプリを揚げた香ばしい油の香りが届いた。