カカオ70パーセント好きだ。愛してる。俺は貴女の物だ。
囁かれる言葉は濃く甘く、耳からとろりと忍び込み体の中に溶けていく。それらが内に体積していった後に、自分の体はどうなるのだろうか。すり鉢の中で攪拌される香辛料や、ビーカーの中でかき混ぜられる溶液を汐見は連想する。
「ガキの頃は『なんで俺にチョコくれるんだ』って聞いたら、『アキラくんの事が好きだからだよ』って言ってたよな」
革張りのソファに深々と腰掛けた部屋の主は、マグカップを傾けながら、懐かしいとも恨めしいともつかない声で言った。銀色の艶のある髪は、散髪して日が経っていないのか鋭角的に揃えられていて、クールな印象を助長させている。あくまで外見上は、の話だ。
「だけど、ゼミ生にも他の教師連中にも渡してた」
薄い湯気と甘い香りを漂わせているマグカップの中身は、ショコラショーだ。細かく刻んだカカオ70パーセントのチョコレートと牛乳を小鍋に入れ溶かし、砂糖、シナモンスティック、ドライジンジャー、クローブを加え、ブラックペッパーを粗く挽いた。熱で香りが飛ばないように、ラム酒は最後に加えてある。
葉山は昨夏で二十歳になった。気兼ねなくアルコールの入った飲み物も出せる。十八歳の誕生日を迎えた時に「これで法的にも大人だぜ」と、どこか満足げだったのを汐見は思い出す。幼い頃から葉山は背伸びをしたがっていた。大人になりたがっていた。その理由も、今なら分かる。
キッチンで味見用に移した自分の分のショコラショーを飲みきり、我ながら美味しく出来た、と汐見はまず自らを褒めて気分を盛り上げる。
「前にも説明したけどさ。遠月だとバレンタインチョコも、教師の技能評価や給料査定に関わってくるんだよ。味は勿論、ラッピングの創意工夫や、期日までに何個用意できたかとか」
「知ってる」と苦々しく葉山は遮る。
葉山も貰ったチョコレートに対し、毎回手を抜くことなく手作りでお返しを用意していた。量も汐見が贈った物よりも、遥かに多かった。彼がたくさんの人に好かれているのは素直に嬉しかった。その気持ちは今も変わらない。
「でも、潤の料理は俺だけが食いたいんだよ」
危うく汐見は、食器洗い洗剤のボトルを落としかける。
「そんなに私の料理が好きなんだね、ありがとう 先生、嬉しいよ」と聞き流せたらいいのだが、そこまで器用ではなかった。
大切に育ててきた弟子が、他者からの肯定的な表現では「ひたむきで一途」、否定的にいえば「執念深く嫉妬深い」と認識を改めるに至ったのは、告白されてからだ。「真面目な頑張り屋さん」だと、弟子の表層しか見て来なかった自分の観察力不足を、汐見は思い知らされている。
学費免除の特待生度と飛び級制度があり、嗅覚研究も行われている大学を選んだ結果、葉山は都心から遠く離れた大学に通っている。
今日は出張にあわせて、汐見が葉山のアパートを訪れている。葉山の部屋の家具は数が少なくシンプルだが、一人暮らしの大学生が選ぶような安価な工業生産品ではなく、どれも質が良い。
「潤と一緒に暮らしてからも、長く使えるように選んだんだよ」と話していたが、「長く使えるものを選んだ」という点だけ褒めてあげたかった。
キッチンを片付けて戻ってきた汐見は、軽々と抱き上げられてスラックスの膝の上に乗せられる。ゼミ室の古びた物とは違い、手入れが行き届いたこの部屋のソファの座り心地はいまだに知らない。
葉山の鼻が肩先に当てられる。盆地のため冬は底冷えするのだが、背中に感じる葉山の体はいつも熱い。髪や耳に、葉山の鼻先と唇が触れていく自分の衣服も体も、カカオと種々のスパイスの香りが移っているはずだ。他に何の香りを彼は嗅ぎ当てるのだろう。
抱きしめられる事に拒絶感は無い。ただ、恋愛感情が湧かないだけだ。
「そういや、遠月の来年度の授業要項見たけど、授業のコマ数もゼミも減らしたのはなんでだ」
それは葉山には話していない事だった。学園の内部資料にアクセスできる人間しか、知らない情報でもある。汐見は背中の葉山に見えないのをいいことに、口をとがらせる。
葉山は遠月において、汐見よりも事務関係の人間とは繋がりの深い学園生活を送ってきた。薙切の親族経営を嫌う、遠月グループの後援者からは有望株と目され、既に堂島の後継者となるべく、遠月リゾートに席が用意されている。
「だから私の予定は筒抜けなんだね」とは、流石の汐見も快く納得などできない。
「遠月でのポストを無くすわけじゃないよな」
深みのある声の中にわずかに緊張が混じっている。この土地の寒さが、冬の北海道を想起させるのだろうか。汐見はいまだに葉山が四年も前の事を引きずっている事に気づかされる。ため息交じりに小さく笑う。
「夏から協賛企業の研究開発の仕事が増えるから、調整したの」
研究所の場所と仕事内容を教えたが、葉山は短く相槌を打つだけで、詳しく訊ねてはこなかった。興味がないのではなく、既知の情報なのだろうと察する。
「忙しくなるな」
「アキラくんほどじゃないよ」
汐見もたまには、皮肉の一つも言う。もっとも、通じたかどうかは分からない。
葉山が卒業した遠月学園に、汐見は執着はない。異国の孤児を守り育てるのに母校はちょうど良い環境ではあったが、研究場所を求めるなら他にいくらでも道はあるし、率直に言えば海外の方が待遇も良い。
だから、葉山が再び遠月に組み込まれるのは不本意とまではいかないが、もし彼が「汐見のために」遠月に戻るつもりでいるのなら、外堀を埋められていくようであまり歓迎できない。
自分の気持ちがどこかへ押し出され、追いやられていく風に感じられてしまう。
告白された時もそうだった。葉山の好意も周囲の厚意も、汐見が常識を盾にやり過ごす隙を与えなかった。
恋愛感情を抱けないだけで、汐見なりに葉山の事は愛してきたのだが、それでは足りないらしい。
手を上に伸ばし、葉山の髪から頬を撫でる。子供の頃はもっと髪も皮膚も柔らかかったな、と思いだす。
「美味しかったよ。ありがとう」
鼻先をつけられて話されるのでくすぐったい。友人宅の人懐っこい大型犬に擦り寄られたの感触に似ている。そう気を取られて、葉山の言葉がショコラショーの感想だと理解するのが遅れた。
「好きだよ、潤」
漂うカカオとラムの香りに、もう少し子供のままでいてくれて良かったのに、と不意に思った。
愛情は、春のまどろみのように柔らかく包み込むものだけではなく、一直線に伸びた熱線が突き刺さってくるものだとも知らされた。その熱に焼かれて自分を見失いたくないので、葉山と物理的に距離のある今の生活は、汐見にはありがたかった。