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    柘植櫛(tsuge13)

    専ら汐見ゼミの二次創作を文・絵でしてます。
    サイトに載せた物の一部や突発的な落書きをこちらには載せてます。
    応援絵文字ありがとうございます!
    Almost Hayama/Shiomi’s text & illust.

    アキ潤倉庫→https://uklop.web.fc2.com/
    タイッツー→ https://taittsuu.com/users/tsuge13

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    柘植櫛(tsuge13)

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    高等部一年冬の進級試験後、極星寮にお世話になっているアキ潤妄想。
    キス描写はありますので、苦手な方はご注意ください。

    #アキ潤
    whitePoplar
    #葉山アキラ
    #汐見潤

    最良の選択「総帥が葉山アキラを欲しがったのは、彼が君の大事な人間だからだよ」
    北海道に向かう空港の出発ロビーで、堂島は汐見にそう切り出した。携帯電話を見つめていた汐見は、一瞬何を言われたか解らず「はい」と聞き返した。
    降雪の影響により、北海道からの便の到着が遅れているとアナウンスが告げている。急いで行った所で事態が好転するわけでもないのに、汐見は永遠に葉山に会えなくなるのではないかという不安に襲われた。
    機関に入って以来――あの日ケンカ別れして以来、葉山とは連絡がつかなくなっている。ゼミを解体された対応にも追われ、堂島から幸平との対決に同行するよう誘われた時は、天の救けのように思えた。
    「葉山アキラを狙ったのは、彼が君の大事な一番弟子だからだ」と堂島は繰り返した。
    「彼自身の能力も勿論魅力的なのだが、総帥――今は君と二人きりだから、あえて薊と呼ばせてもらうが、彼は学生時代、君を羨んでいた。君は城一郎のお気に入りだっただろう」
    葉山のことばかりで埋め尽くされていた頭が、その名が引き金となって一気に現実に引き戻された。
    「冗談じゃありません 私は才波先輩に散々ゲテモノ料理を食べさせられたのがトラウマで、今でも同年代の男性が苦手なんですけどぉっ」
    いつにない汐見の剣幕に、堂島はたじろぐ。
    「ああ、それは……こういう言い方は語弊があるが、あいつはペットを可愛がりすぎて嫌われるタイプというか、いや、君を動物と言っているわけではないんだが、その、俺からではなんだが、申し訳ない」
    「ええ、堂島先輩に謝って頂いても困ります」
    仮に、そんなことは起こりようもないが、今更才波に謝られたとしても困るだけだ。
    かつてあの天才から受けた悪戯の数々は心の傷になっているとはいえ、全て昔のこと、終わったことだと一応の整理は出来ている。思い出しさえしなければいいのだ。汐見個人が受けたトラウマも、当時の寮生皆の苦い共有体験も。
    ――あの破天荒な人が、周囲の期待に追い詰められて折れてしまうなんて。
    その周囲の中に自分達が含まれていることを、汐見も堂島も自覚している。才波を心から慕っていた薊はどうだったのだろう。
    「君の立場からすれば大変不本意だったろうが、いつも城一郎の料理の試食をさせられ構われている君を、内心薊は羨んでいた。機関に葉山が入れば君は苦しむし、この戦い、葉山が勝利しようが敗北しようが、君達は元通りの生活には戻れず、どちらに転んでも――傷が残る」
    堂島が指摘する通りの目的が薊にあったのだとしたら、拍手を送りたくなるほどの大成功だ。
    ただ、状況が不利になっていくに連れ、汐見の気持ちはシンプルに集約されていった。
    ゼミが潰され研究場所が奪われたことなど、葉山を奪われた衝撃に比べれば軽い。それを葉山が知ったら、さらに怒り傷つけてしまうかもしれない。
    「先輩は、選抜の時から葉山くんのことを心配してましたよね。才波先輩みたいになるんじゃないかと思われたんですか」
    「ああ」
    堂島は昔を思い出すように、どこか遠い目になった。
    「己の身を削り頂点を目指す彼の姿に、城一郎が重なった」
    「そうですか」
    汐見は自分の身を支えるように二の腕を抱き、小さい体をさらに縮こませた。
    「すぐに自分を追い詰めて、無理をするんです。才波先輩みたいになって欲しくなくて、過剰な期待をかけないよう意識してきました。でも、葉山くんには逆効果だったみたいです」
    史上最年少の教授、スパイスの権威の弟子が無能では、汐見の功績に影を落とすことになる。葉山は常に、周囲が思い描く「汐見潤の一番弟子」の理想像を体言するために、自身を追い込んできた。
    「外野が言うのは差し出がましいが」と堂島は断りを入れてから告げた。
    「この件が済んだら、一度葉山と正面から向き合い話し合ってみてはどうだ 彼もいつまでも子供なわけではないのだし、君の立派な助手だろう。今回の件は我々親世代の禍根が原因とはいえ、困難に直面した際は君に気遣われるよりも、頼られた方が嬉しいのではないか」
    そうなのだろうか。堂島が言うのであれば、そうなのかもしれない。「はい」と汐見はうなだれたまま頷く。
    あの時、どうやって止めれば良かったのだろう。
    何故言うことを聞いてくれないのか、こんな馬鹿なことを辞めてと責め立て否定せず、何と言って説得すれば正解だったのだろう。
    ――彼に選択の自由を与えず、追い詰めたのは私だ。
    ゼミ室を後にする葉山の背中がずっと、瞼の裏をちらついている。



    「では全員の復学を祝して、乾杯~」
    吉野の音頭で、手にしたジュースのグラスを皆が掲げる。それぞれが厨房で作った料理を持ち寄ったため、部屋中には食欲を刺激する様々な匂いが充満していた。
    「一昨日も『退学取り消しおめでとうパーティー』しなかったか」
    空き室で薫製を燻していた所を引っ張ってこられた伊武崎は、憮然としながらも並べられた料理に手を伸ばす。吉野はチッチッと指を振る。
    「一昨日は反逆者扱いされたフルメンバーで派手にやったけど、今日は極星限定パーティー」
    「先週も寮生限定でやったよな」
    「それは僕の『十傑復帰おめでとう会』だね。みんなに祝って貰えて先輩冥利につきるよ」と一色が笑う。
    「だから何でいつも僕の部屋を会場にするんだよ いくら再開しない授業が多いからって、毎晩毎晩遊びすぎだ」
    丸井が悲鳴を上げるが、誰もまともに取り合わない。
    仙左衛門が総帥に返り咲き、退学扱いされた生徒の復学は早々に成されたものの、薊によって学園の運営が一新されたため、解体された自治組織の施設整備や事務上の手続きで、平常通り行われる授業はまだ限られていた。汐見ゼミもその一つで、今週中にようやく中断されていた授業が再開される。
    連日名目を変えては行われる宴会に食傷気味だった葉山は、丸井の本棚を物色していた。授業や汐見の研究に関連して読んだ本もあったが、和書洋書問わず知らないタイトルも多かった。五感に関するギリシャ哲学の本を見つけ手に取る。最新の論文は目を通すようにしてきたが、逆にこういった古典を通読したことはなかったので、勉強になるかもしれない。
    「なあ丸井、これ読んでもいいか」
    「別に構わないけど」
    「それより葉山」とゲソをくわえた幸平が二人の間に割って入る。
    「何で今日は手料理作らないで、インスタントなんだよ」
    葉山が持ち込んだ大手食品会社の即席麺は、部屋の隅にブロックのように積まれている。幸平以外にも葉山の料理を楽しみにしていた寮生は、何があったのかと二人の会話に聞き耳を立てる。
    「汐見先輩のゼミ再開準備、もう済んだんだろ」
    葉山は本棚から出しかけていた本を戻し、面倒臭そうに答える。
    「そう簡単に済む話じゃねぇんだよ。ゼミと授業は内部的な問題だから再開できても、対外的にやらなきゃならねぇ案件が残ってる」
    「それでお前は料理に向き合う時間も無いってーのか」
    挑発的な幸平に、「俺はお前と違って、学生だけやってりゃいい身分じゃねぇんだ」と葉山は皮肉交じりに返す。
    「んなこと言わずに、せっかく毎日料理勝負できる環境にいるんだから――」
    言い募る幸平を青木が止める。
    「まあまあ幸平、別にいいじゃねぇか。この焼きそば、祭の屋台で売ってるみたいな匂いがして美味いぜ」
    「こっちの名店の味再現シリーズのラーメンも、スープにコクがあってインスタントとは思えねぇ」
    とりなす青木と佐藤は、葉山が持ち込んだ即席食品を豪快にかきこんでいる。葉山は説明する。
    「その粉末スープの匂い成分の抽出と保存に、潤の研究が活かされててな。うちのゼミと提携してた食品会社が大量に送ってきたんだよ。とりあえず空き部屋に置かせてもらってるが、ざっと一年分はあるから好きなだけ食べてくれ」
    「おお」と皆が喜び交じりの歓声を上げる。幸平が訊ねる。
    「そりゃあ凄いな。何でまたそんなことになったんだ」
    「薙切薊に手を回されて打ち切られた契約を、再締結したいんだと」
    「じゃあこれ、お詫びの品ってこと」
    榊が未開封の即席麺を持ち上げて見せる。
    「違約金は別途支払って貰うがな。実用化まで後一歩の段階まで来て打ち切られたプロジェクトもあるし。振り込まれるのが楽しみだ」
    「は、葉山くん、笑い方が怖いよ……」
    怯える田所を、よしよしと吉野と榊が撫でる。
    他にも提携、協賛していた企業から、再度研究に出資したいと打診されているが、交渉はこれからだ。
    「ありがたい話だけど、振り回されっぱなしだねぇ」
    汐見は積み重なった段ボールの山を見上げて苦笑いしていたが、葉山は胸の底が冷え切っていた。手のひら返しと非難するつもりはないが、また今回のように裏から圧力をかけられ、研究が妨害されたらどうなるのだ、と考えてしまう。
    汐見を守るには料理と嗅覚に頼らない、別の力が必要だ。真似するなど吐き気がするが、薙切薊のように権力者の娘婿になる手もある。葉山はちらりと一色を見やる。今の自分に手の届く範囲の力の手に入れ方――高位の十傑の座は魅力的だった。
    「あのちびっこ先生、スパイスだけの人じゃなかったんだな」
    「あの年で教授だ。うちのゼミの輪読で使ったこの雑誌にも、単名の論文が載っているし」
    「どれどれ――うわっ、英語ばっかで読めねぇよ」
    「恵と並ぶと田舎から出てきたばかりの中学生にしか見えないのにねぇ」
    「ひ、ひどいよ 私はともかく教授に対して失礼なこと言っちゃ駄目だよ」
    寮生に想い人が好き勝手に評されるのを、葉山は聞き流していた。しかし、次の会話は聞き咎めた。
    「教授がふみ緒さんの入寮試験で作ったカレーも美味しかったしね」
    「だな。さすが葉山の師匠」
    ――何でお前らが潤の料理を食べてるんだ。
    事情が事情とはいえ、葉山も汐見も通例通り試験を経て入寮が認められた。ふみ緒が汐見の料理を食べたのは不可抗力ではあるが、基本的には他人が汐見の味を知っているのは葉山にとって耐え難いことだった。反対に、汐見が葉山以外の人間が作った料理を口にするのも腹が立つ。
    いつからそう感じるようになったのかは覚えていない。汐見の研究を手伝い、また私生活の手助けをするために、料理を覚えた頃からだろうか。汐見が喜び誉めてくれることが、最初は単純に嬉しかった。今はどうだろう。
    「――アキラ、葉山アキラ」
    部屋の隅の金管から、寮母のふみ緒の声が届く。自分が呼ばれるような用件は、一つしかない。
    「宴会中すまんが、潤を迎えにおいで」
    「ありゃ また教授寝落ちしたのかな」
    吉野の声は弾み、期待のこもった輝く目で葉山を見てくる。
    「っとに世話が焼ける」
    葉山は立ち上がり、悪態をつく。我ながら、わざとらしい台詞に聞こえた。元から、温室の温度を確認してくるとか理由をつけて、適当な時間に退室するつもりではいたので、呼び出されたのはありがたかった。この宴会につきあっていたら朝まで解放されず――汐見に会えない。
    「行ってこい行ってこい」
    「もう戻ってこなくていいぞ~」
    「ごゆっくり~」
    「うるせえな。勝手に騒いでろ」
    揶揄を背に受けながら、丸井の部屋を出る。廊下の空気は冷たく、硬質な石の匂いが心地よかった。かすかにたなびく汐見の匂いをたどる。蜜を求める虫のように。



    「これ潤。弟子が迎えに来たよ。ほら、起きんかい」
    「毎回すみません、ふみ緒さん」
    「謝ることはないさ。お前さんがいてくれるから、この子もずっとうちにいてくれる」
    葉山は酒瓶が並んだ卓袱台に突っ伏している汐見を、慣れた動作で器用に抱き上げる。
    汐見は心地よさそうに小さな寝息を立てているが、葉山はアルコールの臭いと体に当たる柔らかな胸の感触に顔をしかめる。
    「人の気も知らないで」と、いつものやり場の無い苛立ちがむかむかと沸き上がってくる。それに近頃感じることだが、以前よりも――機関による一連の騒動の前よりも、体に重みを感じない。事務処理に追われているせいか、最近の汐見はスパイスの匂いではなく、紙とインクの匂いをまとわせている。
    ふみ緒は手酌でグラスに焼酎を注ぎながら、葉山に抱えられる汐見を見てにやにや笑う。
    「この子が男の子を引きとったって聞いた時は驚いたもんだけど、なかなかどうして、全く羨ましいねぇ。あたしも後十年若ければねぇ」
    後十年若ければ何だと言うのか、聞き返すのも考えるのも怖く、葉山は会釈だけして立ち去る。
    極星寮に身を寄せてからというもの、汐見は時々寮母のふみ緒の晩酌に付き合うようになった。別にそれ自体は構わないのだが、酒を飲むと眠くなるタイプの汐見を、室内放送で呼び出された葉山が毎回運ぶはめになっている。
    「昔はこの子が倒れる度に、体力をもて余してる男子を呼んで運ばせたもんだけどねぇ。城一郎やら銀やら」という、知りたくもなかった学生時代の汐見の姿まで教えてもらった。
    ――つまり、二十年以上何も成長してねぇわけか。
    何より、無用心に倒れて男共に体を触らせるなんて馬鹿かと怒鳴り散らしたくなった。初めて市場で出会った時も思ったが、危機感が無さすぎる。自分がこの研究以外に何も出来ない女を守らなければと、何度思ったことだろう。
    入寮してすぐ、葉山は「これを預けとくよ」と訳知り顔でふみ緒から汐見の部屋の合鍵を渡された。
    汐見を抱きかかえる姿は、最初こそ「お姫様抱っこ……」と寮生の皆に呆然と見つめられ、次いでツッコミの嵐を受けたものだが、今ではすっかり普通の光景と捉えられている。寮内を裸エプロンで闊歩する十傑がいるような寮だから、皆耐性ができているのだろう。吉野に至っては、「今日は教授の部屋から出てくるまで長かったなぁ」と観察してくる始末である。
    スラムにいた時も常に誰かの視線――もっぱら敵意に満ちた――にさらされていたが、ここでのそれは違う。不特定多数の人間と共同生活を送るのは初めてだったが、それなりに順応している。
    初めて極星寮を見た時は、昔汐見に連れられて行った遊園地のお化け屋敷の洋館を思い出した。しかし、ここで彼女が学生時代の六年間を過ごしたのだと思うと、何故か古い知人のように親しみを覚える。もっとも、汐見にとっては忘れたい思い出も多々ある場所らしい。
    今、汐見に割り当てられている部屋も、かつて彼女が暮らしていた部屋だ。葉山にはその隣室が宛がわれているが、必要以上にお互いの部屋を行き来することは無かった。
    汐見の部屋の鍵を開けると、花の香りに似た匂いに包まれる。それだけで満たされた気分になった。匂いは情動とリンクするというが、温かな波の中で揺られるような幸福感と、甘怠い快さが鼻腔から全身に広がっていく。
    不意に、当たり前のように二人で過ごしてきた日々が懐かしくなる。
    ――自分のせいだ。
    何を犠牲にしてでも守ると決めたはずなのに、薙切薊の手の上で踊らされただけに終わった自分の無力さが呪わしい。機関に入った選択に関して、何も責任を感じなくていいと汐見には諭されたが、それは無理な話だ。
    窓から差し込んでくる月明かりを頼りに靴を脱がせ、起こさないようにそっとベッドの上に汐見を横たえる。ジーンズの裾から覗く丸い踝と、葉山の手のひらに収まる小さな足。華奢ではあるが、女性らしいなだらかな曲線を描く体を自分の視界から隠すように、布団を掛ける。
    この頃、こみ上げてくるものの抑えがきかない。汐見が研究よりも自分を選んでくれたことが契機となり、恩義という重石で蓋をし、目を背けようとしてきた恋慕の情が、出口を求めて荒れ狂っている。
    葉山の口内は渇ききり、体は熱を宿していた。自分の心音が聞こえる。肘をつくと、ベッドは僅かに軋みを上げた。ぎくりとするが、汐見は起きない。砂糖菓子のような頬にかかる横髪を払い、眼鏡を外してサイドボードに置く。寝息に混じる匂いに誘われるまま、顔を近づける。甘美な香りを閉じ込めるように唇を塞ごうとして、思い留まる。
    ――資格が無い。
    彼女を守れもしなかったのに、恩を仇で返すような真似は出来ない。体を離すと、閉じていたはずの汐見の目蓋が震えた。
    「――葉山くん」
    「起きたのか」と葉山は平静を装いベッドの縁に座る。汐見は目元をこすり、焦点の合わない瞳で葉山を捉える。
    「あれ 今日もみんなでパーティーじゃなかったの」
    「ああ。お前が寝たから、ふみ緒さんに呼び出されたんだよ」
    汐見はバネ仕掛けのように上体を起こす。
    「ご、ごめんね。せっかくみんなといたのに、私のせいで。もう大丈夫だからみんなの所に戻って――」
    謝るくらいなら最初から飲むなと責めたくなるが、寮にいる間は葉山は他の学生と、汐見はふみ緒と過ごす時間の方が多い。子供は子供と、大人は大人と、異なる付き合い方をしているので口出ししづらい。
    「別にいいよ。一昨日も朝まで付き合ったしな。それに、今戻った方が場がシラケる」
    もしかしたら、天井裏か廊下で聞き耳を立てているかもしれない。葉山には理解できないが、吉野を筆頭に、何故か自分と汐見の関係は周囲の興味を集めている。
    「養親の葉山教授のゼミ生が潤だったから、ガキの頃から知っているだけだ」と寮生には詳細を省いて説明してある。出会いまで明かしたら、どれだけ食いつかれるか知れたものではない。
    「そういえば、例の焼そばとラーメン、美味いって好評だったぞ」
    「ほんと 良かったぁ。あれは商品開発部の人が妥協しないで、こっちの要望を汲んでくれたものねぇ」
    「何が『良かった』だよ。焼そば一年分で今回の契約打ちきりの件を反故にしようって言うなら、完全に舐められてる。研究以外の対人スキルが低い教授と、高校生の助手なんて、ただでさえ軽く見られるんだからよ。打診のあったライバル会社の方と提携した方がいいんじゃねぇか」
    「もう、どうしてそんなに喧嘩腰なの 商品の完成度と契約の件は別の話じゃない。こっちもドタバタしてて落ち着かないから、再契約の相談に来てもらうのは来月に設定したよ」
    「了解」
    「あ、そうそう。薊先輩に接収されてたゼミ室と機材の管理責任者名、今日正式に全部私の名前に変更できたよ。これでまた一緒に、あそこに住めるね。取られたデータも全部戻ってきて、中身も確認したけど手はくわえられてなかったよ。まあデータだけあっても、それを活かせる人は限られてるんだけどね」
    「そうか」
    汐見の笑顔を見て、少し安心した。手放しに喜びきれないのは、自分の無力さを改めて思い知らされるからだ。
    他の生徒と研鑽を積み学生生活を楽しむこと。それが汐見の望みだ。だが、自分の人生の充実のために、彼女の糧である研究を犠牲にする選択をさせた。その後悔がずっと、澱のように黒く体に沈んでいる。
    「短い間だったけど、ここにいると学生の頃に戻ったみたいだったよ」
    汐見の声は弾んでいる。嬉しそうな彼女を見ているのは、この上なく幸せだった。
    「畑の隣に置かせてもらってるスパイスの温室もまた移動させなきゃいけないから、トラック借りてこなきゃね。芽が出てきた鉢もあるから、丁寧に運ばないと。葉山くんの取ってる授業も、来週全部再開されることが決まったから、引っ越し作業は今週末に終わらせた方がいいかなぁ」
    「その件なんだが」
    「ん」
    汐見は問いかけるように葉山を見つめてくる。ゼミ室が返還された喜びからか、いつも以上に無防備な彼女を見ていると、抱き締めてめちゃくちゃにしてしまいたくなった。
    極星寮に来てから、ずっと考え続けていた。彼女の望みに沿い、さらに自分の願望をかなえるために取るべき選択。
    「俺はこのまま、極星に残りたい」



    「汐見先生、質問があるんですけど」
    金曜午後の二年生の授業後、汐見は三人の女子生徒に囲まれた。冬の夕方は日の入りが早く、窓の外は既に薄暗い。
    授業に関する質問かと思えば、生徒達はお互いを肘でつつきあって顔を見合わせた後、探るように訊いてきた。
    「あの、一年の葉山くん、先生の助手を辞めたって本当ですか」
    またか、と汐見は胃痛を覚える。この質問を受けるのは何度目だろう。
    その成績と容姿のためか、葉山の動向は生徒教師問わず中等部の頃から注目を集めてきたが、今回は機関との一件もあり、噂の的にされ続けている。同僚の教師には「葉山くんさえ良ければ是非うちの助手に」と声をかけられたし、既に外部の食品会社やレストランも葉山獲得に向け動いているらしい。だが、女子生徒達の興味はそれとは多少ずれていた。
    「寮生活を始めたの、極星寮に好きな子がいるからって噂ですけど」
    「え、嘘 薙切アリスを巡ってお付きの一年と争ってるんじゃないの」
    「でも選抜優勝の時に見せた、先生との師弟愛説もあるじゃない。ですよね 先生」
    「そんな説は知りません」
    汐見は傍若無人な若さの前にどっと疲れを覚える。
    生家が裕福で箔をつけるために遠月に在籍している生徒の中には、授業よりも噂話に精を出す者も多い。彼女達も二年次まで在籍できたことを手土産に、今年度で遠月を去るのだろう。他者への興味が薄く、慢心せず料理の腕を磨いている葉山とは大違いだと、つい比較してしまう。
    「学業を優先して貰うために助手の仕事量を減らしているだけで、辞めてはいません。寮生活もその一環。その他の私生活については知りません」
    「えー、嘘ぉ」
    「葉山くん、フリーじゃないんですね~」
    「なんだぁ、つまんない」
    これ以上聞いても無駄だと悟ったのか、残念そうに女子生徒達は去っていく。自分の学生時代もあんな風だったろうかと汐見は考える。いや、研究が第一で、その他のことは二の次だった。
    『極星に残りたい』
    あれからもう二週間が経つ。薊が総帥になる以前の生活に元通り戻れるとは期待していなかったが、葉山と離れて暮らすことになるとは考えもしなかった。当たり前のように一緒に寮を出て、このゼミ室兼住居のボロ屋に戻るのだと思っていた。
    『他の奴らから学ぶべきことは学び、吸収できることは吸収したい。温室はこのまま置かせてもらって、俺が管理する。実験や来客対応で俺が必要な時は戻るが、しばらくはどのプロジェクトも再開できないだろ それまで、寮にいさせてくれないか』
    葉山の申し出に対し、自分はどう反応したのだったか。二つ返事で了承したのだったか、一呼吸置いて考えたふりをしてから受け入れたのだったか。
    ――「何でそうなるの」って思ったのに。
    本心が顔に出ていなかったか、今更ながら心配になる。 
    葉山には学友との交流を楽しんで欲しいと望んでいたはずなのに、何故心から喜べなかったのだろう。それどころか、薊に葉山を奪われた時の状況、心境と重なりさえした。あの時とは全く異なる肯定すべき選択なのに、自分は選ばれなかったとすら感じた。矛盾している。これは子離れ出来ない親の心境だろうか。
    ――つくづく自分勝手だなぁ、私。
    『極星寮に好きな子が』
    『薙切アリスを巡って』
    先程の生徒達の声が、頭の中に反響してうるさい。自分が関知していないだけで、本当に葉山には好きな人ができて、世話の焼ける保護者気取りの自分とは距離を取りたいのかもしれない。極星寮の生徒は皆性格の良い子ばかりだったし、薙切である点は苦労が予想できるが、アリスも将来性のある優秀な子だ。
    葉山が好意を抱く人が、葉山を大事に思ってくれる人ならいい。それこそ喜ぶべきことなのに、想像しただけで気持ちが鉛のように暗く沈んでいった。
    もしも葉山が機関に身を投じたあの日、引き留めることができていたら、極星寮に世話になることも無く、今こうして離れて暮らすことも無かったのだろうか。
    授業の後片付けをして、ゼミ室を掃除する。葉山がいなくなってから部屋が妙に広く感じられ、一人でいると心細い。また研究データを盗まれないようセキュリティを強化したにも関わらず、夜になると恐怖を感じる。自然、床で寝落ちする癖も無くなった。
    今夜は実験の手伝いのために葉山が帰ってくる。
    葉山の好物を作って待っていようと思いつくと、少し気持ちが明るくなった。寒い中ここまで来るのだから、体が暖まる料理にしなければ。鍋料理は寮のみんなで囲んで食べているかもしれないから、ひねりは無いがカレーがいいか。生産部門にいる同期からカリフラワーを貰ったし、アルゴビを作るか。
    思案していた所に、ドアの横の電話の呼び出し音が鳴った。もしかしたら葉山からかと浮足立った気持ちで受話器を取ると、聞こえてきたのは英語だった。相手は学生時代から汐見に援助を行ってきた海外の研究所で、古い付き合いではあったがここ数年は疎遠になっていた。
    「薙切薊の件ではご苦労されたようですね」
    互いの無沙汰を詫びた後、相手は汐見の傷口を抉るように切り出してきた。
    「親族経営の上、学生が権限を振りかざす遠月よりも、我々の元で働く方が貴女のためになるのではありませんか 以前お話した際は、養子が中等部に入学が決まって遠月を離れられないとの事でしたが、現在彼は高等部二年次進級も確実で、充実した寮生活を送っているとか」
    機関との一件はもとより、葉山のことまで並べられては気が滅入る。それだけ先方がこちらを欲しがって調べ上げているということでもあるが、その熱意はありがた迷惑で警戒心を煽られるばかりだった。
    こんな時に葉山がいれば、スマートかつ有無を言わせず断ってくれただろうにと汐見が言葉を探していると、相手は念を押すように言った。
    「もう彼は、貴女の援助無しでも生きていけるでしょう 我々はいつでも貴女をお待ちしています」



    「ぼうっとしてる」
    頭の上にポンと手を置かれ、パイプ椅子に座ってスパイスの計量をしていた汐見は反射的に肩を釣り上げた。顔を上げると、背もたれ越しに気遣うような表情で葉山が見つめていた。白衣を着た彼を見るのずいぶん久しぶりで、写真を切り張りしたように部屋から浮いて、ここにいるのが不思議に感じられた。
    「奥の部屋から必要な器材持ってきたぞ」
    「うん、ありがと」
    「頭働いて無ぇだろ。夕飯も量も品数も多かったし、授業の後でよくあれだけ作る余裕あったな。実験よりも寝てた方がいいんじゃねぇか」
    「あはは、外部に解析を頼むから、これだけは今日中に終わらせて土日にデータをまとめちゃいたいんだ」
    汐見は葉山にごまかすように笑いかける。
    「最近ずっと一人で食事だったから、二人分の分量を忘れてたというか、ついはりきって作っちゃって。でも葉山くん、デザートまで完食したじゃない」
    「……腹減ってたからな」
    葉山は汐見から顔を背けてぼそりと呟く。もしかして、分量のみならず味まで失敗していただろうかと汐見は焦る。これでは元十傑の名折れだ。
    考え事に気を取られて、他が疎かになっていたのは事実だった。
    ――この際だから話してしまおうか。
    以前堂島にも、葉山を子供扱いするよりも頼ったらどうかと助言されている。二人きりで暮らしていた時は、保護者と被保護者、教授と助手の関係性に明確な線引きが無く、伝えるべきことも伝えられなかった。離れて生活する今の方が、逆に気兼ねしない。
    「作業しながらでいいから聞いて貰える」
    葉山は無言で頷いた。
    「今日ね、昔私の研究に出資してくれた研究所から電話を貰ってね。遠月を辞めて来ないかって誘われたよ。断ったけどね」
    「それは、アメリカにある研究所か」
    汐見は驚く。
    「そうだけど、葉山くんに話したこと無かったよね」
    「ふみ緒さんの、極星寮の黄金時代の話の流れで聞かされたんだよ。潤が中等部の頃から目をつけてて、四年前、遠月より好条件で雇おうとした研究所があったって。そこが教授待遇でお前を迎えるって言うから、遠月もお前を教授にすることで引き留めた」
    「一応この業界だと、それなりに需要があるからね、私」
    自慢ではなく、自嘲するように汐見は言う。
    「葉山教授が後任に推して下さったおかげだけど、まさか日本で二十代のうちに教授になれるなんて思わなかったもの」
    当時のことを思い出すと、懐かしさに自然と顔がほころぶ。学生時代から積み重ねてきた業績はともかく、教授に抜擢されるには若すぎると汐見自身が喜ぶよりも先に怖さが勝ったし、葉山には「教授ってのは葉山教授みたいに、年取って威厳がある奴がなれるもんじゃないのか」とまず驚かれた。
    『潤は凄いんだな』
    葉山に感心され教授就任を祝われたのは、他の誰からの祝辞よりも嬉しかった。しかしあの頃から、葉山の自身を追い込む癖は始まっていた。
    『潤も徹夜してるじゃねぇか』 
    『潤が俺の年にはもう出来ていたことだろ』
    私を基準にしてはいけない。年齢も違う、持ち合わせた才能も違う。そう諭しても、周囲に葉山がロールモデルとするのに適した人間がいなかった。
    「四年前に誘いを蹴った理由は、俺がいたからか」
    そう聞かれるのが解っていたから、ずっと打ち明けるのをためらっていた。汐見は葉山を見上げる。汐見自身は学生時代からほとんど成長していないのに、葉山は年を経るごとに外見も内面も成長していく。
    下唇を湿らせてから、葉山の求めた答えをくれてやる。
    「そう、アキラくんがいたから。アキラくんを連れて渡米も考えたけど、せっかく日本での生活にも慣れたのに、また新しい環境で一からやり直すのは負担が大きいと思ったんだよ。私自身、人見知りで自分の世話すらろくにできてない状態だったしね」
    「自分の世話もできないのは今もだろう」と揚げ足を取られるかと構えていたが、葉山は用意したスパイスのサンプルを機械にかけながら、淡々と続けた。
    「前に酒飲んで寝落ちしたお前を迎えに行った時、ふみ緒さんが『俺がいるから潤はここにいてくれる』と言っていた。その時は、俺が極星にいるからお前も極星に住んで、酒飲み相手が出来たくらいの話だと思ったよ。本当は俺がいるから、お前は遠月に残ってるって意味だったんだな」
    そうだ。ゼミを解体された時も、葉山が在学していなければ、自分は抗いもせず大人しく遠月を去っただろう。単に研究をするだけなら、他にも居場所はある。葉山は感情を圧し殺そうと努めているのか、詰問しながらも声は荒げなかった。
    「今までだって俺に言わないだけで、遠月以外からの引き抜きの話はあったんだろう 俺がガキだから黙ってたのか」
    答えは全てイエスだったが、理由としては不十分だった。
    「遠月を離れるメリットが無かったからだよ」
    「何で今回も断った ここみたいに、またいつゼミを解体されるかもしれないような所よりも、落ち着いて研究できるんじゃないか もう俺の存在は理由にならないだろ。四年前の俺とは違って、日本での集団生活にも慣れた。潤がいなくても一人でやっていける」
    ――私がいなくてもやっていける、か。
    先方の研究所が全く同じ文句でスカウトしてきたと打ち明けたら、どんな反応をするだろうか。何故か泣きたくなるような切なさがこみあげ、胸が締め付けられる。
    「薊先輩が総帥のまま、アキラくんも退学扱いで遠月を出なければならない場合は、そちらの研究所に移ることも考えていたよ。そこは香辛料や食品関係がメインじゃないから、私と関係があった企業や学会とは違って、先輩もマークしてなかったみたい。でも、今はこうしてゼミも復活したし、遠月は私の母校で愛着があるからね。それに――」
    葉山は自分のせいで汐見の選択の幅を狭めているのだと自責の念に駆られているのだろうが、違う。
    ――私がアキラくんから離れたくないだけ。
    それを口にしたら、保護者として終わりだ。だから汐見は、親代わりとしても教師としても無難な言葉を選んだ。
    「せめてアキラくんの卒業までは、ここにいたいんだ」
    「その後は」
    離れて暮らそうと、葉山が助手である限りはこうして共に過ごす時間を作ることはできる。だが、彼が卒業した後はどうなるだろう。自分は置いて行かれるのではないか。あの日、ゼミ室を出ていく葉山を止める術が無かったように。
    汐見は遠からず訪れる現実から目を背ける。
    「またその時になったら決めればいいかなぁ。抱えてたプロジェクトも、当初の契約通りなら後二年の期限で設定してあったし」
    葉山が卒業するまでの、後二年。
    助手としての葉山は優秀だ。だがこのまま自分が指導していても、葉山の持つ可能性を引き出しきれない。教師としての汐見は、葉山には卒業後に外部で見識を広めて、より成長して欲しいと願っている。親としても、心配は多いが巣立つことを望んでいる。ただの汐見潤は小さく、我を殺してうずくまっている。
    それきり実験に関係の無い話は口にせず、黙々と作業を続け、夜九時を回った頃には予定していたノルマは終わった。
    「ありがとう、葉山くんのおかげで助かったよ」
    「今はこれくらいしか出来ねぇからな」
    汐見が微笑むと、葉山は目をそらした。今日はよく視線を外される。今まで黙ってきた引き抜きの件が、葉山の自尊心を傷つけたのだろう。お茶を淹れようかと思ったが、葉山は白衣を脱いで代わりに黒いコートを羽織り、早々に帰り支度をしている。いつまでも長居をさせるのは申し訳なくなった。葉山には葉山の、寮での生活がある。もしかしたら、早く戻って好きな子に会いたいのかもしれない。汐見の内心を見透かしたかのように、葉山は言った。
    「俺も月曜提出のレポートを仕上げなきゃなんねぇから、寮に戻る。でも用があったらすぐ呼べよ。重い物や高い場所の物を運ぶのは俺がやるから。ハーブもいる物があったら温室から採ってくる。研究費の申請は――」
    「もう、そこまでやってもらったら、葉山くん極星にいる意味無いじゃない 」
    「授業とゼミが軌道に乗るまでは心配なだけだよ」
    葉山の気遣いが嬉しいはずなのに、何故か悲しい。葉山のこの優しさはきっと、自分以外の誰かにも向けられているのだと想像するからかもしれない。
    「……今夜も忙しいのに手伝わせちゃってごめんね。暗いから気を付けて帰ってね」
    ――帰る
    自分で口に出して、違和感に気持ちが悪くなる。ここが葉山の家、葉山が守ろうとしてくれた居場所のはずなのに、見送らなければいけないのはおかしい。
    「じゃあな、潤」
    背を向ける葉山が、あの日の姿に重なった。気がついたら足が動いていた。腕を伸ばして衝動に突き動かされるまま、葉山の背中に抱きついていた。あの日はただ、立ちつくして見つめることしかできなかったから。
    「――潤」
    汐見は葉山のコートに顔を埋める。きっと自分は、泣く寸前のひどい顔をしている。
    「ごめん――またアキラくんが機関に行った時みたいにいなくなっちゃう気がして。あはは、おかしいな……」
    いい年をして抱きついてどうする。何て浅はかなのだろう。行かないで。傍にいて欲しい。そんな言葉で引き留めてもいけない。葉山を困惑させ失望させるだけだ。それこそもう本当に戻ってきてくれなくなってしまう。
    「――馬鹿だな、潤は」
    乾いた声と共に、汐見は腕を引かれ葉山の胸の中に抱きこまれていた。熱い体温に全身が包まれ、押し潰された胸の下で心臓が早鐘を打つ。以前にも同じ熱と苦しさを味わった。つい数か月前のことだ。秋の選抜の決勝戦で優勝が決まった後、公衆の面前で抱きしめられた。今は二人きりだ。不意に拘束が緩み、何かと思い顔を上げると、額に唇を落とされた。軽く触れただけですぐ離れたはずなのに、そこだけじんわりと熱を伴って感じられる。
    葉山を引き取ったばかりの頃は、就寝前に額や頬にキスをしてはうるさがられた。ただそれは汐見からの一方的なスキンシップで、葉山からされたことは一度もない。だからこの口付けの意味が解らない。
    ――親愛表現
    そんなわけは無いと否定する汐見を、彼は大事な助手で大事な子供だという、良識的な汐見が覆う。自分の感情から目を背ける。認めないようにする。私は保護者であり教師だ。
    葉山は汐見を腕の中に閉じ込めたまま、空いている手で携帯電話を取りだした。どこに電話をかけるつもりかと思えば、馴染みの名が出てきた。
    「――ふみ緒さん、葉山です。すみませんが、実験が立て込んでいるので今夜はゼミに泊まります。ええ、明日の夕方には戻ります――はい、潤に代わります」
    急に電話を押し付けられて、汐見は促され状況に流されるまま、まとまらない思考で話す。
    「あ、もしもし、お世話になっております、汐見です。はい、ええ、今夜はこちらで預かりますので――はい。お休みなさい」
    通話を終える頃には、汐見は幾分冷静さを取り戻していた。葉山の嘘に同調してしまった。それなのに、ふみ緒に対する後ろめたさよりも、秘密を共有する暗い高揚感の方が大きかった。葉山は何を考えているのだろう。問いただす前に、強く抱きすくめられた。
    「潤のせいだ」
    葉山は汐見の華奢な肩に顎を載せる。
    「いきなり抱きついてきて……一人にさせられるわけねぇだろ」
    耳元で熱い呼気と共に囁かれ、汐見はびくりと体を堅くする。長い髪を指で梳かれ、余計に全身が過敏に反応していく。髪自体には神経が通っていないのに、どうしてこんなに触れられる感触が伝わるのかと余計なことを考える一方、葉山に抱かれている今この状況が整理できない。自分が招いた事態なのに。余裕を欠いた声が直に響く。
    「何のために俺が極星に残ったと思ってんだ」
    ――学友達と研鑽を積むため。
    葉山が友人達と楽しそうに過ごしているのを見るのが好きだった。しかしそれは、葉山が自分の元にいる安心感を前提にしてのことだったのだ。仕事の上でも私生活においても支えられて、その上精神的にもどれだけ彼を頼みにしてきたのだろう。子供ではなくパートナーとして、彼を必要としていたのだ。
    ――私は、アキラくんのことが。
    「好きだ」
    顎をすくわれ上を向けさせられた。葉山の顔が近づいてくる。唇を押し当てられているのだと気づくまで、どれだけ時間がかかっただろう。髪を弄んでいた指が首筋を舐めるようにたどっていき、体の奥が甘く痺れる。その感覚をやり過ごそうとしても、褐色の手は鎖骨をなぞり服越しに胸に触れてくる。葉山の顔が見られない。
    「潤が嫌なら、やめる」
    ――嫌
    自分に問う。嫌ではない。だから拒まなければならない。
    「そういう問題じゃないよ」
    汐見はふらりと力の入らない足で葉山の腕から抜け出し、自分と葉山に言い聞かせるように告げる。
    「私は君の親代わりだもの」
    今まではその立場は、汐見の盾であり壁だった。外部に対しても、自分に対しても。
    「悪いが俺はお前のことを、親だなんて思ったことは一度も無い」
    葉山は目を伏せ、耐えてきたものを滲ませるように、低い声で言った。それが、単に大人として頼り無いからという意味合いで無いことは、汐見にももう解る。
    「親や家族がどんなものか知らない。俺には潤との生活しか無かった。でもそれで充分だ。寮で暮らすようになってから余計に、お前が特別だって解ったよ」
    最初は研究者として、優れた嗅覚の持ち主である少年に魅了された。いつからだろう。彼が他の何よりも代えがたい存在になったのは。
    「潤が俺を子供としか見ていないと解ってたから、卒業するまでは黙っていようと思った――どの道今の俺じゃ、お前の隣に並ぶ資格も無いしな」
    思い詰めた葉山の告白に、汐見は愕然とする。資格 そんなものは、私の方こそ持ち合わせていない。
    薊の企みに翻弄され、幸平に敗北を喫した。何より汐見に研究を捨てさせる選択をさせた。それが葉山の中でどれほどの傷となっていただろう。葉山が自身の弱さをさらけ出したことなど、今まで無かった。
    急に涙が溢れ、抑えてきた想いがこぼれ落ちた。
    「私はアキラくんが傍にいてくれたら、それだけでいいの」
    葉山が息を飲んだのが解る。汐見は自分を止めることができなかった。
    「前にも言ったよね 私にとって一番大切なのは、アキラくんだから。こんなこと言っちゃいけないけど、この二週間、ずっと一人で寂しかったよ」
    これでもう、親としても教師としても失格だ。だが、自分の中で黙殺してきた感情を吐き出せたことで、清々しさも感じていた。何もかもが決壊していく。
    「馬鹿だな」
    再度葉山は繰り返す。その声音は温かい。
    葉山は汐見の眼鏡を外し、目尻に溜まった涙を指で拭う。その仕草の優しさと愛しさに、また胸が苦しくなる。ただこの苦しさは、嫌いではない。
    ――私は彼が好きなんだ。
    改めてそれを実感する。
    「――やっぱり、極星に戻るよ」
    「え」
    汐見は葉山の言葉に、反射的に声を上げる。取り残される悲痛を想像し体が凍りつく。葉山はそんな汐見の様子に、「違うよ」と苦笑いを浮かべた。
    「このまま襲わずにいられる自信が無い」
    葉山の言葉に汐見は絶句し、耳まで赤くしてうつむく。外まで聞こえるのではないかと思うほど、バクバクと心音がうるさい。子供であり生徒であった葉山の姿が、頭の中で一人の男として上書きされていく。落ち着かない気持ちをなだめるように、汐見は自分の服の裾を握り締めて告げる。
    「――泊まっていって」
    今度は葉山が目を見開く番だった。汐見は急いで付け加える。
    「その、資材もそろってて、葉山くんに付き合ってもらいたい検証があるから」
    「そっちかよ」
    落胆を隠さない葉山に、眼鏡をかけ直した汐見は弁明する。
    「だって、ふみ緒さんに嘘つけないもの。葉山くんにもそんな真似して欲しくないし。これなら実験が立て込んでるから帰れないって、言い訳じゃなくなるでしょう」
    「そうだな、お前はそういう女だったな」と葉山はコートを放り投げどさっとソファに座り込む。
    「次は嘘はつかないで、外泊許可を取ってくればいいんだな」
    「な、どうしてそんなこと考えるの 先生そんな子に育てた覚えはないよ」
    「俺もお前に育てられた覚えはねぇよ。なあ、もう保護者ヅラと教師ヅラすんの、やめてくれないか」
    「後二年、卒業するまでは、名実共に私は君の先生なんだけど」
    きっぱりと言い切った後、「だから、その、もし――」と急に汐見は語調を弱める。後二年。今までも生徒達の退学、卒業を見送ってきた。長いようで短い期間。それを過ぎたら、教師と生徒という壁も瓦解する。その時の自分の年齢を考えると気が遠くなるし、葉山も心変わりしているかもしれない。だが、それでも構わない。今まで彼が与えてきてくれたもので、自分は生きていける。
    「二年経っても、まだ私を好きでいてくれたなら……その時は――」
    「その時は」
    意地悪く聞き返されるのと、手首を掴まれ引き寄せられたのはどちらが先だったろう。背中がソファに沈みこむ。埃っぽい布の匂いがする。所々変色した、石膏ボードの天井が見える。その視界も遮られ、葉山の褐色の肌と、その瞳に映る自分の姿を汐見は見た。教師でも親でもない、何の防御も持たない、ただの汐見潤がそこにいる。
    「――アキラくん あの……」
    「あれだけ煽られて、二年も待てるわけ無いだろ」
    汐見が問いを言い終わる前に、唇は塞がれた。



    「では極星全員の進級を祝い、乾杯~」
    今日も吉野が音頭を取り、寮生は丸井の部屋に集まっていた。
    「一昨日も他の一年を呼んでやったばかりなのに」と伊武崎がもらすと、「別の日にやる予定だった『一色先輩の三年進級おめでとう会』を同日開催できただけマシだよ。これで明日からしばらく資格試験の勉強ができる」と、丸井が疲弊した顔で言う。
    テーブルにはふみ緒からの差し入れと、皆が作った料理が置かれていたが、一品だけ異彩を放っていた。
    「こんなに和洋中バラバラの料理が並んでても、葉山くんが作ったお皿はすぐに解るね」と田所が言うと、榊もうっとりと頷く。
    「匂いだけで幸せな気分になれるなんて」
    青木と佐藤も顔を近づける。
    「このミートボール、ナツメグの他にも甘い匂いがするな」
    「あれだ、焼きリンゴの匂いだな。シナモンか」 
    「どれ、葉山。お前の料理実食するぞー」と幸平に声をかけられ、うるさげに葉山は手を振る。
    「ああ、勝手に食え食え」
    その時、室内の喧騒を割るように電子音が鳴った。
    「携帯、誰の」
    「俺だ」
    皆の注目を集める中、葉山が通話ボタンを押すと「葉山く~ん、助けて~」と、哀れっぽい声が届いた。
    「どうした潤――は 一時間後 今日は何もアポ入ってなかっただろ。受賞した 何で俺に言わねぇんだよ――何だそりゃ。どうして受賞者本人より先に新聞部が情報掴むんだ。ああ、解った。今から行く」
    通話を終えた葉山に、吉野が好奇心をあらわに問う。
    「ねえねえ、汐見教授、今度はどうしたの」
    「論文が賞をとって、遠スポが取材に来るからサポートについて欲しいんだと」
    「わあ、賞なんてすごいね! おめでとう」と田所は純粋に感動しているが、葉山は冷静だった。
    「全く、学内新聞の取材くらい一人でこなせよな」
    「またまたぁ。そんなこと言って、教授からお呼びがかからなくなったらどうするの」 
    試すような吉野に、葉山は言い切る。
    「それは無い。あいつは俺がいないと何もできない女だからな」
    そのあまりの自信に一瞬ひるみながらも、吉野は爆弾を投下する。
    「でもさ、学内で教授が金髪碧眼のスーツの男の人と、仲よさそうに歩いているの見た子がいるんだけど」
    「ああ、潤の研究に昔出資してたっていう、ただのビジネス相手だろ。何度断ってもあいつを引き抜きたがるっていうんだから、物好きな奴もいたもんだ」
    「ふふーん、じゃあそういうことにしておいたげる」と吉野は含みを持たせる。
    葉山は涼しい表情のままだったが、握っていたプラスチック製のフォークは力任せに真っ二つに割れていた。気づかれないうちにゴミ箱に捨て、「悪いがちょっと出てくる」と葉山は立ち上がる。
    平日休日を問わず、葉山が汐見に呼び出されるのは今に始まったことではないので、男子生徒達は「行って来い行って来い」と見向きもせずに送り出す。
    「何の論文の受賞か知らないが、教授にはおめでとうと伝えておいて」
    「あ、私からもおめでとうって伝えてね」
    「今夜は戻って来なくていいからねー」
    「うるせえな。日が変わる前に帰ってくるから、食うもん残しとけよ」
    葉山が慌ただしく去った後も、吉野は榊と田所を相手に葉山と汐見の話で盛り上がる。
    その一方で、テーブルの一角だけは時が止まっていた。
    「どうしたんだい、創真くん」
    一色は葉山の料理を口にした後、固まっている幸平に話しかける。
    「いや、葉山がここに来てから、あいつの作る料理は何度も食べてきたんすけど。これは――」
    「どれどれ」と一色も箸を伸ばし、ミートボールを口に運ぶ。その瞬間、絶やすことの無かった笑顔が表から消えた。
    「ああ――彼の料理、変わったね」
    一色は穏やかさの消えた目で幸平を見、同意する。
    「俺、もっかい厨房で何か作ってきていいっすか」
    「僕も行くよ。うかうかしていると、無事に十傑の座を保持したまま卒業できないかもしれないからね」
    二人の様子を遠巻きに見ていた伊武崎と丸井はじめ、他の寮生も葉山の料理に手を伸ばす。
    口に含む前から感じ取れる、そこには圧倒的な多幸感があった。
    肉の芳醇な匂いを引き立てるように、鼻孔をくすぐるシナモンの香りは、皿の上を甘く漂っていた。
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