治と梅雨の話梅雨が嫌いだ。
雨が降ると、異能が扱いにくくなるから。
梅雨が嫌いだ。
重たい空気にのまれて、感傷に浸ってしまうから。
梅雨が嫌いだ。
涙も、声も、雨が全てをかき消してしまうから。
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思えば、この時期の彼女はいつも憂いを帯びたような表情をしていた。
「あの、太宰さん」
「敦くんか。如何したんだい?」
「伊織さん、大丈夫でしょうか?今朝からずっとあの様子で…」
現在のヨコハマは梅雨真っ只中。洗濯物が乾かないとか、湿気が高いとか、偏頭痛がするとか。探偵社でも連日その話題で持ちきり。唯一「雨は天からの恵みです!」と元気いっぱいな賢治くんも仕事に駆り出され、社の活気も鳴りを潜めている。
「彼女だって、一人で居たい時くらいあるさ。敦くんにもない?センチメンタルな気分になること」
「確かに…如何しても気分が落ち込む時ってありますもんね」
「そゆこと。伊織のことは私に任せて、仕事に集中するといい」
そう諭すと、ほっとしたような表情を見せて社を出ていった。敦くんにはああ云ったものの、伊織のそれは単純な気持ちの浮き沈みでは無い。皆それを察して伊織の好きなようにさせている。何も云わずココアを出し、彼女の机に重なる資料を片付ける。彼女がいざ机に向かえば、お菓子を差し入れたり膝掛けを貸したりする。国木田くんに至っては、梅雨の間の業務予定に“伊織の代理で仕事”と書き込んでいるくらいだ。
たった一度。彼女から漸く名前で呼ばれるようになった頃、教えてくれた家族のこと。そういえば、妹さんの命日はこの間過ぎたばかりだったね。
椅子の背もたれに体重を乗せながらそんなことを考えていると、私の視線に気がついた伊織が顔を上げて手を振った。
「雨は止みそうかい?」
『ぜーんぜん。天気予報だと一日中雨だって』
「げ、梅雨は大変だよねぇ。私のこの髪、湿気に滅法弱くてさぁ」
『…それは困るね』
ほら、また。眉を下げて困ったように君は笑う。如何したものかと肩を竦めれば、察しの良い彼女は気まずそうに視線を逸らした。
「私たちは八年もの付き合いになる。私の前で気を張るのは、もう辞めて欲しいのだけど」
『……有難う。あーあ、治は本当に残念なイケメンだよね。勿体ない』
「おや、今知ったのかい?私はずーっと前からイケメンだよ」
『相変わらず都合のいい耳してるなぁ』
「あはは〜」
そうだよ。君はそうやって、大口開けて笑っていればいいんだ。
子供の声に反応して窓の外を覗く彼女に、私も釣られて外を見た。重怠い天気模様のなか、それを打ち消すような笑い声を響かせる子供たちに、ふとこじを保護していた友人を思い出した。
___ねぇ、織田作。こんな大役を任されるなんて聞いていないよ。
でも、君の言葉がなければ彼女はきっと壊れていた。彼女が一番心を許していたのは君だったんだから。君がいなくなった後、彼女がこうやって笑えるようになるまで…どれほど大変だったか判るかい?君のかけた言葉のおかげで、今彼女はここに立っている。そして私も、未だ死ねずにいる。全く困った友人を持ったものだ。
「私は梅雨が好きだよ」
『先刻まであんなに愚痴を云っていたのに?』
「うん、伊織の誕生日があるからね」
私の返答に目を瞬かせる伊織は本当に驚いているようで、ぽかんとした表情で固まってしまった。
「どれだけ嫌なことがあろうと、大切な友人の存在で全てひっくり返ることもあるのだよ」
『…そっ、か』
私の言葉を何度も反芻して、納得したように頷く。彼女の口元には小さく笑みが浮かんでいた。先刻とは違う、心からの優しい笑顔が。
『私も少し梅雨が好き』
「へぇ、どうしてだい?」
『治の誕生日があるから』
意外な答えに、今度は此方が驚く番だった。仕返しのつもりなのだろう。歯を見せて楽しそうに笑っている。
……全く、友人にはどう足掻いたって敵いそうにないね。
『大切な友人が生まれてきてくれたんだ。これほど嬉しいことは無いよ。出会ってくれてありがとね、治』
「こちらこそ」
彼女がいつか、自分の居場所はここだと胸を張って言えるようになったその時は____。
その未来に自分がいるとは限らないのに、柄にもなく、そんな事を考えてしまった。