オールトの雲(シャアシャリ) 内部気圧0.3。上部胴体、下部胴体、グローブ、ヘルメット、生体維持装置、通信機器等で構成される甲冑。
飛び交う宇宙放射線、-210度という超低温、そして何より真空。宇宙空間において、人は身を守るためのこのノーマルスーツ無しでは生存しえない。
視認が可能となるのはヘルメットのシールドから覗ける範囲のみ。西暦1969年に人類がはじめて月に到達したときよりは随分と軽量化をはじめとして性能の向上がはかられてはいるが、それでも生身で宇宙に飛び出すことはできない。
「大佐、ノーマルスーツを着用なさってください!」
敵の艦を発見。各員第一級戦闘配置。
艦橋より齎された艦内放送により、慌しい緊張状態にある強襲揚陸艦ソドン。
MS格納庫へと続く通路の先に赤い軍服と黒い外套が閃くのを視界に捉え、咄嗟に声を張り上げる。
聞こえない振りをされることも計算に入れていたのだが、意外なことにしなやかな背は踊るような動きで鮮やかに振り向いた。
「シャリア・ブル大尉か」
今はじめて貴公を認識した、とでも言うような空々しい調子で名前と階級を呼ばれる。
ほかの人間ならともかく、あなたが近付く私の気配に気が付かないなどということは有り得ないでしょう、という抗議を込めてじっと見つめると、仮面の男は白手袋に覆われた掌を私に向けてひらひらと振った。
「そう睨まないでくれ。お説教を食らう前にガンダムに乗り込んでしまおうと考えていたのに追いつかれてしまったな、と思っていただけさ」
素直なのは結構であるが少しくらいは悪びれてほしい。些細な悪戯を母親に見つかった五歳男児のほうがまだ真摯な反省の姿勢を見せるだろう。とはいえ私は両親を知らないのでそのあたりは推測の域を出ないが。
「それだけ分かっていてなぜノーマルスーツを着用してくださらないのですか」
「兵を怯えさせてどうする」
「ドレン大尉がいらっしゃるのはこの艦の艦橋です。あなたが今から出撃するのは宇宙空間でしょう」
旧知の副官の言葉で誤魔化そうとしても無駄ですよと含めると、形の良い唇の端が吊り上がる。
随分と機嫌が良い。生来の勘の良さ、もといこの組織においてニュータイプ能力と名付けられた力を使わずとも分かる程度には。
月基地の女傑よりの無茶振りでほぼ休みなくフラナガン機関の研究協力をさせられていたかと思えば、連邦軍の艦隊と出くわしじり貧状態にあった味方を援護しろとの急な出撃要請、そして見敵である。機嫌が良くなる要素は地球連邦軍が今すぐ無条件降伏する可能性より無いと思われるのに不思議なことだ。
「私がみすみす撃墜されるような男と思うか?」
「いいえ。ですが万が一ということがあります。宇宙空間に放り出されてもノーマルスーツを着ていただけていれば生存の目がある」
赤い彗星。サイコミュによる全天モニターも、脳波で操るビットの遠距離攻撃も無いルウム戦役にて、ザク改を駆り連邦軍の戦艦を五隻沈めた怪物。
その他に類を見ないあまたの功績により若干20歳にして大佐。殉職でもしたかのような出世だな、と本人は冗談めかして笑っていたが、これは笑いごとでなく。士官学校を次席で卒業したエリートであることを加味したとしても、通常は殉職でもしなければこのような出世は有り得ない。
宇宙を切り裂いて不可能を一足飛びに可能にしていく彗星。私が指揮官であるのなら、おそらく二人と現れることはないこの才能を失うことを恐れて前線から退かせ後方勤務を打診しただろう。英雄を失うことでの士気の減退というものは馬鹿にできないところがある。例え本人が前線での勤務希望を出していたとしても却下する、私であれば。
それが実際に下される辞令ときた日には、ずっと前線を飛び回らされるというものだ。
着任前に大佐の簡単な経歴を確認して驚愕した。出世コースと言えば聞こえだけはいいが、この若者は戦争が始まってからほぼずっと命を張り続けている。
まれに前線基地への帰還命令が出たとしても、ニュータイプというたぐいまれなる才能の可能性を探るためと言われて機関での実験。
いくらジオンと連邦が人口の半分を失い、本来戦闘は門外漢である木星帰りの私が担ぎ出されるほど人手が不足しているからと言っても、この配置は少しどころでなく不気味だった。理由を知れば納得できることではあるが。
お前であればできるだろう、という信仰じみた期待と、それに隠れた、死んだら死んだで構わないという思惑と。ただの英雄に課すにしては重過ぎる課題を、青年は死線の上で笑顔を浮かべたまま解決していく。
「あなたは代えのきかない人なのですから」
私程度に勘の良い人間ならば、この広い宇宙を虱潰しに探し回ればいくらだって探せるだろう。幾度か訪れたフラナガン機関には幾人か才能を見出されて調査と訓練を受けていたニュータイプが存在した。
しかし、シャア・アズナブルに代用品はない。
ニュータイプ能力がどうこうではなく。こんなに眩しくかかわる者の目をみな眩ませていく人間は、きっと金輪際現れない。
「大尉がそう言うのなら考えておこう。……おっと、そろそろ時間だ、急がねばドレンにどやされてしまうな」
長靴が床面を蹴る。移動用のバーを白手袋が握る。滑るように移動する背を、こちらもバーに掴まって追い掛ける。
「大佐、話を逸らさんでください」
「逸らしてはいないさ。いま優先すべきは敵艦の撃破だろう?」
格納庫に到着するやいなや、大佐は強く床を蹴ってさっさとガンダムのコックピットにおさまってしまった。勿論ノーマルスーツは着用していない。ガンダムの最終チェックをしていた技官たちもいつもの暴挙であるので今更気にも留めない。
そうなれば私は、シャリア・ブル大尉、此方へ! と促す声に、抱えていたヘルメットを被って移動用の機体へと向かうよりほかないのだ。
『シャア・アズナブル、出る!』
一足先に、ビットを伴った赤い機体が宇宙空間へと飛び出していく。
私の乗騎であるキケロガはその大きさ故に格納庫に収納することはできず、ソドンの後方に曳航されている。そこまでは護衛されながら移動用の機体で向かい、コックピットに滑り込む。そういう理由で私の出撃は、ほぼ常に先を行く大佐の後を追いかけることになる。
「ありがとう」
ここまで連れて来てくれた部下に礼を言い、二重になっている気密室の内扉を閉める。エアロックを開け、宇宙空間へ。
この瞬間は幾度経験しても慣れはしない。ノーマルスーツはあくまで宇宙での生存を一定時間担保するものにすぎない。この押しつぶされそうなひたひたと迫るぬばたまと、遠くで光る星に息を呑む。エアロックの向こう側は音のない地獄だ。
板子一枚下は地獄という慣用句があるのだという。たとえば地球の海とやらに放り出されたとしても、いまと似たような気持になるのだろうか。真空の中でも水中でも、人が生存できないことに変わりはない。
キケロガのコックピットへ滑り込み、ひとつ息をする。操作系統は思うよりも単純なものだ。攻撃をしないのならばという条件においてはだが。
「シャリア・ブル、キケロガ、出ます」
感覚が研ぎ澄まされる。宇宙に上と下はない。見えないはずの上下左右、真後ろまでもをカバーする全天モニターの膨大な情報を、ヘルメットに組み込まれた機構の助けを得ながら脳で必死に処理する。
見つけた。
先を行く赤。そしてそのさらに先に、気配がひとつ、ふたつ、みっつ。敵のMS隊。
「軽キャノンか」
背後に浮かぶサラミス級の護衛だろう。と判断するが早いか、そのうちの一基が爆発した。聞こえてくる断末魔の叫び、木星での任務中に幾度となく聞いたそれが幻聴ではないのだと言ったフラナガン博士の顔を思い浮かべて眉をひそめる。
敵機が動揺しながらも周囲を警戒して動き回るのが分かる。ミノフスキー粒子下の戦闘は有視界で行われる。レーダーの類が役に立たないからだ。
つまりあの軽キャノンは、シャア・アズナブルのガンダムを未だ視認できていない。
「大佐はビットのみでけりをつけるおつもりか……」
視認されていないのであればそれが一番良い手であろう。相手の認識外からの長距離狙撃が、もっとも犠牲の少ない戦法だ。
軽キャノンの一体がまた爆散し、もう一体の右腕が破裂した。
直撃は免れたようだが、持っていたビーム・スプレーガンが吹き飛ぶ。
赤が、ぶち抜く。
砕けたMSの破片、宇宙を漂う小惑星。並みのパイロットであれば障害物として見做すそれを、赤い彗星は蹴りつけて推進剤を節約しつつ速度を上げる。
MS隊の防衛をすり抜けて、連邦軍の艦へ。
漸くガンダムの姿をとらえた敵艦が2連装機銃で仕掛けるも、赤い彗星は並みの機体なら接近を許さない弾幕をやすやすとすり抜けてブリッジへ迫る。次いで後ろから追い掛けるように飛ぶビットの一撃が銃座を潰す。
自由だ、と感じる。
きっとそれは、地球に存在するのだと言う鳥が空を飛ぶのを人が見て、鳥は自由だ、と思う感覚と似通っているのだろう。
重力から解放されているからというだけでは説明のできない軽やかさで、赤い彗星は宙を飛ぶ。
鮮やかに抜き放たれたビームサーベルが敵機の艦橋を貫いた。聞こえる数多の断末魔。できる限りものを考えぬように努めつつ、逸れた意識をモニターへ戻して。
「いけない」
右手を吹き飛ばされた軽キャノンが、残る左手でビームライフルを構えている。破壊された仲間の武器を拾ったのだろう。
狙っているのは赤いガンダム。
有線のメガ粒子砲を二本伸ばす。光の筋のひとつは軽キャノンの頭部を貫き、もうひとつはサラミスのエンジンを直撃した。
ガンダムが艦橋を蹴りつけ、推進剤をめいっぱい使用して宇宙を渡る戦艦から離れていく。
光が目を灼く。
同時に敵の艦に狙われていたジオンの軍艦が、無事に戦闘区域を離脱したとの通信が入る。
『よくやった大尉。周囲に他の機影なし。ソドンへ帰艦するぞ』
通信下であっても落ち着いて通る声に、拡散していた意識が収束していく。
「了解。シャリア・ブル、帰艦いたします」
先を飛んでいく赤い機体に、閃く黒い外套の幻影を見る。
彗星。遥か遠くから飛来する、太陽系の小天体。構成する物質は氷であり、細長い楕円を描いて公転する。太陽に近付くとき、氷が解けて長く尾を引く姿が地球から観測可能となる。夜空を駆け抜ける光。
手を伸ばす。
木星よりも遥か遠くからやって来て、人の生存できぬ宇宙を駆ける、誰も追いつけず掴むことも出来ぬ星の尾に。それでも追い掛けて、触れてみようと試みる。