ソドン首飾り事件【シャアシャリ】プロローグ 野太い悲鳴が遠くから聞こえた。
ジオニック社より派遣されてきている技術士官がすわ緊急事態か、とぱちりと目を瞬かせて振り向く。
私はいつもの勘で悲鳴の原因にあたりをつけて素早く耳を塞ぎ、技官にも同じように耳を塞げと身振りで指示をする。
あとはそう間がなく格納庫から船内に繋がる扉が開くのを待つ。そもそもこの分厚い金属扉を貫通してくる悲鳴といった時点で、そこまでの肺活量を持つ人間は限られるのだ。
「大佐ァ! 艦内食中毒防止勉強会の報告書を出してくださいと再三申し上げたのをお忘れか!? 上から催促が来ていますぞ!」
腹の底に響く銅鑼声。首と名のつくあらゆる場所が太い体躯。重力が地球の六分の一という月面では響かぬはずの重厚な足音が聞こえたような気がした。
モビルスーツを格納する都合上、高さ20メートルを超える格納庫の広い空間に、怒りの大声が反響する。
耳を塞ぐのが間に合わなかったらしい警備担当の兵士が驚いて転び、床に当たった反作用でぽんと飛んでいってモビルスーツの掌へ頭をぶつけた。兜を被っているから大事は無いと思うが、咄嗟だったとはいえ全員に耳を塞げというべきだったか。
私と話していた技官が兵士の元へ行き、兵士を助け起こす。フラフラしている彼の様子を見て、医務室へ連れていきます、と唇を動かした。頷いて了承する。
「大佐は三日前のヒトゴマルマル時からお出かけで、まだ戻られておりませんが……」
憤りのせいで普段より二回りほど大きく見えるドレン大尉に声をかける。
失礼いたします、と技術士官と彼に肩を借りた兵士が退出していく。
ぎょろりとした目が格納庫をくまなく見渡し、赤いガンダムの周りに私以外の姿がないことを見て取る。
「……シャリア・ブル大尉。まだ戻っておらんのか、大佐は?」
「はい。基地の都合で補給が延び、五日の予定の滞在が七日に延びたとはいえ、明後日には出港だというのに、まだ。ですのでガンダムの調整のために来ている、いま退出した技術士官に話を聞いていたところですが、彼も知らないと」
この強襲揚陸艦ソドンで「大佐」と呼ばれるのは、客分としてほかに佐官が乗っていない限りはただひとり。
シャア・アズナブル。赤い彗星。ルウム戦役の英雄。そして軍艦の主だ。
ただし大佐が極めて優秀なモビルスーツのパイロットであらせられるため、艦の指揮はドレン大尉へ丸投げ……もとい信頼して任せ、本人はサイド7で鹵獲してきたガンダムに乗って宇宙を縦横無尽に飛び回る。その無茶を実力と実績で無理やり通している。
不自由の極みとも思える軍に属し、そのうえ士官学校を卒業して人の上に立つ教育を施された身分でありながら、かくも自由な御方なのである。
ドレン大尉が大佐の行方を探してこの前部格納庫へやってきたのは、最近の大佐がサイコミュという新兵器について、テストという名の実戦を繰り返している関係上、赤いガンダムのそばにいることが多いからであろう。
「大佐の外出理由は?」
「ドレン大尉がご覧になった書類のとおりですよ。極秘任務、と」
本人は代理だと言い張るものの、名実ともに艦長のドレン大尉が知らぬのならば、私が知っている筈もない。
「巫山戯るのは仮面だけにしていただきたいものだ、まったく」
大佐が常に被る仮面がべつに伊達でも酔狂でもないと知っている私は沈黙を貫く。
ついでに外出理由に大真面目で極秘任務、と堂々と書かれても、相手の階級と圧力から何も言わずに通さざるを得なかった見張りの兵士の心境に思いを馳せる。
よし、話題を変えようか。
「大尉は何故大佐をお探しなのですか?」
「よく聞いてくれた。……あのマリー・アントワネット王妃殿、昨日が提出期限の書類に決裁のサインをせずお出かけになられた。しかし、ガンダムの新武装について提案をする七面倒臭い書類は幾つも完璧に仕上げきっちりサインをなさっていったのだ。……これが叫ばずにいられるか?」
パンという名の日常業務が滞ったならお菓子という名の突発的な業務を増やせばいいじゃない。
断頭台の露と消えた、旧世紀のフランス王妃は実際にそのセリフを口にはしていないというが。王族に例えるのが大佐本人の浮き世離れした雰囲気と相俟って妙にしっくりくる。
「……艦内食中毒防止の勉強会についてでしたら、私でも書類の作成は可能かと思いますので、任せて頂ければお作りいたしますよ」
「ありがとう、だが必要なのは艦の最高責任者の決裁だ」
つまり大佐本人がいなければ話にならないということである。サインの偽造はそこそこに重罪だ。
「緊急連絡用の無線は」
「それが繋がらん」
眉を顰める。現在ソドンが停泊するグラナダは、戦争の最初期にキシリア中将率いる部隊に占領されジオンの勢力下にあるため、それほど大きな危険があるとも思われないが。
「大佐も敵の多い御方だからな……」
「トラブルがあった、と?」
「可能性としては考えられる」
同じくらい、何かを急に思い立ちそれに拘っているという可能性もある。何しろ相手は赤い彗星、いつもながら臨機応変のひとである。
「キシリア閣下にご協力を仰いで大佐の足取りを追いましょうか?」
「あの御方に借りは作りたくないがなあ……」
ドレン大尉はもともとドズル中将が率いていた宇宙攻撃軍の所属だった。
ドズル中将がソロモンで戦死なされたあと、ソドンを含めたシャア大佐の指揮する艦隊はキシリア閣下の傘下に入っている状態とはいえ、借りを作るのは気が進まないのだろう。
提案した私も、大佐の安全より優先されるものはないと考えているが故にグラナダの総司令官へ頼る選択肢を挙げたものの、大佐本人のお立場を考えるのならば、あまりキシリア中将には借りを作りたくない。つまりドレン大尉と同意見だ。
「でしたらマリガン中尉に頼んで調査をしてもらうのが……」
「ドレン艦長、緊急事態です!」
名前を呼んだ途端に本人が格納庫へ飛び込んできた。
シャア大佐の無茶に巻き込まれているときは別として、年は若いが冷静沈着、という印象のあったマリガン中尉が勢い余って突っ込んできそうになり、慌てて壁際の手すりを掴んでその場に留まる。
「どうしたマリガン。それから艦長じゃなく艦長代理だ」
ただならぬ様子に驚いたのか、ドレン大尉が片眉を上げる。それでも艦長代理ときっちり訂正するあたりに艦長はあくまで大佐、と皆に周知したい気配が見て取れる。なお今のところその努力は全く実っていない。
マリガン中尉は肩で息をしながら、きょろきょろと辺りを見渡す。私たちのほかに誰かいないか確認しているのか。
人影がないことを認識したらしく、彼は右拳をゆっくり掲げた。そこには筒状に丸められた紙が握られている。
「先ほど、グラナダの宝石商がこの艦を訪れまして」
「宝石商ぉ?」
そんなものがこのむさくるしい男だらけの軍艦に何の用がある、とドレン大尉の上がった語尾が雄弁に語っている。
「訪問販売ならお引き取りいただけ」
「そう思ったのですが、シャア大佐に用がある、と。大佐はお留守だと言っても全く引き下がらず、大佐が以前特別に注文したダイヤモンドの首飾りの代金を払え、と……」
マリガン中尉が広げた紙には、幾つものダイヤモンドを繋いで作られたそれはもう大変豪勢できらきらしい首飾りの写真があった。どうやら宝石が本物であることを示す鑑別書の写しのようだ。
ドレン大尉、そこで何故振り向いて私を凝視するのか。
私にダイヤモンドの首飾りを付ける趣味はありませんよという意思表示で軽く肩を竦めておく。
更に言うなら大佐もむさい男をわざわざ宝飾品で飾って遊ぶ趣味はない。筈だ。
「それがサイドの国家予算に匹敵する額であるだけならまだよかったのですが……宝石商が言うには、ですね。首飾りは、大佐がキシリア閣下に差し上げるために特別に作らせたものだと」
恭しくきらきらの首飾りを捧げ持ち、玉座に腰掛けるキシリア様へ献上する金髪の美丈夫こと大佐の図を思い浮かべる。
完璧である。
絵面だけなら。
「詐欺ですね」
「詐欺だな」
ドレン大尉と私の言葉がユニゾンする。
いくら絵面だけ完璧であっても、そんなことはルナツーをアッガイの一個大隊が襲って占領するよりもあり得ない。
紛うかたなき詐欺だ。
「大佐は宝飾品でキシリア閣下のご歓心を買うようなことはなさいません、決して」
「そんなことをするくらいなら連邦軍の戦艦を沈めたほうが早いからな」
わざわざ特注品の高価な首飾りを贈呈などするくらいならば、一隻でも多く敵の艦をぶち落としている。
キシリア閣下とて大佐が歯の浮くようなおべっかを並べながら宝飾品を贈るより、撃墜数という名の首印を眼前に並べてみせたほうが格段に喜ぶだろう。これは確実だ。
「宝石商は大佐のサインのある書類も持参しております」
「偽造でしょうね」
「真筆だったら船首から紐無しでバンジージャンプをやってもいいぞ」
「はいまあお二人のおっしゃる通り署名は当然偽造なのですが」
大佐の筆跡を真似ようとしてはいますが、真似ようとするあまり丁寧に書きすぎていて本物の雑さと豪胆さが欠片も無いんですよね、と真顔で宣うマリガン中尉はなかなか肝が据わっていると思う。
そうでもなければ赤い彗星の艦になど、放り込まれはしないのだろうが。
「問題は、誰が何のために、というところでして。キシリア閣下の名前が出されていて、大佐を騙って国家予算に匹敵する額の詐欺を働いている者がいるのです。対応を誤れば、キシリア閣下や大佐のお名前に傷が付く可能性があります。旧世紀のフランス王妃の身に起きた、謂れのない詐欺事件のように」
「首飾り事件、ですね」
旧世紀のフランスで起きた、王妃マリー・アントワネットの名を騙った詐欺。詐欺師が王妃のためにと高価な首飾りを宝石商に発注させ、騙し取ったという事件だ。
「……冗談で例えていたら駒が出たな」
ドレン大尉が眉間を抑える。大佐をフランス王妃に例えていたときにも思ったがなかなか教養のある御仁である。
ちなみに私がこのあまりにも遠い昔に地球で起きた事件を知っているのは、木星航行の期間、有り余る余暇をほぼ乱読とも言える読書で潰していたからだ。当時は暇潰しかつ狂わないための処置のようなものだったが、知識は意外なところで活きてくる。
「宝石商は応接室にとどめ置いてあります。お二人にも来ていただきたく」
マリガン中尉はキシリア閣下のもとから派遣されてきているという立場にある。詐欺事件が大ごとになり、キシリア閣下が巻き込まれる、という事態は是が非でも避けたいのだろう。
例えられている首飾り事件では、王妃に非は全く無かったにもかかわらず、民衆の間ではこの事件は王妃が悪かったとされ王室の権威が失墜し、後年の断頭台での処刑へ繋がったとされる。
「大佐が戻らない以上、ここで解決できることはやっておくしかない、か……」
キシリア閣下の権威が失墜する、というだけであるならば大佐ご本人は笑顔で捨て置け、と言いそうだが、この話の転び方によっては大佐もしっかり渦中の人となる。
閣下へ献上するための宝石をせっせと設えていた、などと喧伝されればあまりの衝撃に頭痛で寝込むかもしれない。
それだけで済めばまだよく、大佐本人が詐欺師なのだと仕立て上げられて軍法会議にかけられる可能性すらある。大佐は無関係なのだ、とこの場できっちり証明しておく必要があるのだ。
「この場合、大佐ご本人の決裁は必要ありませんしね。艦長が不在の場合は艦長代理に権限がありますから……」
つまり、軍艦にやってきた民間人の処遇は艦長代理の一存で決めることができる。そういうことだ。
「なんでこう面倒ごとばかりが持ち上がるのか」
「それはほら、我々は大佐の部下ですから」
「たぶんあの方は争いと面倒事を司る星ですね」
マリガン中尉が、大佐本人に聞かれたら腹を抱えて笑われるか真顔で黙られるかどちらかになるだろうな、という台詞を吐いた。