この世のセオリー 少し困った事になってしまってね。申し訳ないんだけれど、私が経たここ数日の出来事を話して良いだろうか。
それは昨日の事だった。
「先生、お疲れ様です! 早速なのですが、こちら今回の点検で見つかった破損と修理費用の見積書になります」
「ありがとう。君はいつも仕事が丁寧だから助かるよ」
応接室で向かい合わせに座っているのは、チームメイト兼取引先の営業である独歩君だ。
彼はとても優秀で努力家だ。渡された書類には、破損の詳細と修理した場合、買い替えた場合の金額やメリット、デメリットが分かりやすく記載されている。流し見ながら呟けば、目の前の顔が嬉しそうに破顔した。
「早速目を通すね。少し楽にしていて」
「はい」
独歩君は気を抜くと舌を出す傾向がある。とても微笑ましいので、私は毎回指摘せずに見守っていた。今日も狼というよりは愛玩犬のような彼の一面を拝めるだろうか。
書類に落としていた目線をさりげなく彼にやると、本日は珍しく唇を引き結んでいた。水色の瞳に膜が張っているのが見て取れる。まるで何かを堪えているかのようだ。
「……この機種は新たに購入して、他は修理を頼もうかな」
「は……い。ありがとうござい、ます」
目の奥を流れ落ちた涙が鼻腔へどり着いたのだろう。独歩君は小さく鼻を啜った。筋張った手が強く握られる。
溢れてしまいそうな気持ちを押さえつけているようだ。そして、それは最近私に相談し始めた事柄だという事も見当がついた。
思わず差し伸べてしまった手で彼の頭を撫でると、「せんせぇ」と弱々しい声が漏れ出た。同時に、堪えていたものが目元からこぼれ落ちる。
「一二三君がどうしたんだい?」
一二三君という言葉を聞いて、独歩君から嗚咽が漏れた。俯いてぽたぽたとテーブルに落ちる涙が痛ましい。そのまま柔らかな髪を撫でつけているいると、少し落ち着いた独歩君が口を開いた。
「ひ、ひふみに、約束を破られてしまいました。一二三に大切な人が出来て、僕の事なんかどうでもいいのかもしれません」
「詳細を話せるかな?」
幼な子に問いかけるよう問えば、独歩君は鼻水と涙でぐちゃぐちゃになっている顔を上げた。
「明日は久しぶりに二人の休みが被る日だったんです。数週間前にそれが判明して、一緒に出かけようかって誘われました。『分からん。仕事が入るかもしれん』って素っ気なく返事をしましたが、曲がりなりにも好きな人との約束なので……とても楽しみにしていました」
嫌な予感がしてきた。その日は一二三君と釣りの約束をしている。
「けど、昨日……明後日出かけてくんね、って言われて。俺より優先する人ができたんだって……。僕は同居をやめた方がいいのかもしれません……」
どうしてそんなに拗れてしまったのだろうか。
一二三君からは、「片想い中の子を勇気を出して誘ったのに、相手にして貰えなかったんすよね〜。センセーその日暇っすか? 俺っちのこと慰めて〜」と泣き付かれて今回計画するに至った。一二三君が元々誘っていたのは独歩君で、つまり一二三君は独歩君が好きなのだろう。
私の視点から見たら、二人が両思いなのは明白だ。しかし、見事にすれ違ってしまっている。そして、原因に私が思い切り関わっている。
いつも通り、興味深いなんて考えている状況ではなかった。愛する者同士が気持ちを通じ合わせられないのに加え、チーム崩壊の危機まで迫っている。だが、勝手に人の気持ちを伝えてしまうのは悪手だろう。非常にもどかしい。
「一二三君にそんなつもりはないと思うよ」
「分かりません。僕には、一二三のことが分かりません」
頭の中にあるデータベースと照らし合わせるが、解決方法はひとつしか思いつかなかった。
対話だ。当事者同士が話し合うこと。これしかない。
「独歩君、明日うちに来て欲しいんだけれど、駄目かい?」
「え? 構いませんが……」
予想もしなかっただろう申し出に、独歩君の涙が引っ込んだ。情報を所持する私の中では繋がっている事柄だが、彼はパズルのピースの大半を所持していない。分からないだろう。
詳細を決めて独歩君と別れた後も、頭の中を占めるのは二人の事だった。私には親しい友人が少ない。学生時代、仲がいいと思っていた獄に「お前は傲慢だ」と一蹴されてしまった。一時期べったりだった飴村君も、私から離れてしまった。ことごとく人間関係の形成に失敗している。
「一体、どうすれば……」
思考が完全に迷宮壁だ。
ノートパソコンでネットに接続し、有益な情報を得ようと検索をした。しばらく画面を眺めていると、とある漫画が引っかかった。友情と愛情の間で揺れ動く少女漫画らしい。気になって調べると、かなり巻数がある。
興味に駆られて読み始め、読み終える頃には朝になっていた。
「私が求めていたものはこれだ」
一睡もできなかったが、イメージは掴めたと思う。強引に外的刺激を与えて、反応を促せばいい。
世の中はまだまだ私の知らない事に溢れている。
「お邪魔しますっす〜!」
「どうぞ。お茶を入れてくるね」
「はぁーい!!」
釣りの後、一二三君を私の家に招待した。相談をしたいと告げると、二つ返事で了解してくれた。とてもいい子で、ついつい顔が緩んでしまう。この子達のためにも心を鬼にしなければ。
「んで、センセーの話って〜?」
お茶を飲みながら今日の話をしていたら、一二三君が切り出してきた。ホストモードの時に比べて、素の彼は率直だ。
「独歩君の事だよ」
一二三君の顔色が明らかに変わった。一方、私は鍛え抜いたポーカーフェイスを貫く。
「どうやら、彼は最近不安定らしくてね。慰めているうちに気になり始めたんだ。独歩君、子犬みたいで可愛いよね」
「センセー、それって……」
一二三君の声が低くなる。こちらを警戒しているようだ。上手く彼の危機的状況を作ることに成功したらしい。私は微笑を浮かべた。
「独歩は俺っちのだから」
「君たちの関係はただの幼馴染件同居人だろう? 君のではないよ」
「……ッ」
剥き出しの殺意が飛んで来て、否応なしに昔を思い出してしまう。
この度の「当て馬」作戦は順調だ。
徹夜で読んだ少女漫画では、思い合う二人が「当て馬」と言われる存在の妨害を経てカップルになっていた。私がその役を演じれば良いのだ。
「例え私が独歩君に告白したとしても、それは一二三君にとって何ら関係のない事だろう?」
「俺っちは」
「君たちの現状は親友だ。それ以上でもそれ以下でもない」
「俺っち、は……」
「例えば、独歩君に恋人が出来てしまったとしたら、君と居る時間は限られた物になってしまうかもしれないね。親友という関係は世間的にそういう距離感だよ」
「…………」
「あの、お邪魔します」
ちょうど良いタイミングで独歩君が来てくれた。コンシェルジュには話を通していたし、勝手に入ってきて欲しいと言っていたが、無作法だと思ったのか、不安に駆られている様子だ。
「どっ、独歩!!」
「一二三!?」
独歩君は、一二三君の存在を認識した途端固まってしまった。恐らく彼の脳内は、一二三君の大切な人が私なのではないか──という思考に陥っている事だろう。その証拠に、「まさか、先生が……。喜ばなきゃいけないのに……俺は」などと呟いている。彼の思考は非常に分かりやすい。
「独歩、話がある」
いつになく真剣な響きで一二三君が告げた。独歩君はびくりと薄い肩を跳ねさせる。
「い、嫌だ、聞きたくない」
独歩君の目には涙が浮かんでいる。失恋したと思い込んでいるのだろう。
「いいから聞けって!」
「嫌だ」
埒があかないと思ったのか、一二三君が独歩君に近づいた。そして、唇に己のそれをくっつける。本来ならば双方の同意が必要だとは思うんだけれど、そういうツッコミはしない事にした。私は気配を消して空気に徹する。まさか殺し屋業で培ったスキルを恋のキューピットとして使用する事になろうとは。人生、何があるか分からないものだ。
「ひ、ふみ……?」
「俺っち、独歩ちんが好き。俺っちと付き合って!」
「う、そだろ……」
「本当じゃなきゃチューしないってぇ!! こうなったら、独歩が分かるまでたくさんしちゃる」
ちゅ、ちゅ、とリップ音を立てながら何度も独歩君の唇を塞ぐ。それは徐々に深くなっていき、口腔内を舌が這い回っているのだと分かった。
一応私が目の前に居るのだけれど────独歩君は目の前の人物に夢中で、一二三君は分かってやってるんだろう。彼の独占欲はとても強い。
「……っ、ん…ひふ……、分かった、から」
芯まで蕩けてしまった独歩君が、呼吸の合間に一二三君へ必死に訴えかける。我に返った一二三君は、至近距離で独歩君を見つめた。二人の乱れた息遣いだけが部屋の中で音として存在している。
「……俺もお前が好きだ」
「マ!? 俺っちと結婚してくれる!?」
「さっきより要求進んでないか!?」
「一緒の墓に入ろーな!」
「何でもう終活の話してんだよ……ハァ。…………は!」
独歩君が私の存在を思い出したらしい。元々私を意識していた一二三君は鋭い目線を寄越してきた。
「せっ、先生! 俺は人前で何という粗相を……! すみませんすみません」
「というわけでぇ〜、今日から独歩ちんは俺っちのなんで!! 恋人の距離感なんで!!」
殺意とも怒気とも取れる感情がチクチクと身体中に刺さる。一二三君の気持ちを逆撫でし過ぎたらしい。時すでに遅し、だ。
その後は3人で食事をしたのだが、今までの関係から一転してしまった。
「独歩く……」
「どっぽぉ〜! こっちおいで!!」
「え? あぁ」
「…………」
私は二人に分からないよう息を吐き出した。
さっきからずっとこの調子だ。私のことを恋敵だと思い込んだ一二三君のガードが硬すぎる。私が独歩君に声をかけようものなら、あからさまな妨害を行ってくるようになった。
当て馬がその後どうなるのかを考慮しなかった私の落ち度だろう。
「……これが事のあらましだよ」
「は!? キモっ! 何で中年3人でティーンズ向けの少女漫画みたいなノリやってんのさ」
電話の相手は飴村君だ。彼とは現在因縁があるけれど、除け者にされる寂しさに耐えられなかった。戸惑いを抱きながらも話を聞いてくれた彼はもしかしたら優しいのかもしれない。
「……関係をどう修復すればいいと思う?」
電話口から思い切り深いため息が聞こえた。呆れられてしまったのだろうか。
「今からそっち行くから。感謝しろよジジィ」
「年長者に……」
お決まりのセリフを言う前に、電話は切られていた。リビングからは二人の楽しそうな声が聞こえてくる。一方、寝室に逃げ込んだ私は憂鬱な気持ちでいっぱいだ。暗い部屋の中で膝を抱えた。
「じゃーーーくらい!!」
「わわっ! 飴村シグマじゃん!!」
「あの、どうしてここに!?」
どれくらいそうしていただろうか。突然、リビングが騒がしくなった。逃げるために隔てていた扉を開くと、懐かしい姿がそこにあった。寝巻きにコートという、彼にしては不恰好な服装だ。心なしか息も切れている気がする。
「問題児のチームメイト二人は、珍妙な作戦で無事にくっついたの?」
「そうだね」
「も〜! 嘘とはいえ、僕以外に気があるように振る舞うのは許せない〜! 浮気だ〜!! 今日はたっぷり埋め合わせしてもらうからねっ! ……って事で、そこの二人は僕たちにとって邪魔者でしかないんだよね〜? バイバ〜イ」
飴村くんは、驚いた様子の二人を問答無用で追い出してしまった。
「これで誤解はとけると思うよ〜」
「……新たな誤解が生まれてしまったと思うんだけれど」
飴村君は、まんまるの大きな目を細めて、悪戯っ子のように笑った。
「少女漫画のセオリーではさっ、当て馬は他の登場人物とくっつくとカップルの側に居ることが許されるんだよ」
こうして私はまた世界のことわりを一つ知るのと同時に、彼の作戦にまんまと嵌まり込んでしまった。