腐する前脚標本を作っている。名前(分からなければ癖、声音、指の曲がり方などの特徴)、大体の年齢。日付は入れていない。札にそれを書いて、机の上の額に大体の場所を定める。最初の頃のものは体は小さく足は何本も取れてしまっているし、外殻を昔ほど保てていない。細い銀色のピンで縫い止める。罪悪そのものを。額の中は色とりどりの世界だ。吐き出された罪の数だけ鮮やかな世界は創り上げられる。暗い色合いもそれは全体を落ち着かせながら地に沿うような重さをもたらしている。雄大な羽を持っていたものをまたひとつ飾る準備が必要だった。これは最大限に敬意を評しての愛に基づいた行動だが誰にも理解されないことを知っている。無秩序に並ぶそこにある業と共に生きることが、自然の習わしに従うことと同じなだけなのだ。
幼い頃の記憶だったが妙に鮮明に覚えている。脆く淡い感触を指先にだけ残し、木の枝から虫自身にも訳も分からないであろう理不尽さで砂の上に落ちた。その所々派手な色彩の体躯を苦しげに蠢かせていた。空を飛んでいる時はあんなに自由で気まぐれだったのに、こうなってしまえばただの餌だ。いずれ目ざとい鳥が咥え去っていくのだろう。
力が入ったままの指先を開いた。か弱い貧弱な薄羽がちぎれて張り付いていた。
死を待つだけになったそれに興味を失い、背中を向けて帰路へと着いた。よく晴れた平穏な日だった。
その指が動いてテーブルの上で紙が少し滑った。同じ大きさの少し硬い紙が5枚、表面の絵柄は既に少しかすれている。
「また勝っちまってわりぃな」
陽気にそう言葉にしながら口端を上げると、伸ばした右手で俺の手元にあったオリーブの実を自分の元へと運んでいった。
時間潰しをきっかけに始めた遊びはハウスルールを用いることで二人でより楽しめるよう意見を交わしながら成熟させていったものだった。流石に金銭を賭けるのも戸惑われて乾燥した実を使っていたが、いつしかその量に応じて些末な言う事を聞いたりすることで何度もそれらは俺たちの間を行き来した。
「レイズしてオレに負けっぱなしじゃねぇか」
そう言葉にしながら俺の傍に置かれた何の役もできていない手札と中央の山を回収する。
「だって降りるの嫌だしー」
「子供かよ」
吹き出して笑う声様に自然と自分の口端も上がった。
「金賭けてやるのはやめとけよな」
「そりゃムキになって王子がスカンピンになっただなんて噂になったら指差し笑われるよ」
そりゃそうだ、と浮かべた笑みをそのままに不揃いに積もった山を手が持ち上げようとした瞬間、テーブルを叩いた。乾いた音に驚いた彼は俺をじっと見つめながら何か言葉を発せられるのを待っているようだった。
急なことに何も用意していなかったので、懸命に頭を働かせる。そこそこに何でもいいから今すぐに掴み取れるものが欲しかった。
「俺にやらせてよ。すごいやり方この間教えてもらったんだ」
何も嘘は言っていなくて、部下がカードシャッフルが上手いと聞いて実際に眺めてざっと方法は教わった。紙同士が強くぶつかる騒がしい音を立てて混ざり合い、物静かなほどに流れながら両手に収まっていった。
手を伸ばすと、守るように彼の手は山を覆い、そして自分へと寄せる。視線をパンドロに向けるとどこか不自然さを覚える目の細め方をしていた。
「オレもお前に見せてやれるぜ」
やめて、と言いかけて口を噤んだ。下くちびるを噛んだ瞬間、彼は片手で持ち上げるとその中で二つに分けられ在るべくしてそうなるといった自然さで互いに複雑に絡み合い最終的に一つに収まった。カードがテーブルの真ん中に置かれる。
「すげぇだろ」
「……うん、でもいつ?」
讃える気持ちよりも困惑の方がずっと大きくて、俺が発したのは言葉のうちに全部溢れていた。
右肘をついてパンドロは笑みを浮かべる。
「ちょっと前に自称大道芸人って旅人がいたから教わったんだ」
吹く風に心が波立つのを感じた。感情が湧いては消え別の感情が襲い来ては他のものがそれを飲み込む。まとまらない頭の中を持て余す俺を、パンドロはもう表情を消して、でも少しだけ目元に悲しみを残しながら俺を見ていた。
パンドロを臣下に迎えてから彼の人間関係はだいたい把握できていた。彼が好きな物もどういうことが嫌いなのかも、俺が一番傍で知っていた。もう二度と帰らない準備を整えていることを考えたくなくて見ない振りをし続けた。
鋭く吐き出した呼吸は音を立てておそらく彼の耳にも届いていた。揺らぐことない表情。隅に追いやられていた金属製のグラスを手にし、一気に飲み干した。
もう少しチェイサーを飲んだ方が良かったな、と後悔していた。頬にあたる風は優しく少しだけ気分の悪さを和らげてくれる。少しはしゃぎ過ぎている自覚はあった。幾らかは落ち着いて過ごせるだろう。そうしたらやりたいことが沢山あって。
名前を呼ばれたような気がして顔を上げた。
『大丈夫か?ずっと戻って来ないから心配した』
呼吸を何度か繰り返した後にゆっくりとまばたきをした。
『立てるか?』
賊の動きが散発的になり気が緩んでいたのだろう。参加した宴の席で少し調子良く飲んでしまった結果がこの有様だった。
上から差し伸べられた手は暗闇の中でも清廉とした空気をまとっていて、その手のひらを緩慢に掴んだ。ほっとした様な顔をするので、ぐいと思い切り引く。中腰からバランスを崩した彼はつんのめりながらもなんとか踏みとどまる。先程よりずっと近づいた目鼻口に何も考えられなくて、そのまま口付けた。
『んッ……?!』
困惑を隠せず掴まれた肩が押される。一瞬の幻影だったかのようにも感じたが、確かにそのくちびるに触れたはずだった。
『お前っ!酔ってるったって限度が……!』
軽く肩を押すと不安定だった身体は簡単に地面に手をついた。そのくちびるが開かれて新しい言葉が発せられてしまう前に、半開きになっているそれに重ねた。驚いたのか固く強ばった舌にすぐに触れることができた。ぬるい熱を湛えたそれに絡みつきながら、じっとりとした重い唾液を混ぜ合わせるようにする。
ぬめった肌の下蓄えた神経毒で相手を殺す生き物のようだと他人事のように思えた。
より深く奥底に入り込みたくて顔を傾ける。己の身体を支えているその上腕を掴み、ひどく力が入っていることに気づいた。パンドロはきつく瞳を閉じながら、上手く呼吸ができないのか苦しそうにこもった音を喉から発する。膝で地面を這い距離をさらに詰めていった。空いた腕がそっと俺の肺の間の上をゆっくりなぞった。彼からそうやって触れられることは初めてで頭の中で何か焼き切れそうな気がした瞬間。突然訪れた苛烈な息苦しさに意識が飛びかけた。地面に手をつきながら、目の前の景色で自分が喉を強く押されたのだと分かった。結果がまるで予想外なものであるかのようにパンドロは目を見開いて訳が分からないという顔をしていて、軽くかぶりを振っていた。
『ちが……そういうつもりじゃなくて……』
彼が何を言おうとしているのか待っていた。何が違うなら何が正解なのだろう。純粋にそのことだけが知りたかった。
『オ、オレは……!』
『おーい!!!生きてるかー!?』
ハッとしてパンドロは声のした方向へ顔を向けた。おそらくいつまでも帰ってこない俺たちを心配して探しに来たのだろう。パンドロは口を噤みながら俺を確認するようにじっと見る。
『後で、話そう』
彼の言葉に大きく頷くと、それを確認して立ち上がった。その後ろ姿を見ながら視線をもっと上に向けて空を仰いだ。なんだか分からないけど天に召します何かよ、俺は失敗したのでしょうか。そんなことを訴えていた。
パンドロは左腕の肘から下を失った。そして後にあるはずだった話を掴んでそれはどこか知らないところへ姿を消して地上のあらゆる場所からも失われた。
垂れ下がる袖の下、やはり左腕はどこにも無かった。苦しいと感じても彼の苦悩の全てを汲み取ることはできないのだ。視界が歪む。喚いたって何一つ戻らないことだけは分かっていた。
「神竜様を信仰することには何の問題は無いんだ。これも、何か一つの……」
テーブルを叩いた。立ち上がった俺を見る。言葉を続けることを止め、哀れな生き物を目の前にした人のような顔をする。それが我慢ならなくてここに来たかった感情を吐き出した。
「戻ってきて。パンドロなら誰だって文句言わないよ。教会にこもってたっていい」
発してしまってから自分の言葉の惨めったらしさに気づいたが、それでも何の後悔も無かった。諦めてぽっかりと穴を開けて立ちはだかる空虚さに身を任せるくらいなら、自尊心なんて馬鹿みたいに安いものだ。
俺の言葉に一瞬呆気にとられたようで、表情には力が入っていなかった。だが、右手でそっとかつて存在していた腕を撫でるように手元が動く。それを眺めていると柔らかく声が落とされた。
「オレが失ったのは、本当にお前が深刻に考えるような何かか?オレはそう思わない」
彼のくちびるが上下する度発せられる言葉の内容をすぐには飲み込めなかった。そんな俺を置いてきぼりにしてさらに話し続ける。
「なくしてから分かったんだ。オレは色んなものを見逃さないでいようって必死だったけど、本当に必要なものはそんなの無関係で無遠慮に向こうからやってくる」
言葉にすることが禁じられているのを破るように少し戸惑ってから、それでも彼は発した。
「お前みたいにさ」
這い上がるような揺らぎに目元からひとつ垂れたおかげで先程よりはっきりと彼を見ることができた。何一つ変わらない姿なのに、少し欠けただけで何もかもがおかしくなっていく。
「だったら……!」
手の上に柔らかい熱が訪れて、瞬間続きを忘れてしまった。伸ばされた右手がそっと俺の手の甲に重ねられていた。視線を向けるとテーブルの上についた何かの白い傷痕が気になって余計に考えのまとまりがつかなくなる。
「だけど、何にだって弁えってもんは必要だ。隻腕の人間携えた未来の王弟はどう思われる?その王弟の心理をどこまでの人間が図る?じゃあオレの下につくことになった人間はどんな気持ちだ?そういうことなんだよ」
パンドロは俺の顔を覗き込むようにしていた。俺に理解することを迫っていた。忘れようとしていた不愉快な存在が頭をよぎる。無遠慮に手を伸ばし、彼の体を支える残された右の上腕を掴んだ。少しだけ表情に陰りが見られたが、それでも引こうとはしなかった。
「俺が、あの時切り捨てた人間のこと、パンドロはどこまで一緒に持っていこうとするつもり?」
彼は肯定も否定も一切せずに眉尻を下げながら口元だけで笑った。
俺とは行かないのにその魂を連れていこうとすることにどうしてもどうしても我慢がならない。
短慮な男がいた。そこそこに喋るし愛想も悪い訳ではない平凡な男だった。自警団に入って日も浅いわけではなく、とにかく突出したところもないが悪いところも見当たらないそういう男だった。
『悪い魔法にでもかかってるんじゃないのか?』
『確かに神竜様のもとで戦ってその結果失くしたってならいい宣伝文句になる』
『だけどそれは教会内での話であって、誰がんな言葉真に受けるんだよ。戦場に立って傷を受けて、そんなの俺たち皆同じだってのに、あいつだけ特別扱いだ』
『そうやって命の優劣を決めるのは横暴だ』
『神は!!!』
もっともなことを響く低い声で発するその喉を背後から掴んだ。僅かに身体を動かすこともできないまま、ざわつく周囲の音がひどく耳障りで苛立ち叫び出したい衝動を堪えた。
その後には自主的に辞めていった男の話題は出されなかったが、どこか薄ら寒い座りの悪さを感じていた。誰かのためではなく俺のためでしかなかった行為はどこか歪みをもたらしていたがそれで良いのだと許容してその視線を無視した。
流れをひとつひとつ反芻するように記憶がはっきりとしていくうち、彼はひとつ踏み出しさらに近づけた。ひどく悲しそうな顔をしているけれども絶対に俺に救いを求めない強さ、そのことだけがはっきりと見て取れた。
「希望的観測なんざ捨てちまえ、悲観を恥じるな」
触れていた手の甲から体重を支えようと必死な指先が伝わる。怯え、戸惑い、恐れ。今全てと向き合いながら俺とテーブルと放置された絵札を挟んでいる。
どことなく彼の瞳の上に水分が膜を張っていた。彼の顔のどの部分がどう動くかにしか目がいかなくなる。ゆっくりと動かそうとしたくちびるを一度噛み締めて、再度くちびるは言葉を紡ぐ。強迫観念に襲われてそれにすがる以外に生きることのできない、目を離した隙にそういう存在に変貌してしまったかのようだった。
「フォガート。アンタの臣下で最高だった。だから、二度とオレの前に立つな」
鋭いナイフの切っ先で突き放す言葉に何も反論できなかった。ただ、パンドロは自身でも把握していないだろうと思えるほどに必死で、揺らめく瞳が時々何かを零れ落とそうとしていることにすら無頓着だった。
心臓を柔らかく掴まれているような心地になった。これ以上何の算段もなく向き合ってもお互いに傷を広げるのだと悟った。
「この話は今ここで終わったんだ」
彼の肩を柔らかく押し返した。浮つく右手を伸ばさせ、真っ直ぐに立たせる。俺の考えが分からず困惑を隠せていないその表情に、今の自分でできる限り飛びっきりの笑顔を作った。
「勝てるつもりの時にしか深い勝負はしないよ、俺は」
負け惜しみでしかない。こんなに遠いと感じたのは初めてだった。虚をつかれたためか彼は口元を軽く開いて驚いている。見開かれた瞳にひとつの充足感を覚えていた。
落ち着きない足取りの中開いた扉の先には眩しい光の欠片が踊っていた。後ろ手で閉じ重く響く音を聞いた瞬間、走り出した。驚いた女性が声を上げて、砂をいじっていた子供は俺を異物のように睨み、疲れた旅人は興味無さそうな瞳を少しだけ向けて、その人の間を過ぎ去って里の入口をやや出た場所に行き着いた。辺り一面陽光を返すようにきらきらと輝いていて、さらに足を動かした。無我夢中に走り呼吸を荒げながら気づけば何も無い場所にいる。その場にうずくまって泣き出したい気持ちだった。
彼はそこまで咄嗟に考えるような類いの人間では無い。左腕を失いずっと考えを持て余しながらそれでも隣に立って、そうしてから諦めたのだ。臣下という立場上自分から言い出させることは本当は残酷なことだった。去りゆく背中に俺は最後何と声をかけたか。
『早く帰ってきてね』
俺はそういう愛に安心しきっていたのかもしれない。だから、本当に大事だった瞬間に、振り返ってどんな目元で笑ったのか影になって今も分からない。
パンドロは決めてしまった。もう覆らない。この踏みしめる砂に液体を垂らしても同じ重さは絶対にこの手に戻らない。
嫌な夢を見ている時のようだった。夢の中から簡単に抜け出られないように、浅はかさを持った過去の俺も己自身だった。それから逃げる術はどこにも無い。
これは誰が誰を許し許されるべきなのか、この砂漠は壁が無いのに一度入り込めば抜け出ることのできない迷宮だった。この暗闇の中を壁に手を這わせながら光ある道を目指せるのか分からないまま澄み渡る空を見上げた。その強すぎる光はただただ眼を焼いた。
「レイズはねぇんだよ」
鈍く蠢くものを見つめながら、太めのピンを手に取り慎重に目標に先端を向け、打つ。もう二度とその羽が動いたりしないよう、念入りに何度も何度も深く打つ。それでもその体は壊れることはなく、大きな羽は揺られながらも崩れたりせず、握ってバラバラに壊してしまえばいいのにそれをする勇気も持てない。未だぴくぴくとあらぬ方向に曲がった脚を動かす。愚かしさに笑いながらその場にしゃがみ、折り曲げた足を抱え込んだ。机の上には小さな白い札がある。名前と、歳とが乱雑に書かれているが、日付はまだ無い。額の中異様な存在感を放つそれが羽を動かし奇妙な音が部屋を満たした。