道程引かれる手を煩わしいと思った事なんてなかった。いつも知らないことを教えてくれる。彼は俺にとって神のようにみせかけた人間であり、時にひどく生々しいばかりの存在だった。
そっと手を握られ当然のように手を引かれた。遅れるようにして彼の背中を見る時、オレの知らない彼をその先に眺めた。時折ぎゅっと力を込めて握られ、そうした時彼の熱情を知って自然と自身の頬も赤らんでしまった。そういう時に限って彼は何か話しかけながら笑いかけてくるのだが、その内容が頭に残らなくて精一杯言葉にする。
「もう一回言って」
俺の願いに何の淀みもない笑顔で応えてくれるのだ。その度にくちびるを噛み締めた。
好きこのんだ相手に上手にどうしたら笑えるのか、誰一人教えてくれなかった。だから、俺なりのやり方で、彼への好意を伝えられるように袖口を引くのが癖になっていた。
いつしか悩み夕暮れの教会の中頭を抱えていた俺を見つけて、まるで本当に安心したかのように顔を綻ばせて言葉を吐くのだ。
「良かった、どこに行ったのかと思った!」
明るい声音につられて指を重ね合いなんでもないのに今この時だけ俺の胸を打つ光景に、涙が出そうになった。悩みと悩みと妬みと卑屈が混ざりあって世界はできているのではないかと嘆きたくなる時、示し合わせたように彼はそこにやって来る。いつもの砂の波は滞りなく彷徨っている。なのに太陽の光がその小さな粒たちを照らすせいで、特別な色を持っているように勘違いしてしまう。
フォガートに告白され、オレもそうなのかな、多分そうなんだろうな、と自己の確証を得ないまま彼の手を取った。どこか彼自身それを奥深く理解している気がした。だから、余計なんだかこのままで良い気がしていた。時々手を繋いで、時々抱擁して、時々接吻する。退屈なようでその中に胸の高鳴りや彼の心を感じられて幸福だった。
何かの秘密を話さない彼と、神の忠実な下僕であるオレにはちょうどいいものではないかと思えてきて全てをそう誤魔化して都合の良いものにした。
風が収まった頃にフォガートは先の見えない向こうを指差した。
「もっと向こうにさ、俺パンドロを連れていきたい場所あるんだ」
優しく微笑まれ、自然と胸元の服を握った。そこにある自由さを謳歌するフォガートとオレではそこが食い違って、そんな時その言葉を否定せず、肯定せず、ただ受け入れることを選んだ。
「行けたら楽しいんだろうな」
淡い願望を乗せながら吐きだすと、至近距離で立ち塞がっていた。どこか怒ったような、そして何か我慢しているような、そんな顔だった。その強ばったくちびるが開かれるのをじっと見ていた。
「君は、一緒に行ってくれる側の人間だと思ってた」
どこか失望を孕んだ音の集合体だった。
最後の言葉にゆっくりと慣らすように手を浸していく。自分が何かを望んだことといえばただ妹のことだけで、それ以外には空虚な人間である気がしていた。明るいことは周りを盛り上げられる。慈悲深く話を聞くことは人を生かせる。では、オレはオレのための何を持っている?考えても何も無かった。オレはからっぽだった。
何かを望むということはいずれ失望し、その場で泣き崩れ惨めになるのはいつだってオレだった。
望みはひどく絶望と近しい。もう二度と苦悩の中死んでいく自分の欠片を手にしたくなく、恐ろしくてその夜中にベッドの上ひどい声で喚き散らした。闇夜に透ける手を窓へと伸ばして、やはりそこでオレは諦めて瞳からだらだら流れ落ちるものを止められなかった。
寝不足になりながらも教会の場へと降りていくと、真摯に像に向かって祈りを捧げる姿があった。慌てて降りていくと音に反応してその顔が上げられる。オレが来ることを考えていない表情だった。
「なんだ、救いが欲しいのか」
自虐するつもりで発した言葉に、彼はひとつ真剣な表情で頷いた。誰の何のためだか分からないその願いをこの古びた空気の中浮き上がらせながら彼の前に立つ。
「願いは叶いますか?」
「大事な人が、これ以上苦しまぬようにと……」
ひくりと片口端が震えた。だが彼は一切引くことなくその場にしっかりと足をつけ立っていた。真剣な瞳は朝日の中いくらか明るく赤みを帯びていた。
「救うとか救わないとか、そんなもの全部捨てて、ただともに生きたい。どうしても必要なら、ともに生きた上で見つけて欲しいと!」
最後には力が入って彼の情緒が乱れていることがわかった。静かな教会の中で不躾な感情ばかり入りみだっている。オレは彼にどこまで自分の本当の気持ちを話せてきただろうか。子供じみた全能感からの感情と鼻で笑うには彼はたくさんのことを知っていた。迷って何度もくちびるを開いては閉じ、そうしてからやっと彼の目をしっかりと見据えた。
「ただ、分かんねぇだけなんだよ。生まれてからずっと迷ってる」
フォガートはじっと俺に視線を寄せていた。手元の法衣を握りしめながら言葉を発する。
「ふ、相応しくないっていうのとか、どうすれば期待に応えられるんだろうって、いつも考えてるけど、答えがない。オレにはわかんねぇ」
静かに荒くなる己の呼吸。近づいてくる足音にきつく目を閉じた。
失望。
恐怖。
ふと優しく背を優しくさすられた。温かな手のひらがオレに与えられている。なぜか涙が出そうになって下を向いて隠した。
「俺には分かんないよ。だから、君の傍にいる」
もうひとつの手が背中に伸ばされ、雁字搦めにされるように身動きができなくなって、それでも嘆きを吐き出したくなかった。
「苦しいのは誰かじゃない、そう知って君だけは俺が守ろうって思った。俺だけの意思で」
彼は、よく分からないところを強調して言う。まるでそれを侵されることを恐れるように。
神の御前俺はずっと別のことを考えている。階段の段差に腰掛け、何かを怯えるその背中。
「もし、お前が自分を得たら」
背中から降りて繋いだ指先が震えた。
「オレの全部、お前のものになるよ」
爪をたてられ手の甲の皮膚が失われるのを感じた。