確定申告📃「わ……った~」
松野一松、こと漫画家ミネット松野はディスプレイからようやく視線を上げた。
首をぐるりと回し肩を揉んで、ついでにこめかみあたりもぐりぐりとほぐす。
本来の締め切りにはまだ余裕があるが、約束の為、自分で早めに設定していた締め切りにも間に合いほっと息をついた。
デジタルの原稿作成に移行してどれくらい経っただろうか。
アナログで作画していた時期もあったが、自分ひとりの原稿作成に限界を感じ導入した。
見様見真似で始めたが、人と関わることが得意ではない一松の性に合っていたようだ。
ざっと全てのページに目を通したが、おそらく大丈夫だろう。
スマホのメッセージアプリを立ち上げ、送信先の画像をタップした。
ちなみに画像は、音に合わせて動くフラワーロックのような向日葵である。
[終わった。一時間後には行けそう]
メッセージ送信ボタンを押し、椅子の背もたれでぐっと伸びをして、立ち上がる。
シャワーを浴びさっぱりして戻れば、着信が一件。
編集かな、と思いながら開けば、フラワーロックの主からだった。
電話は珍しいと思いながら折り返せば、二コール目で『もしもし』と声が聞こえてきた。
「ごめん、シャワー浴びてた」
『仕事終わったばっかだろ、こっちこそ悪い』
「いいよ、どうかした?」
『今日約束してたけど、ちょっと予定が重なって……申し訳ないんだが、また今度にしてもらえないか?』
再度ごめん、と繰り返される声に、一松は足元が崩れるような心地がした。
商店街にある小さな花屋の店主、カラ松と話すようになってはや三か月。
交流の少ない一松にとって、社会人になって初めてできた友達だった。
少し変わったところもあるが、基本的に穏やかだし、花が一番美しくなるようにと心を込めて世話をしている横顔に気づけば惹かれて、いつしか友達以上の感情を抱くようにもなっていた。
告げる勇気はまだないが、それでも食事に行ったり遊びに行ったりと、少しずつ距離を縮めている最中だった。
久しぶりに会える、というのをモチベーションに今回の修羅場を乗り切ったのだ。
『……いちまつ?』
不安そうな声にハッと我に返る。ショックを受けている場合ではない。
「あぁ……ごめん、何かトラブルとか?」
『トラブルっていうか……確定申告あるだろ。オレ、まとめるの苦手で時間かかってるんだ。それと赤鹿ってとこの華道家の先生から注文が入ってしまって。遠いし、戻りが遅くなりそうなんだ』
「……そう。仕事ならしょうがないね」
何時になってもいいから会いたいと言いたいのをぐっと我慢した。
距離感を間違えて嫌われたくはない。
「配送はともかく、確定申告はプロに頼まないの」
『頼めるほどの収入があるわけじゃないしなあ……一松は?』
「税理士に丸投げ。おれも書類作業苦手で……良ければ紹介しようか」
『ええ? でも高いんじゃ……』
「相談無料だよ。お願いするかどうかはその後でもいいし」
『じゃあお願いしようかな』
「分かった。後で連絡先送る」
ありがとう、の返事が嬉しそうで、一松の心もふわふわと浮かれてしまう。
『でも急な予定変更で悪いから、今日の埋め合わせはまたさせてくれ!』
申し訳なさそうな声に、本当は食事をしながら切り出す予定だったが、言うのは今がチャンスだと思った。
一松はことさら何でもないような声で切り出す。
「じゃあさ、今度旅行つきあってくんない? 取材旅行」
『取材旅行?』
「漫画で、今度京都に行くシーンがあるんだけど、資料写真じゃわからない部分とか、実際に行って確かめたくて……か、カラ松には、アシスタントってことで一緒に行ってもらえたらって思ったん、ですけど」
緊張してどもってしまった。キモイって思われなかったか、どういう反応なのか、不安にドクドクと鼓動が早まる。
そんな一松の心情を吹き飛ばすように、携帯からは弾むような声が届いた。
『いいな! どのくらいの期間行くんだ?』
「二泊か三泊できたらって思ってるけど……そんなに店閉められない、よね……」
『自営業のいいところは、好きに休めるってことだ! もちろん行く!』
京都かあ、修学旅行ぶりだなあ、なんて楽し気な声に踊りたいほど嬉しくなる。
「じゃあ、また連絡する」
『ああ、待ってる。……ふふ、久しぶりに一松と話せてよかった』
「えっ」
『じゃあな!』
ぷつり、と音が途切れた携帯をまじまじと見つめた。
最後の言葉はどういう意味なんだろうかと、脳が混乱している。
期待していいってこと? それとも単なる友達としての言葉? 友達少ないから正解が判らねえ!
とりあえず原稿と一緒に、この悩みも送ることにしよう。
――担当編集のトド松はのちに、ネタかと思ったら実話だったので取材旅行の経費は全部却下してやろうと思ったという。