僕があなたの傘になる「僕があなたの傘になります」
言った! 言えたぞ! どうだ参ったか赤井秀一っ。
内心の得意顔を隠して、神妙な表情で返事を待つ。振り向いた赤井はフッと笑った。
「今は雨は降っていないが……日傘にもなってくれるのかな」
「え、あ、はい、まあ」
ドキドキして言葉がまともに出てこない。僕のプロポーズっていうか交際申込みっていうか告白は、伝わっているんだろうか。
肌寒い。南の方から順次梅雨入りして、東都にも雨の日が増えてきた。緊張しているせいか、半袖では心許ない気がする。
緑の瞳は、僕をじっと見ている。優しい、切ない、もどかしい色。その強さ故に背負ってしまった悲しみは、奥に隠している。もう、一人で泣かないで。僕にだけは子供みたいな振る舞いを見せてくれるなら、涙も、僕にだけ見せて。濡れないように、凍えないように、天から隠して寄り添ってあげたい。
引き金を引く指が、僕の唇に触れた。日傘でも、折り畳み傘でも、置き傘でも、あなたが望んでくれるなら僕は……いや意味がわからないけど――重なる唇が、答えだった。
「あか、い……」
顔が離れたと思ったら、抱きしめられた。二人の胸が、お互いに聞かせようとするかのように鳴っている。
「ならば俺は、君の上着になろう」
冷えた腕が、温まっていく。
「レインコートにも、何なら手袋にだってなるぞ」
「つまり……寒くなくても……雨じゃなくても?」
「ああ。病める時も、健やかなる時も」
伝わってた。誤解なく。背中に腕をまわすと、ますます強く抱きしめられた。
――ワーッ! パチパチパチ……
「おめでとう安室さん!」
歩美ちゃん、梓さん、園子さんの声がハモる。いつの間にか人だかりができていて、知っている人も知らない人も、僕たちを祝福してくれている。視界の隅で、蘭さんは口に手をあてて頬を染め、今にも叫び出しそうにしているし、毛利先生は優しく頷き、コナンくんは「何で?」という顔をしている。赤井は……赤井は、嬉しそうだ。
思考が停止する。何が起きてこうなった。
♢ ♢ ♢ ♢ ♢
小雨が降る中、赤井が初めて素顔でこの店を訪れた。天気予報は「傘をお忘れなく」だったのに、ライフル以外は持つ気がないみたいに、手ぶらで。体を温めてほしくて、注文のホットコーヒーに、余った賄いのスープを付けて出した。
「全部飲むまで帰しませんから」
僕がそう言って見張るのなんて、この人は慣れている。バーボンとライだった頃からだ。おとなしく両方飲み、試作品のシフォンケーキもぺろりと平らげた。赤井に食べさせたら何て言うだろうな、と想像しながら作ったケーキだった。
「ありがとう、うまかった。コーヒーのお代はここへ置くよ」
「……いつです」
一杯のコーヒーには多い金額。餞別のつもりか。赤井は、驚いた顔をした。僕を甘く見るなよ。
「来月の一日には」
一日には……アメリカに? もう、今日を入れても二十日しかない。いなくなってしまう。僕の世界から。伝えるだけ進歩したのか。いやだ――!
「帰ったら……用心してくださいよ。お前は変に無防備なところがある」
だから、愛される。慕われる。国に捧げた僕の心さえも溶かしてしまった。だけど六千マイルの距離があっては、何もしてやれないに等しい。また勝手に死んだら許さないからな。
「肝に銘じておくよ」
「わかればいい……せめて、傘ぐらいは持って歩け」
窓の外を見ると、雨が上がり、日が差してきている。でもこいつの、ニット帽からはみ出した髪はまだ湿ってる。赤井は僕が睨んでいる部分をつまんでみて、ふむ、と言った。
「大したことはない。雨に濡れても、風邪を引くぐらいで済むさ」
だがありがとう、と礼を繰り返して、少年探偵団にちらりと視線を投げ、出て行こうとしている。
「おい、待てよ」
このまま行かせてなるものか。僕はドアベルを鳴らして赤井を追い、遅い昼食を取りにきた毛利一家とすれ違い――コナンくんは顔を引きつらせ、蘭さんは奴の背をハッとして見つめている――人の行き交う歩道で奴を呼び止めたんだ。
♢ ♢ ♢ ♢ ♢
で、今、往来で抱き合っている。
「このまま指輪を買いに行こうか?」
「僕はまだ仕事中だっ」
恥ずかしくなって叫ぶと、そこだけ聞き取った人たちから口笛が飛んできた。
「ふむ。では、今夜はどうかな」
「別に、いいけど」
僕は開き直って、厚い胸板に顔を埋めた。恥ずかしいけど、こいつに触れていると落ち着く……あと二十日かあ。遠距離婚だなあ。
「はーっ……」
「うん? どうした、ため息をついて」
「つくだろ……また離れなきゃならないのに」
それを聞いた赤井は、急にシリアスな顔になった。僕にしか聞こえない小さな声で、真剣に問いかけてくる。
「どういうことだ。また潜るのか。本来君の立場ならあり得んことだ。それを……」
「何言ってるんだ、お前」
「聞きたくないだろうが言わせてもらう。君は俺にそれだけの立場を与えたのだからな。いいか、」
「いや、そうじゃなくて……僕はどこへも行きませんけど」
喧嘩か?と囁いているギャラリーは、ひとまず置いておく。文句を言いたいのはこっちだ。
「離れていくのはお前の方だろ……アメリカへ」
切ない。体を離そうとすると、赤井は感激したように僕をぎゅっと抱き込んで、頬ずりして、耳にキスをした。それから、堪え切れなくなったようにクククッと笑った。
「何がおかしいんだ……離せって!」
「いや、全く君は……俺のこととなると……ハハッ」
「くそっ……コナンくん、こいつ何とかしてくれないか」
「いや……馬に蹴られる趣味はないんで」
展開が読めないギャラリーは、破局かどうかの賭けを始めている。僕は諦めて、目に涙を浮かべている赤井を睨んだ。
「そこまで笑うことですか」
「ああ。だが、かわいい勘違いはこの先も大歓迎だよ。なあ安室くん、俺はアメリカには行かない。――君の補佐役として残る」
最後の部分は耳許で。
「は?」
赤井が補佐。冗談だろ。
「名目は何でもいい。君のそばには俺が必要だと、上が判断した。来月の一日には就任予定だ」
「そんなことって……」
「もちろん、一方的な話ではない。俺は君のそばにいる方がやる気を出すんじゃないかということになってね」
ということは、FBIの籍はそのままか。何がなんだかわからないけど、この幸せは現実のようだ。
僕は赤井の頬をなで、提案した。
「指輪は今夜。結婚式は今からポアロで、っていうの、どうですか?」
頷いた顎が、小さく震えている。幸せになろうな、赤井。僕たちが空へ見送るしかなかった人たちの分も、精一杯生きていこう。
♢ ♢ ♢ ♢ ♢
「喫茶店で結婚式?」
「うん。お前とバーボンで、そういう任務が入った。もちろん偽装」
「……任務なら、仕方ないですね。あなたの彼女には、ちゃんと説明しておいてくださいよ。余計な恨みを買うのはごめんです」
「ああ」
病める時も健やかなる時も、この人の隣に一生いるのは、一体誰なんだろう。明美とは、多分――。式を取り仕切る人物になりすましたスコッチの前で、そんなことを思いながら誓いの言葉を交わした。指輪の交換とキスは、予定されていた爆発でお預けとなった。
途切れたかに見えた僕たちの赤い糸は、数年後、どこかあの店に似たポアロで、大勢の人に祝福され、永遠のものとなった。